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『本当は謝りたかった』
会社を出たとき、時計はすでに午前一時を回っていた。
ビルのガラス扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
外の空気は冷たくて、昼間の熱気が嘘みたいに消えている。
ネクタイを少し緩めながら、ため息をついた。
「……はあ」
駅からの帰り道は、ほとんど人がいない。
昼間は車で混み合う通りも、今は静かなものだ。
街灯の光がアスファルトにぽつぽつと落ちている。
今日も仕事は終わらなかった。いや、終わったのかもしれない。
ただ、頭の中にはまだメールや会議の声が残っている。
それよりも、気になることがあった。朝のことだ。
家を出る前、妻と喧嘩した。ほんの些細なことだった。
洗い物がどうとか、帰りが遅いとか、そんな程度の話だ。
でも、仕事のことで余裕がなかったからか、つい強い言葉を返してしまった。
「 こっちは働いてるんだよ 」
言った瞬間、少しだけ後悔した。でももう引っ込められなかった。
妻は黙ったまま、背中を向けた。俺はそのまま家を出てしまった。
それを思い出すと、胸の奥が少しだけ重くなる。
「……はあ」
またため息が漏れる。そのとき、道の端にある自動販売機の光が目に入った。
赤と白のネオンが、夜の中でやけに明るい。街灯とは違う、人工的な光。
「コーヒーでも飲むか」
独り言のようにつぶやき、ポケットから小銭を取り出す。
カチャン、と投入口に落とす音が夜に響く。ボタンを押す。
ガコン
取り出し口に手を入れる。
指先に触れたのは、アルミの冷たい感触ではない。紙だった。
「……?」
小さく折られた紙。眉をひそめながら広げる。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
『本当は謝りたかった』
手が止まった。風が少し吹き、優しく頬を撫でていく。
自販機の光が、紙の文字を照らしている。
「……なんだこれ。誰だよ、こんなの入れたの」
ただのいたずらだろう。そう思うのに、胸の奥がざわつく。
朝の光景が、頭に浮かぶ。背中を向けた妻。言葉を飲み込んだ自分。
『本当は謝りたかった』
「……タイミング悪すぎだろ」
俺は小さく笑った。でもその笑いは、少しだけ弱くなってしまった。
ポケットからスマホを取り出す。画面に表示された名前を見る。
少しだけ指が止まる。今さら電話するのも気まずい。
でも、このまま帰るのも、なんだか落ち着かない。
夜の道は静かだ。自販機の光だけが、ぼんやりと周囲を照らしている。
息を吐く。通話ボタンを押した。コール音が、やけに長く感じる。
「……もしもし」
妻の声が聞こえる。一瞬言葉に詰まる。でも、思ったよりも簡単に口から出た。
「その……朝、言いすぎた。ごめん」
沈黙。数秒だけのはずなのに、長く感じる。
それから、電話の向こうで小さな声がした。
「……うん。私も、ちょっと怒りすぎた」
肩の力が抜けた。
「そっか」
「帰ったら、ちゃんと話そう」
「うん」
通話が終わる。スマホをポケットに戻す。
さっきまで重かった胸が、少しだけ軽くなっている気がした。
もう一度紙を見る。
『本当は謝りたかった』
「……まあ、そうだよな」
紙を折り、ポケットに入れる。コーヒーは買わなかった。
でも、なんとなくそれで十分だった。
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俺は歩き出した。さっきより少しだけ軽い足取りで。
背後で、自動販売機の音がした気がする。
ガコン
もう一枚、紙が落ちた音。しかし、俺は振り返ることをしなかった。
ただ、自販機の光のそばに、誰かが立っていたような気がした。
でも、夜の道には誰もいない。気のせいだろう。
俺はそう思い、そのまま妻の待つ家へ向かって歩いていった。