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恐竜と人間の足跡 ―― デルク・トラックと楽園 ――
ある化石の発見に、人々が驚いた記憶は、既に風化しつつある。
それは恐竜の足跡の横に、人間の靴底の跡がある化石だ。オーパーツなのだという。勿論、恐竜がいた時代には、スニーカーを履いた人間がいるわけがない。贋作だという声も大きいが、確かにその化石は、今も残っている。本物を見た時、子供心に俺はワクワクした。すると一緒に見ていた兄が、俺の頭を優しく撫でた。十歳年上の兄は、当時十七歳。
「お兄ちゃん、これは未来からタムスリップして、恐竜の時代にいったのかな?」
「さぁ、どうだろうね」
微笑した兄の目元は優しかった。
大学院まで飛び級で卒業した兄は、タイムマシン研究をしていたので、七歳だった俺は当時、近い将来には過去に行くことが出来るのではないかと思っていた。
それから十二年後。
俺が十九歳になった年、二十九歳となった兄が、リビングのソファでカタログを見ていた時、俺はパンケーキを焼きながら声をかけた。
「蜂蜜とバターでいいか?」
「うーん、弱ったなぁ」
「え? サラダ系の方がいいか?」
「いや、そうじゃなくてね」
兄はそう言うと立ち上がり、俺の方へとやってきた。
「このスニーカー、ちょっと変わった靴底のモデルでね」
「うん」
「――ああ、そうだ。プレゼントしょうか。何色が好き?」
「その中なら緑だけど……靴底?」
「なんでもないよ。蜂蜜でいい、ああ、美味しそうだ」
と、こうして俺達は朝食にした。
その兄が失踪したのは、それから三ヶ月後のことだった。俺はその日、兄がプレゼントしてくれたスニーカーを受け取り、お礼を言うべく兄を待っていたのだけれど、兄はそれ以後半年経っても帰ってこず、音信不通になってしまった。俺達は二人きりの家族なので、心配していたのだが……兄からは連絡の一つも無い。
一番最後に兄から着ていたトークアプリのメッセージは、以下だ。
『僕がいなくなっても、探しに来てはダメだよ』
警察は、これは遺書ではないかと俺に言ったが、俺はそんなことは信じない。
そんなある日、兄が所属していた研究室から、兄の私物を引き取りに来て欲しいという連絡があった。兄の痕跡が消えてしまうようで寂しく思いながら、俺はとぼとぼと研究所へと向かう。そしてタイムマシンの研究室に入り、兄の論文などが入っている箱を見た。
「あ……」
そこには、いつか兄と見た、『恐竜の足跡とスニーカーの化石』の写真があった。
俺はその時、思わず自分の足元を見る。
――変わった靴底?
兄の言葉を思い出し、俺はスニーカーの片方を脱いで、ひっくり返してみた。すると写真の靴底にそっくりの波形の模様がある。俺は冷や汗をかいた。兄は、もしかして、タイムマシンを自分で使ったのだろうか? だが、兄が失踪した時は、まだこのスニーカーは予約段階であり、発売されていなかった。だとすれば、タイムマシンに乗って、俺が過去に遡って兄を探しに行き、恐竜の足跡の横を踏んでしまう……そんな未来あるいは過去は、あり得るのだろうか?
『僕がいなくなっても、探しに来てはダメだよ』
甦る、メッセージの一文。
俺はゴクリと唾液を嚥下し、両腕で体を抱いてから、荷物を手に帰宅した。
そして我が家の地下に、内密に兄が設置していたタイムマシンの前に立った。タイムマシンの前は巨大なレンジのような形をしていて、戻りたい時代にタイマーを合わせて、中に入ると移動出来るという代物だ。そしてタイマーの下に、何日間滞在するかを入力できる。俺は改めてタイムマシンのタイマーを見た。恐竜がいた時代に設定されている。滞在期間は、三ヶ月に設定されていた。即ち、兄は今九ヶ月ほど姿がないわけであるから、要するに時間移動は失敗し、戻ってこられない状態なのかもしれない。そうか……兄は、過去に行っているのか。
まだ、政府の認可が下りていないので、物質の移動以外のタイムマシン利用は禁止されている。人間の移動は、未来を改変してしまうかもしれないからと、訓練を積んだ一部の研究者のみが実験を許されているが、許可を得るには何年もかかる。だから兄も独断でタイムマシンを利用したのかもしれない。
「迎えに行かないとな。接触している相手は、連れて帰ってこられるというし」
俺はそう呟いて、スニーカーを見る。
そして迷わずに、タイムマシンへと入った。
「っ」
すると光が溢れて、気づくと俺は真夏のような日差しを一身に受けていた。ただ雨上がりのようで、土がぬかるんでいる。一歩踏み出すと、俺の足跡が土についた。
何かが走ってくる音が響き、鳴き声がし、鳥たちが逃げるように飛んでいったのはその時で、俺が振り返るとそこには巨大な恐竜の姿があった。青ざめた俺は、一歩後ずさる。俺の付けた足跡の隣に、その恐竜の足跡がついた直後、口を開けた恐竜が俺に迫ってきた。思わず両腕を前に出して庇った時――銃声が聞こえた。俺の目の前で、恐竜の巨体が傾き、倒れる。
「探しに来てはダメだと言ったじゃないか」
「兄さん!」
恐竜を銃撃して倒した兄は、苦笑している。俺は久しぶりに会う兄の姿に、涙腺が緩んだ。
「なにやってるんだよ! 帰ろう!」
「実はね、きっと隆哉なら来ると思ったから、僕は実験したかったんだよ。巻きこんでしまってごめんね」
「実験?」
「そのスニーカーの隣に、僕の革靴の跡も残す。そうしたら、僕たちが戻った未来で、化石はどう変化するのかと思って。この程度の未来の改変ならば、許されると信じよう」
兄はそう言うと、土を踏んだ。
その後俺は兄の腕を掴み、俺が設定した半日後に、無事に現在あるいは未来への帰還に成功した。すると。
「あ」
俺が兄の研究室から持ってきた写真に映る化石には、恐竜の足跡が一つと、スニーカーの足跡が一つ、革靴の跡が一つついていた。けれど――地下室に俺達が戻って振り返ると、そこにはタイムマシンが無くなっていた。
現在は、2025年。
タイムマシンなど存在しないというのが、世間の見解らしい。確かに俺が知る本当の現代では、兄はタイムマシンを研究していたというのに。兄はタイムマシンではなく量子力学の研究者ということになっていた。
「些細なことでも、やはり未来は変わってしまうんだねぇ」
兄はそう言いながら、知識は全て残っているため、秘密裏にまた家の地下にタイムマシンを作成して設置した。
「ねぇ、隆哉。僕はもう一度試したいんだ」
「うん? も、もし失敗したらどうするんだよ?」
「その時は、その時さ。僕はね、見たいものがあるんだよ」
「見たいもの……?」
俺が首を傾げると、微笑した兄が大きく頷いた。
「あの時代には、人間はいないはずなのに――確かに歌声を聞いたんだ。一人きりの時間が長いから幻聴かと思ったけれど、多分違う。あれは……あの区画は、おそらく聖典が説く楽園なんじゃないかと思う。確かに、一人の女性が立っているのを僕は見た。いるはずがないのに。僕は彼女に恋をしてしまったんだ。だから、会いに行く。今度こそ、僕のことは迎えに来なくていい」
それを聞き、俺は不安に駆られた。兄は俺を一人にするつもりらしい。だけど、兄の幸せが一番なので、俺は自分の辛さはグッと堪える。
「兄さん……出来れば、帰ってきてくれ」
その後、兄はタイムマシンの中へと入った。
戻ってくる時間の指定は、一応半年後になっていた。俺は、未来が変わるとしても、どうせならば、その女性を連れて戻ってくればいいじゃないかと思っていた。
……が。
俺は翌日、大学の総合講義で宗教学の授業に出席し、目を剥いた。
『楽園にはアダムとイヴがいました』
と、語る教授。昨日まで、聖典にある楽園には、イヴしかいなかった。アダムという男はいなかった。そして俺の兄の名前は|寇夢《あだむ》だ。兄もまた、楽園があるのではないかと話していた。未来はおろか、宗教の要素がまるで変化した。聖典で語られているアダムは、その後子孫に恵まれ、幸せそうにも思えた。
――その後、兄が帰ってくることはなかった。
そして写真には、点々と裸足の男の足跡が見えた。この恐竜と人間の足跡の写真は、デルク・トラックと呼ばれている、オーパーツとされている。俺は思う。この足跡の行く先は、きっと楽園なのだろうと。
(終)