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6 水
第4話です。
……やばくないか、この量。
と思った回数は、ダントツで今日だと思う。
目の前の光景はありふれた天気だ。
空から雨、上から雨、滴り落ちる雨……。雨、雨、雨。
無数の雨粒が縦に引き延ばされて矢のように突き刺している。粒が地面に到達し、着弾するや、細長い針のような形は吸収されて水たまりに。波紋状に広がろうとするが、すぐさま別の雨粒が着弾し、波紋は次々と崩れ去って水たまりの奥に消失していった。
それが無数に続けられていって、水たまりは徐々に厚みのある水かさとなり、その量は着実に増えている。水かさは、単なる水たまりからチラホラとある湿原のなかの湖になり、それらの距離が短くなって短くなって……ひとつに統合されて。やがて。
厚い石畳を覆い隠すほどの雨量で、大体十センチといったところか。
けれども、このありふれた雨の具合が、そろそろ稀有な現象になるのは時間の問題なんだろう。
だって、見えないんだもん。石畳を覆い隠すほどの量……、この比喩は間違いじゃない。
ふつうここから見えるはずなんだよな、石畳って白いんだから。でも、見えない。ほんの数分前には見えていたはずなのに。かさは十五センチ、二十センチと増えていく。
ここに地終わり海始まる、という感じ。黒々とした汚らしい海が広がろうとしている……
いやだなぁ。
この水、めっちゃくちゃに黒いよ。すっげー濁ってるよ。
駅ビル同士の隙間って人が入らないからちゃんと清掃できないんだろう、だからこんなに汚い水になるのかな。
色合い的に泥水じゃないんだよね。『まっくろ』なんだよね。長年溜まった埃だったり、巻き上げられた排気ガスだったり、砂や泥だったり。それでこんなヘドロが地べたを這いずり回ってるんだ。
しかし今までにないタイプの雨。朝から夜にかけて、間断なく、本当に間断なく雨が降り続けている。
なのに、風は全くなく、すべて雨音だけで占めている。本当に『雨』の独壇場だ。
「ああ。雨、早く止まないかな」
こうやってぼくがつぶやいてみせても、何も返答は返ってこない。今は無風状態だから、彼はしゃべらないのだろう。ここから去ってとっくにいない。現に昨日、いっぱいしゃべってたし。群馬に行かなきゃとか言ってたし。
そう考えていると、黒々とした海面に変化があった。ぼくにとっては死活問題となる危険なものだ。
黒い泥水の量が上に上に……、一気に加速したのだ。これは雨量が増したのではない、どこかしら水の溜まったタンクに穴をあけたような、水道の蛇口をふたひねりしたような、加速器が付いて急発進でもしたかのような。そんな速さになった。
雨の滴る音の合間に、別の音が聞こえてくる。車かバスが出す走行音とかクラクションとか、そういうものじゃない。ロボットのようにカタコトの、女性の声。これは……避難勧告?
「川」「危険水位」「氾濫した可能性」……雨音で地表を打ち鳴らしているなか、機械の声はかすれ気味で反響してしまっている。けれども、何度もそれらの言葉を繰り返しているから、雨の日のリスニングテストに合格した。
そういえば、去り際にこんなことを言っていたな。『洪水』が起きるぞって。
ということは、だ。……おい。ちょっと待てよ。このままだとやばくないか?
どうすればいいのか分からず途方に暮れて、見上げたくなる。たぶん空は暗くなっていて、その色は曇り空なのか、もともとの薄汚れた建物の壁で遮られた景色なのか分からなくなっていることだろう。晴れていれば見上げなくてもわかるのに。
彼は自然の一部であり、神様……つまり、風の化身だと言っていた。
とすれば、この雨も、別の神様がいるのではないか。そんなことを思ってしまう。
「……」
気の迷いでちょっとつぶやいてしまう。「……やあ」
すると、≪やあ≫と返ってくる……だなんてことはなかった。反応なし。真剣に考えてみれば当たり前だ。当たり前だったのに、いやにショックが大きい。
「雨の神様だなんて、いないよなぁー」
神様って喋らないだろ普通。饒舌とかもっての外。
あいつが奇妙なだけなんだ、と結論づけた。
しかし、この雨は異常だ。近くの川が決壊するだなんてこと、そうそうあるものじゃない。
ぼくがいる場所すれすれの位置で、奇跡的に止まってくれているが、何かに憤慨したようにやんでくれない。『ヤンデレ』状態だ。
これ以上降るとなるとぼくはなすすべもなく流されてしまう。箱型である祠もまた、ぷかぷかと浮いて流されるだろう。祠が流されればぼくも流される。祠とは一蓮托生なのだが。
ああ、この水、顔に漬けたくねー。浮かびたくねー。そういえば、ぼくの身体って水に浮かぶのかなあ。
ぼくはひな人形なので、本体は|桐《きり》と呼ばれる木でできている……らしい。そう彼が言っていた。
木は水に浮かぶ印象を持つのだが、目の前は泥水だぞ? 果たしてこの身体にもそれが適用されるのだろうか。
……そうでなかったとしたら?
そう思うと、どうしようもない絶望感が背中にのしかかってきた。
万事休す、どうすればいいんだ。これ以上、黒い粒まみれの衣服がさらに汚れるのは勘弁願いたい。喪服着てるわけじゃないんだぞ、もとは華やかな着物だったんだから、たぶん!
あっ、そういえばぼくは祠の前にいるんだった。彼が言うには、守り神は只今品切れ中……じゃない。どこかに雲隠れしているわけだが、それでも神頼みをしたくなる。
それが、主の居ない祠でも……だ!
今のこの状況は、ねこの手でも借りたい気分なのだ。
早く止んで、早く止んで、早く止んで……
祠の前で、ぼくは一生懸命に祈った。
昔の人たちは、こうして自然と祈ったのだろう。自然の暴威に自然と。このどうしようもない恐怖を心に受け止めながら、自然に感謝し、神様にすがる。
雨の神様。恵みの雨、ありがとうございます。
でも、やりすぎはダメだから。
これ以上やると、ぼく君のこと一生嫌いって断言するから。今すぐ止んでくれたら、ぼくを助けてくれたら、君のこと大好きってことになるから。
だからね、お願い。お願いします。
あと言っておくけどごめんね。ぼく動かない身体だから。鳥居に背中を向けちゃって祈ってるけど、神様なんだから、その辺はそんなに気にしないよね。
最後の方は何を口にしているのか分からなくなってしまったが、ぼくの願いが通ったようだ。みるみるうちに雨の気配が消えていった。かさの増加傾向がなくなり、フラットになった。
上の隙間に見えていた雲が横に流されたようで、しばらくすると光の筋が入ってきた。祠の雰囲気を支配する明暗が、入れ代わり立ち代わりに交代する。
ふー、良かったー。
ぼくは安堵を胸になでおろした。そして思った。
これが〝サプライズ〟だなんて思ってる彼に、忠告の文句を言ってやろう。
彼が来るのは一か月後だと言っていた。一か月、いやに長いけど、まあいいか。
それまでぼくは目の前のヘドロを池に見立て、彼の文句をあげつらっては投げ込んでやったのだ。