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幻の狼
「クソ、厄介だ、な!」
刃の先で魔獣の体がゆらめく。
モルズとイバネスを取り囲むのは、黒い体毛の狼である。
数はおよそ十数体。
イバネスが長剣を閃かせ、魔獣の体を一刀両断する。
刃が通った瞬間、魔獣はその体を幻だったかのようにゆらめかせ、霧散した。
『……』
すぐさま追加の狼がモルズたちを睨めつけた。
一体減ったと思えば、こうしてまたどこからともなく静かに現れる。
ずっと前からこの調子だ。
モルズたちは、この狼は幻に類するモノで、本体は別にいると睨んでいる。
「このままでは埒が明きません! モルズさんは一時離脱し、本体を撃破してください!」
「分かった」
モルズは今戦っている狼を倒すと、後ろに大きく跳んだ。モルズを逃がすまいと狼も前に出てくるが、イバネスがそうはさせない。剣を振るい、狼たちを牽制していた。
恐らく長くは持たないだろう。イバネスが限界を迎え、戦線が崩壊する前に本体を倒さなければ。
なぜ幻の狼を生み出す? |自分《本体》が倒されたくないからだ。ならば本体は戦わず隠れているはず。
そんなことを考えながら、狼が出現し向かってくる経路を見やる。
前へ、上へ。狼が通る経路から少しだけ離れたところを進む。
できるだけ狼との接触を避け、一気に本体を叩きたい。幸い、今はイバネスが引きつけてくれているため、モルズの方に向かってくるものは零に等しい。
徐々に、狼の群れの中心に近づいていく。
モルズは、大きく跳躍した。狼の群れを上から見るために。
モルズの体は宙を舞い、地面に落ちていく。しかしそれでも、モルズは変わらず狼たちを見据えていた。
――何か、他の個体と違う動きをする個体は?
いた。
他の個体がイバネスに向かっていく中、一体だけ真逆のイバネスから逃げるような向きになっている。
空中で姿勢を制御、着地した直後から狼の群れの中に飛び込んでいく。
もうここまでくればがむしゃらだ、本体でない狼も全て切り捨て、本体に迫る。
本体も己が狙われていることに気がついているのか、イバネスに差し向ける狼より自分の周囲に待機させる狼の方が数が多くなっている。
モルズは狼にもみくちゃにされながら、されど本体から目を離さない。
――狼の黄色く濁った瞳と目が合った。
その時、狼が何を思っていたか、モルズには分からない。
――チャンス。
狼と狼の間、モルズと本体の間。ずっと体を張って本体を守ってきた狼が、何の偶然か、今はモルズと本体の間をがら空きにしている。
モルズは、右手の短剣を大きく振りかぶった。勢いをつけ、手を離す。投擲。
さすがにこの距離で外すことはなく、短剣の刃は狼の頭をかち割った。
本体の死と共に、幻の狼は地面に溶けるように消える。
勝った。
イバネスは無事だろうか。
倒さなくても良かったとはいえ、あの数の狼を相手して無傷というわけでもないだろう。確実に疲弊している。
もし疲弊したところを別の魔獣に襲われでもしたら、イバネスはひとたまりもない。
――と焦ってきたが、それは杞憂だった。
「モルズさん、今回もお疲れ様です」
小さな傷がありこそすれ、大きな傷もなく、それどころか余裕すら見える笑みでイバネスが手を差し出した。
モルズも同様に手を出し、握手と呼ぶには勢いのありすぎる握手をする。
その顔には達成感に満ちた笑みが浮かんでいた。
「さあ、見回りの続きを行いましょう」
達成感に浸る時間は終わり。王都の安全を守るため、見回りをする時間が再び始まる。
「了解」
魔王軍の宣戦布告から早一年。
すっかりこの仕事にも慣れ、イバネスとの連携も取れるようになったモルズは、再び森の見回りを始めた。
――先ほどのような魔獣が出るのは、もう珍しくない。魔王が侵攻してくるようになってからは、一ヶ月に一度以上は発生するようになっていた。
角の生えた兎のような魔獣。
角にさえ気をつけていれば問題なし、討伐完了。
鼠と猫を強引にくっつけたような魔獣。
大きな前歯と高い脚力に気をつければ対処は容易だ、討伐完了。
羽の生えた犬の魔獣。
|上《空》を取られたのは痛かったが、攻撃するためには近づく必要がある、討伐完了。
数々の魔獣を倒し、夜、宿舎にて。
モルズはイバネスから今日の報酬を受け取り、革袋に入れる。
雇われた時は固定報酬制(毎日金貨四枚)だったが、魔王軍の侵攻が活発になった現在、報酬は出来高制となっている。それは魔獣から国民を守るためには金に糸目をつけない王国といえど、十分な数の傭兵を雇うのにお金が足りなかったからである。
革袋の中には、金貨がずっしり詰まっていた。
これでおよそ千五百枚。
家を建てるには金貨二千枚弱は必要だと聞くから、このままいけば後一年もしないうちに稼げるはずだ。
モルズはうんと伸びをした。
もう一つ革袋を取り出し、その中から銀貨を二枚取り出す。
それを持って、宿舎に隣接する食堂へ腹ごしらえに行った。
◆
夜、この場にいる全員が寝静まった頃。
――魔王軍は、ある作戦を決行した。
その作戦の内容は――
魔王の能力により次々に転送される魔獣たち。
血に濡れた狼。
遥か上空から獲物の頭を狙って降下してくる鳥。
大きな石が連結した巨大な岩人形。
無限に増殖する羽虫。
先端が鋭く尖った種を飛ばしてくる人型の植物。
空を泳ぐ爆発する魚。
|蟹《横》歩きという枷を取り払い、前後左右に素早く動く|蟹《かに》。
機動力の一切を捨て、全てを防御力に充てた亀。
全身に鋭い棘を生やした|鰐《わに》。
ひたすらに、呪いと疫病をまき散らす黒き|鼠《ねずみ》。
頭の角を掲げ、自らの命など気にせず突撃してくる牛。
遠くから獲物を見定め静かに狩る暗殺者、|梟《ふくろう》。
ありとあらゆる種類の魔獣が、もはや「獣」と呼ぶことさえはばかられる風貌の魔獣までもが集結する。
その数は百を超え、千を超えた今もなお増え続けている。
魔王から軍勢の魔獣に命令が出る。
その内容は、「全軍前進、王都に侵攻せよ」。
魔王軍は歓喜の雄叫びを上げ、戦意を昂らせて王都に迫る。
一年間も落とすことができず、耐え続けられていたことが余程腹に据えかねたらしい。
巨大な岩人形が腕を大きく振りかぶり、王都を囲む防壁を砕こうとする。
初めのうちは轟音が響くだけで一向に崩れる気配はなかったが、そのうちパラパラと石が落ちてくるようになり、ついには轟音を立てて防壁が崩れ落ちた。
防壁だったものを踏み越え、狼が、獰猛な鳥が、岩人形が、羽虫たちが、異形の植物が、爆発魚が、蟹が、亀が、鰐が、鼠が、牛が、梟が、王都の中に進軍する。
当然、王都も防壁が崩れれば落ちるような|柔《ヤワ》な作りはしていない。
すぐさま警報が鳴り響き、騎士が駆けつけた。
住民はこれまで何度も行ってきた避難訓練の記憶を頼りに、迅速に王都から避難した。
魔王軍はこれを意に介さず、視界に入ってきた|魔王軍《なかま》以外のものに対し破壊の限りを尽くす。
魔王軍の移動に巻き込まれ、家が粉砕された。
逃げ遅れた人々が踏み潰された。
駆けつけた騎士がその圧倒的な物量を前に敗北した。
――王都の危機は、近くの森にいるモルズたちにも届く。