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灯-第一章-
プロローグ:音のない朝
夫を失ってから、陽菜は時間というものをうまく掴めなくなっていた。
時計は進んでいる。カレンダーも毎日変わっていく。
でも、自分の中だけが止まっている。世界のリズムから外れてしまったようだった。
冷蔵庫の中には、使いかけの調味料と、腐ったままの野菜がある。
テレビのリモコンには埃が積もっている。
陽菜自身も、まるでこの部屋の一部になってしまったように、息をひそめて生きていた。
夫・彰人がこの世を去ったのは、1年前の冬の夜だった。
あの日も今日のように、音のない朝だった。
第一章:開かれたフォルダ
冬の朝は静かだった。暖房も入れずにいると、足元からしんしんと冷えが登ってくる。
陽菜はようやく起き上がり、ぼんやりとした頭でスマホを手に取った。
バッテリーは残りわずか。通知はゼロ。
メールもLINEも、もう何日も誰からも来ていない。
それなのに、なぜかスマホを開いてしまうのが習慣になっていた。
ホーム画面を見ているうちに、ふと写真フォルダに指が滑った。
「アルバム」の中に、一つだけ見慣れないロック付きのフォルダがあった。
“For H.”
それが目に入った瞬間、陽菜の胸に小さな波紋が広がった。
彰人のスマホは事故の後、警察から返却されたが、しばらく触れずにいた。
今持っているスマホも、そのデータを移したままだった。
開くためにはパスワードが必要だった。
「誕生日……だめか」
「結婚記念日……違う」
幾つか試しては失敗し、心が折れそうになったとき、彼の声が頭に浮かんだ。
——「人生でいちばん大事なのは“ひかり”だよ。暗闇に灯る、小さなやつな。」
「……hikari?」
正解だった。
ロックが解け、画面には動画ファイルがずらりと並んだ。
タイトルには日付と、短いメッセージ。
「2023.01.03_カレーうまかった」
「2023.03.11_ごめん、今日の俺最低」
「2023.07.18_お前が泣いた日」
「2023.11.05_これが最後になるかも」
陽菜の指が震えた。
動画を再生すると、そこには確かに彰人がいた。
笑って、照れて、時に泣きそうな顔をして。
「……お前がこれを見てるってことは、俺はもういないんだよな。ごめん、やっぱつらいな、こういうの。」
陽菜は、画面の中の彰人に手を伸ばした。
触れられるわけもない。
けれど、その温度は確かに、心の奥に伝わってきた。
そして、陽菜の中で何かが少しだけ動いた。
1年ぶりに、世界が「色」を取り戻そうとしていた。
リクエストをいただきました!せっかくなので、長編でお届けします!