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出会
そんな訳で、存分に不自由というこの上ない自由を堪能していたゴーゴリの元にある日、1人の男が訪れた。
それはウシャンカを被った男だった。全身をぬくめそうな外套が、重たげに揺れる。目深に被った帽子と黒髪の間から、真っ暗な瞳が覗いている。美しいのに、泥水の底のようにどろどろに濁っている。見開いたような、目だけで笑っているような貌は不気味だった。
「今日は」
男が挨拶を述べる。声は確かに男のものだが、どこか色めいていた。瞳と同じく美しくどろりと濁った声だった。
ゴーゴリは男をぼんやりと眺めて、ぼんやりと声を聴いた。誰かなぁ、すごくロシア人っぽいけど。同郷の人間なら母国語が通じるかな。怠惰の中に僅かな好奇心を動かして、薄い唇同士を離した。
「Привет. Как вы себя чувствуете?」
ゴーゴリの挨拶に、男は少し痩けた頬で笑む。その笑顔のまま答えた。
「Я в порядке.」
通じる。
嬉しくなったゴーゴリは、座っていた重機から飛び降りた。この奇妙な同郷らしい男に、更に問いかける。
「Кто ты?」
「Я Федор Достоевский.」
ふぅん、名前はフョードル・ドストエフスキーね。口の中で端麗なその名を転がしながら、ゴーゴリはじっと彼を、フョードルを観察する。
日本の方がロシアに比べてずっと温暖だというのに、故郷でするような暖かい服を装っている。寒がりなのだろうか。
外套の下の身体は、服越しにも分かる程ひどく痩せている。病でも患っているのか顔色は青白い。
「君は何でここに来たの?」
横浜で暮らす上で培われた流暢な日本語で話しかけると、フョードルは笑みを崩さないまま「あなたに会いに」と答えた。口説き文句のような甘さを孕んだ声と台詞だったが、ゴーゴリの気にしたのはそこではない。彼は日本語も流暢だ。尤も、先程挨拶された際、発音の滑らかさから想定してはいたことだった。ゴーゴリはまたもや好奇心を揺られた。こんなことは久しぶりだった。
「你来看我真是奇怪。因为这是我们第一次见面,对吧?」
今度は中国語で語りかけてみると、それにも涼しい顔で
「你才是更奇怪的人,住在废弃的工厂里,不是吗?」
と返される。
次には韓国語で
「그럼 우리들은 모여 변인이라는 셈이다.그래서, 나에게 무엇을 해 주었으면 했는지?
여기를 떠나라고 말한다면 거절하지만.」
こう言うと、これにも笑顔で
「그런 것은 아닙니다.」
と答えた。
ゴーゴリはすっかり面白くなった。この男、相当教養があるようだ。