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3話 エースが見た夢
デュースとジャックの交際が明かされた日の夜。エースは夢を見た。
監督生がまだオンボロ寮にいた頃。
エースが監督生に恋をした日を、再現したものだった。
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あれは休日の朝だった。オンボロ寮に遊びに行き、談話室の扉を開いた、あの光景。
朝日が差す窓に背を向けて、監督生は筆を持ちながらキャンバスに向かい、絵を描いていた。
音を立てて扉を開けたのに、監督生はエースを見ない。気づいていないのか、無視をしているのか。エースには判断がつかない。
エースは監督生に近づき、絵を覗く。
ピンク色が占めている絵は、色だけを見れば、フラミンゴ当番が着る服を思い出させる。けれど、りんかくは服の形をしていない。花弁のように見えた。
エースは問いかける。
──なあ。なに描いてんだ?
監督生は描きかけの絵からエースへ視線をうつして、答える。
──桜だよ。僕の故郷の花なんだ。
エースの予想通り、絵の正体は花弁だった。
監督生はイスから立つ。パレットと筆をしまい、イスの座面に置く。絵画用の分厚いエプロンのヒモに手をかけている。監督生自身の手で、エプロンが剥がされていく。
そこでようやくエースは、監督生が着けていたエプロンの異様さに気がついた。
剥がされたエプロンには、生地のほつれも傷みも見当たらない。だからまだ新品のはずだ。
なのにもう、ピンク色の絵の具の汚れが無数にあった。
他の色の汚れは、一つも無い。
ピンク色の花の絵を描くためだけにしか使われていないエプロンを、監督生は着ていたのだ。
監督生は、いったいどれほど、一色だけの絵を描いていったのか。
故郷の花のかけらをひたすら描くほどの、狂気じみた郷愁に駆られているのか。
故郷も家族も、この世界にあるエースには想像できない。
イスの座面に置いていた筆とパレットを、監督生は再び持つ。たたんだエプロンの上に乗せる。背後の窓際へ歩いて、壁に寄せられたテーブルの上に、道具一式を置いている。
何となくエースは監督生を観察していた。
だから、まともに見てしまった。
白い朝日でりんかくを縁取られる、監督生の顔。
異世界を一途に想う、憂いをふくんだ表情。
伏せられた瞳は、窓越しの日光を浴びて、輝いている。
監督生が窓際から離れるまでの、一瞬。瞳がエースに向けられた。
きらめく瞳の奥は、真っ黒だった。
監督生は困ったように笑う。
──待たせたかな?
あの黒い瞳は、いつもの優しさをはらんだ黒に戻っていた。
エースはハッとして、答える。
──いいや、ぜんぜん待ってねえよ。
いつもなら、からかいの言葉の一つはかけていたのに、頭が働かなかった。
監督生は談話室から出ていった。来客用の飲み物を用意するために。
一人、残されたエースは、胸をおさえる。
心臓がうるさい。体が熱い。花への狂愛をはらんだ黒が、目に焼きついて離れない。
──これは、恋だ。
──だってずっと、あの一瞬を忘れられない。
直感は正しかった。
あの日以来、エースは監督生に心を奪われたままだ。
泣いて嫌がるエースたちを置いて、異世界に帰っていっても、監督生はエースの心を奪ったままだ。
エースは願う。
心も、監督生も、返してほしいと。
願いは叶えられなかった。
──だからオレはこんなにも、苦しくて悲しいのに。
──なんでデュースは、平気でいるんだ?
── 監督生が帰るとき、オレたちと一緒に泣いてたよな?
──ジャックとの恋を叶えたからか?
──だから、監督生がいなくなっても、笑えているのか?
デュースに向けているようで、実際はエース自身に向けている問いかけは、もう無意味だ。
デュースの口から、交際を明かされてしまったせいで、見ないふりは、もうできないから。
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「……だからいまさら、こんなクソな夢を見たってのか?」
夢から覚めたエースは起き抜けに、掛け布団の中でうらみごとをつぶやいた。
けれど本当にデュースをうらむつもりは無い。
むしろ祝福したいのだ。ともに困難を乗り越えてきた、大事な友人の幸せを、嫉妬で汚したくない。
二度寝をするにはびみょうな時間。エースはそっとベッドから出る。デュースのベッドを見る。朝練に行っているのか、ベッドは空だった。
他のルームメイトがまだ寝ているのをいいことに、エースは無意識につめていた息を大げさに吐く。
のそのそと身じたくを整えて、部屋から出る。廊下を歩く。洗面室に入り、広い共用洗面台の前に着く。
顔を洗っても、頭がスッキリしない。どことなく、のどの奥がムズムズする。
「風邪か? でも寒気はしねえし……」
鏡を見ても、顔色はさほど悪くない。はっきりしない体調不良。でも授業に出なくてもいい理由にはなる。ここで顔にスートを描かずに部屋に戻っても、ズル休みにはならないはずだ。
なのにエースは洗面台の前に突っ立ったままだ。
しばらくぼんやりしていると、やがてリドルがやってきた。
「おはよう。今朝は早いんだね」
エースはリドルを見る。寮長室には簡易洗面台があるおかげか、彼の化粧はすでに済んでいた。
「あー……おはよーございます」
「まだ眠いようだね。あとの寮生の邪魔にならないよう、早く顔を洗って、化粧を済ませるべきだ」
「もう顔は洗いました」
「なら化粧をおしよ」
「はーい」
ようやく化粧道具を取り出したエースを確認してから、リドルは洗面室から出ていこうとする。
部屋の出入り口をくぐる前に、リドルは言う。
「朝練に遅れた寮生がいたのかと思ったけど、そうではないようだね」
「デュースなら、もう行ったみたいですよ」
リドルの足が止まった。振り返り、エースを見る。ほほ笑みながら、言う。
「デュースに限った話ではないだろう。本当に君たちは仲がよろしいんだね」
かけられた言葉が、いまは重い。
「そこまでじゃありませんって」
「強がりはおよしよ」
そう言い残し、今度こそリドルは出ていった。
一見すると元気なエースの様子を、リドルに認知されてしまった。いま休むと、ズル休みだと思われかねない。
自主休講をあきらめたエースは化粧を始める。慣れた作業だ。仕上げのスートを描くまでにかかった時間は数分程度。
仕上がった顔を見る。いつものエースそのものだ。
何も考えずに作業に没頭していたおかげで、のどの違和感はだいぶ薄れている。このまま無くなってしまえばいい。
「うし、行くか」
教室に行くにはまだ早いが、たまには一番乗りを目指す。担任のクルーウェルからの評価が上がるかもしれない。
エースは洗面室から出ていった。