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春の陽光、鈴木さんの影
「ほら、そこ! 足元がふらついてるわよ! それじゃ魚屋の源さんに笑われるわ!」
朱里は、首に巻いた|手拭《てぬぐ》いをキリリと締め直し、自分より大きな男子生徒たちに|激《げき》を飛ばしていた。小柄な彼女が仁王立ちで叫ぶ姿は、まさに『猛獣使いの幼子』といった風情である。
一方、本部テントの中では、鈴音が応援に徹していた。
「がんばってー!」
鈴音は、いつものおっとりした声を張り上げ、両手を口の脇に添えて遠くへ響かせる。そんな彼女の姿に疑問を持ったのか、梨花が不思議そうに小首を傾げた。
「鈴音さん。それは……いったい何をしてらっしゃるの?」
「あら、すみません。ご不快に思われましたか?」
「いえ、ただ……あのような所作は、見たことがなかったもので」
浅倉本家の令嬢、いわゆる「箱入り娘」である梨花。彼女が通う私立の一貫校は、政治家や実業家の子息が集う紳士淑女の学び舎だ。
(体育祭はあっても、あんなふうに声を張り上げる応援はしないのかもしれないわね)
市井の運動会では、泥まみれになり、汗を流して一生懸命に走る。そんな姿に親も教師も一丸となって声を枯らす。梨花には、そんな「一生残る熱い思い出」が存在しないのかもしれない。
(……少し、可哀想かも)
「これは、選手を応援しているのですよ」
「……? 応援とは、拍手でするものではないのですか?」
「ふふ、市井ではこうして声を届けるのも応援なんです」
「そうなのですか」と、梨花は初めて見る文化に触れたかのように、感嘆の声を漏らした。
「梨花様に教えましょうか?」
「本当ですか! ぜひお願い、いたし……」
「お嬢様」
梨花の後ろに控えていた使用人の男が、冷や水を浴びせるような声をかけた。
(やはり、本家的には『はしたない』と映るわよね)
せっかくなら、梨花に普段できない体験をさせてあげたかった。そんな鈴音の優しさが、使用人の一言で無残に遮られてしまう。
「倉野」
梨花が、先ほどまでの柔和な表情からは想像もつかないほど冷徹な声を発した。
「せっかくの機会ですのよ。ここで学ばずして、いつ学ぶというのです?」
丁寧だが、絶対的な服従を強いる「|主《あるじ》」としての響き。だが、使用人の倉野はその圧をものともせず、|慇懃《いんぎん》な無礼さで深く頭を下げた。
「お嬢様は、正当なる浅倉の血筋。分家の方々とは、お立場が違うのです」
(あらまぁ。これが『水面下の戦い』というわけね)
鈴音は確信した。この倉野という男は、梨花個人の側用人ではない。おそらくは本家当主、浅倉誠一が放った「監視役」なのだ。当主の影を背負っているからこそ、梨花の威圧に屈することなく、分家を露骨に|貶《おとし》めるような発言ができる。
(梨花様専属の者であれば、ここで黙秘する術も心得ていたでしょうけれど……)
しかし、目の前の現実は残酷だ。倉野は、梨花の意思を尊重する味方などでは決してなかった。
「すみません、鈴音さん」
「……」
(……なんと、お声をかければいいのかしら)
薬に対しても、それ以外の物事に対しても、知らないことを知りたいと願う。そんな旺盛な知的好奇心を抱えた梨花は、今、まさに本家の重圧に苦しんでいる。
(可哀想……)
生まれ育った環境が違うだけで、ささやかな願いさえ叶わない。周囲からは|羨望《せんぼう》や|妬《ねた》みの対象になることも多いだろう。それでも、本人が心から望むことは何一つできないのだ。
可哀想——その言葉をどれほど費やしても、彼女が抱える闇は底知れない。
だからこそ、鈴音はその言葉を口には出さない。安易な同情は、梨花がこれまで懸命に積み上げてきた矜持を否定することに他ならないからだ。
「気にしないでくださいね」
梨花は、先ほどまでの冷徹な響きとは打って変わり、幾分か明るいトーンでそう告げた。この話題はここで終わり——そう、静かに幕を引いたのだ。
(私には、何もしてあげられない……)
分家である鈴音は、本家の決定に口を挟む権利を持たない。そしてたとえ本家の人間であっても、背負った歴史が梨花の自由を阻むだろう。
(頭の中が、ぐるぐると回るわ)
この孤独な令嬢を、誰か救い出してくれる人はいないのだろうか。
◆◆◆◆◆◆
「……ねえ、朱里さん。あそこにいる若者たち、さっきから練習が全く進んでいないようなのだけれど」
梨花が不思議そうに小首をかしげた。
無理もない。藤色のカーディガンを|纏《まと》った『街のマドンナ』鈴音と、水色のサマードレスを春風にそよがせる『本家のご令嬢』梨花。奇跡が二つ並んで座っているのだ。
トラックを走る若者たちは、ゴールテープではなく彼女たちの横顔に釘付けになり、足をもつれさせては次々と砂に突っ込んでいた。
「もう! あんたたち、シャキッとしなさいよ! 鼻の下を伸ばしてる暇があったら、アキレス腱を伸ばしなさい!」
(確かに綺麗だけど、それがなんなのよ!)
朱里の怒声が飛ぶが、若者たちの耳には届かない。「おい、あのお方はどこのお姫様だ」「天女の競演じゃないか」と、もはや予行練習どころではない騒ぎである。
(ほんと、馬鹿ね!)
そんな|喧騒《けんそう》の端っこで、朱里はふと足を止めた。
視線の先には、町内会対抗の『大玉転がし』に参加している鈴木さんの姿があった。いつもの丁寧な着物姿ではなく、動きやすそうなもんぺ姿で必死に大玉を押している。
(……あれ? おかしいわね)
朱里は周囲を見回した。
鈴木さんは、薬屋で「父の介護につきっきり」と言っていた。けれど、今日のような行事には、普通なら動けるお年寄りは皆、見学に来るものだ。特に鈴木さんの父親は、かつて商店街の役員を務めたほどのお祭り好き。予行練習から最前列に陣取るのが恒例だったはずだ。
だが、本部の来賓席にも、敬老席のテントの下にも、あの頑固そうな老人の姿はどこにもなかった。
(あのお祭り好きが、家でじっとしていられるはずがないわ……)
大玉の交代のタイミングを見計らい、朱里は駆け寄って声をかけた。
「鈴木さん、お疲れ様です! 今日、お父様は?」
「ああ、朱里ちゃん。父はね……ほら、今日は日差しが強いから。家で寝ている方がいいって言ったのよ」
鈴木さんはそう言って、朱里と目を合わせないまま、逃げるように次の競技へと向かっていった。
その言葉を聞いて、朱里の眉間に鋭い皺が寄った。今日は雲ひとつない快晴だが、風は冷たく、日差しも穏やかだ。「日差しが強いから」という理由は、外を歩く者が、家の中にいる者を思い浮かべて作った、安っぽい「嘘」のように聞こえた。
(なんなのかしら、この違和感……)
砂埃が舞い、若者たちが浮き足立つこの明るい校庭で、鈴木さんの周辺だけが、まるで音を吸い込む深い井戸のように見えた。
◆◆◆◆◆◆
校庭のスピーカーから、音割れした行進曲が鳴り響く。
「次は『パン食い競争』の予行です! 選手は招集所に集まってください!」
その放送を聞いた瞬間、朱里は隣のパイプ椅子を叩いた。
「ほら、お姉ちゃん! 出番よ、猛獣になりなさい!」
「あらあら、もうそんな時間?」
鈴音がおっとりと立ち上がると、梨花も楽しそうに目を輝かせた。
「パンを、空中で……? 私も近くで拝見してもよろしいかしら」
「お嬢様……」
「もちろんですよ、梨花様! さあ、こっちへ!」
監視役である倉野の制止は、朱里の威勢のいい声にかき消された。朱里は、彼がいかにも嫌そうに睨み付けてくる視線をどこ吹く風と受け流す。倉野はやがて「見るだけなら」と諦めたように、梨花の肩から手をおろした。
朱里が二人を連れてトラックの脇へ移動すると、そこには|阿鼻叫喚《あびきょうかん》の図が広がっていた。
吊るされたあんパンを目がけて飛びつく商店街の面々。だが、彼らの視線はパンではなく、観戦エリアに現れた梨花と鈴音に釘付けだ。
「うわっ!」
「あがっ!」
八百屋のサブちゃんは梨花に見とれてパンを無視し、吊るされた紐に顔面を強打。魚屋の源さんに至っては、パンを咥える瞬間に鈴音と目が合い、顎を外しそうになって悶絶している。
「ちょっと! あんたたち、真面目に食らいつきなさいよ!」
(ほんと、男って馬鹿ね!)
朱里が怒鳴り散らしていると、ふと、隣のレーンで順番を待つ鈴木さんの姿が目に入った。彼女の手には、場違いな「小さなタッパー」が握られている。
パン食い競争は、その場でパンを咥え、そのままゴールまで走り抜けるのがルールだ。だが鈴木さんは、自分の番が来ると、揺れるパンを必死に手で押さえ(立派な反則である)、口で受け止めるのではなく、まるで宝物でも扱うように素早くタッパーの中へパンを押し込んだのだ。
(えっ……今、食べなかった……?)
そのままゴールへ走り去る鈴木さんの背中を、朱里は凝視した。
運動会において、景品のパンはその場で食べるか、家族で分かち合う「戦利品」だ。けれど、今の鈴木さんの手つきは、まるでもっと切実な、別の目的があるように見えた。
さらに不審な点は続く。町内対抗『ムカデ競争』の予行が始まると、最後尾に加わった鈴木さんの足取りが明らかに不安定だった。
「鈴木さん、足が逆! 右からですよ!」
「ごめんなさい、朱里ちゃん。なんだか……最近、夜中に何度も起こされるせいか、頭がぼうっとしてしまって」
力なく漏らされたその言葉に、朱里は足を止めた。
(夜中に何度も起こされる……? お父さんの介護で?)
それなら、なおさら「日差しが強いから家で寝ている」という説明と辻褄が合わない。体調が悪いなら夜中に動き回るはずがないのだ。
校庭に響く万雷の拍手と、梨花に向けられた若者たちの歓声。その華やかな騒ぎの影で、朱里は鈴木さんのタッパーに隠された「あんパン」と、先日彼女が大量に買い込んでいた「氷砂糖」を、頭の中で必死に繋ぎ合わせようとしていた。