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**傘と、名前と、あの日のこと**
次の日も、雨が降っていた。
霧のように細かくて、触れたらすぐに消えてしまいそうな雨。
まるで、心の中にある「話しかけたいけど、話しかけられない」その気持ちに似ていた。
柚子月は、昨日と同じ場所に立っていた。傘を、ぎゅっと握って。
(今日こそ……)
だけど、ホームの向こう。彼の姿がなかった。
電車が何本か来ては去り、人が通り過ぎても、彼は現れない。
(もしかして……昨日、微笑んだのは“もう関わりません”って意味だったのかな)
不安が胸を占めていく。
けれどそのとき。
向かいのホーム、階段の上に、白いシャツの人影が見えた。
彼だった。
少し息を切らしながらも、落ち着いた足取りでホームへと歩いてくる。
そして、昨日と同じ位置に立ち、文庫本を開いた。
その瞬間、彼が顔を上げて、こちらを見た。
目が合う。
(今なら、行ける——!)
勢いに任せて、柚子月は階段を駆け下り、彼がいるホームへと移動した。
心臓が、暴れている。緊張で手汗がにじむ。でも、傘を返す。それだけなんだから。
彼の前に立った瞬間、彼がゆっくりと本を閉じた。
「……こんにちは。」
先に声をかけたのは、彼だった。
その静かな声に、柚子月の鼓動が一段と跳ね上がる。
「え、あ、えっと……こんにちは……!」
挨拶だけで顔が真っ赤になる。
でも、それでも伝えなきゃと思った。
「この……傘、あのとき……ありがとうございました。あの日、すごく助かって……」
震える手でビニール傘を差し出す。
彼はその傘を見て、少し驚いたように目を細めた。
「覚えててくれたんですね。嬉しいです。」
「もちろんです……! あのとき、誰も止まってくれなくて……でも、あなたが……」
言葉が詰まる。
彼は優しく笑って、傘を受け取った。
「ありがとうございます。名前、聞いてもいいですか?」
「……あっ、はい! 向日葵 柚子月です。ひまわりって書いて、“ゆずき”って読みます。」
「向日葵さん……いい名前ですね。」
「え、あっ……ありがとうございます……っ」
もう顔が溶けそうだった。
「僕は……椿谷 蓮(つばきや れん)って言います。」
——椿谷 蓮。
やっと知れた、彼の名前。
だけどその名前を聞いた瞬間、どこか懐かしさのような、妙なざわめきが胸の奥で広がった。
(椿谷……蓮……?)
何かを、思い出しかけたような——そんな感覚。
「じゃあ、また。……向日葵さん。」
蓮は電車に乗り込んで、静かにドアの向こうへ消えていった。
残された柚子月は、息も忘れたようにその名前を何度も心の中で繰り返した。
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——椿谷 蓮。
どこかで、聞いたことがある気がする。
もしかして——“初恋”の、あの人?
向日葵柚子月さん、有難うございます!使わせていただきますっ!
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次回:
「初恋の記憶、止まったままの時計」
——彼との過去に繋がる、意外な“再会の真実”が少しずつ明らかに。