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2.朱の狐
篝火の里に夜が降りた。山の稜線の向こうから月が昇り、川面に銀の道を描く。軒先には風鈴が涼やかに鳴り、遠くから祭りの笛の音が微かに届いていた。
千尋は縁側に腰を下ろし、膝に灯籠を抱いて紙を貼っていた。筆先に墨を含ませ、「光」と一文字静かに書き入れる。彼女の家は代々、灯籠の札を書く役目を担ってきた。祖母から受け継いだその筆跡は、幼い頃からの鍛練の賜物である。
墨の匂いと、夏草の湿り気。耳の奥で、どこからともなく囁きがした。
──灯を絶やすな、灯を絶やすな…。
左目に微かな影が揺れる。千尋は息をのみ、筆を止めた。
ふと、庭の木陰がざわりと揺れた。月明かりに浮かび上がったのは、赤毛の獣──大きな狐だった。尾を九つも揺らし、瞳は金色に輝いている。
「っ…!」
千尋は反射的に札を構えた。
狐は鼻で笑うような声を漏らした。
「落ち着け、小娘。食らいにきたわけじゃねぇ」
言葉を話す狐。千尋の目には、妖そのものの姿がはっきり映っていた。
「…あなた、妖ですね」
「ふん。千年も生きりゃ、人の言葉くらい覚えるさ。名は|朱雀丸《すざくまる》。里の連中には"妖弧"なんて呼ばれとる」
千尋は札を握りしめたまま眉を寄せる。
「どうして、私の家に」
「お前のことを見ていた。昼間、神社で影を祓ったろう?…あれは凡百の人間にできる芸当じゃない」
朱雀丸の尾がゆるりと揺れる。
「人の子のくせに、妖を視て、なお退かぬ。大抵は恐れ慄いて逃げるもんだが…お前は違う」
「逃げたって、影は消えません」
千尋の声は微かに震えていたが、瞳はまっすぐに向けられていた。
朱雀丸は一瞬、目を細め、それから愉快そうに喉を鳴らした。
「はは、面白い。…気に入った。小娘、お前に力を貸してやろう」
「え…?」
「この里を覆う影、放っときゃ広がる一方だ。俺にとっちゃ退屈凌ぎだが、お前には役目があるんだろう?」
狐の瞳が、千尋の左目を射抜いた。
千尋は言葉を失う。祖母からも、宮司の暁真からも「決して妖に関わるな」と教えられてきた。けれど、この狐はただの敵とは思えなかった。
「…私に、力を貸す?」
「そうだ。俺は人を食らう気はねぇ。だが約定は必要だ。契りを結ぶかどうかは、お前が決めろ」
九つの尾が夜風に揺れ、朱の光が庭を染め上げる。
千尋は灯籠を抱き締めるように腕に力を込めた。胸の奥で鼓動が早くなる。
──灯を絶やすな。
あの囁きが再び響いた気がした。
「…もし、あなたと契れば…この里の人を守れるんですか?」
「守れるさ。俺の力と、お前の目があればな」
迷いはあった。けれど、千尋は頷いた。
「分かりました。朱雀丸さん、どうか力を貸してください」
「よし。では契りを交わそう」
狐は人の姿へと変じた。赤髪の青年。長身で、紅の狩衣をまとい、口元に笑みを浮かべている。
朱雀丸は千尋の前に膝をつき、彼女の手を取り、低く呟いた。
「血を少し。互いに混ぜれば契りは成る」
千尋は小刀で指先を切り、朱雀丸も爪で掌を傷つけた。二人の血が触れ合い、熱を帯びて光が走る。
その瞬間、千尋の視界が大きく開けた。闇の中に潜む無数の影が、赤い炎の尾に照らされて浮かび上がる。
「…っ!」
「これが契りの証だ。小娘──いや、千尋。お前はもう一人じゃない」
朱雀丸の声は、どこか優しく響いた。
夜空に篝火のような朱の光が揺れた。
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