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燼を抱いて堕ちる
空は沈んでいた。
風は止まり、鳥は鳴かず、森の奥は死んだように不気味な程に静まり返っていた。
その中心に、ただ一つ、石造りの祠があった。朽ち果てながらも、周囲だけは異様なほどに時間が止まっていた。
カロ=シオンの胸に、理由のないざわめきが宿っていた。
目が離せなかった。心が逸っていた。誰かが呼んでいる。
鈴の音が、風もないのに揺れていた。
祠の扉は、封じられていた。
鎖が幾重にも巻かれ、その全てに祈りと呪いが込められている。
人の力では触れることすらできないはずの、神の封印。
けれど、シオンの手が触れた瞬間——
世界が、きしんだ。
空気が反転する。
祠を囲う木々が一斉に揺れ、天が怒れるように曇り始める。
大気が震え、雷のような音が遠くで鳴った。
鎖のひとつが、ぴしりとひび割れた。
それはまるで、神の律法に罅が走ったかのようだった。
だが、シオンの手は離れなかった。
熱い。焼けるように熱い。
皮膚が焼け、骨にまで何かが染み込んでくる。
それでも彼は、両手でその鎖を抱えた。
次の瞬間——祠全体が、紅蓮の光に包まれた。
鎖が爆ぜるように千切れ、祠の奥から灼けるような熱とともに、ひとつの気配が目覚めていく。
炎でも、雷でも、ただの神気でもない。
それは、「秩序を裏切った存在」の、咎の気配だった。
奥に横たわっていた男の身体が、ゆっくりと浮かび上がる。
白髪に赤の筋。
紅い猫の目が、ゆっくりと開いた。
そして——微笑んだ。
「……ああ、目覚めたか。何千年ぶりかな……」
燃えるような声だった。
命を焦がすような、美しさだった。
カロ=シオンの瞳は、その光を見つめていた。
目が離せなかった。ああ、きっと、これは__。
焼かれると知っていて、それでも目を逸らせなかった。
火が消えるように、世界は静けさを取り戻していた。
紅蓮の残滓が揺らめくなかで、メテ=ロウスはゆっくりとシオンを見下ろした。
「……君が、ボクを目覚めさせたんだねぇ」
どこか楽しげに、どこか寂しげに、彼は微笑んだ。
その声は、炎の奥で長いあいだ燃え続けていた熱のように、乾いていた。
「まさかこんな形で出られるとは思ってなかったよ。ずっとねぇ……眠ってるようで、眠れなかった」
メテの手が、ふわりと宙をなぞる。
目に見えぬ炎が空気を撫で、シオンの頬をかすめた。ほんの少し、熱い。
「キミ、名前は?」
「……カロ=シオン」
メテはその名を繰り返すように呟いた。
「シオン、ねぇ。へえ……いい名前。音が軽くて、綺麗だ」
彼は楽しげに笑った。だがその瞳の奥は、やはりずっと、何かが深く沈んでいた。
「どうして……僕を呼んだんだい?」
問う声は優しい。でも、返答を試すような響きがあった。
シオンは一瞬、言葉を失った。それでも目を逸らさずに言った。
「わからない。でも……呼ばれた気がしたんだ。ずっと前から、あなたのことを知ってたみたいに」
メテの目が細められる。
「ふぅん。会ったことあったりした?、…前に、火をあげた子かい? それとも……もっと前に旅をした子かい?」
冗談とも、本気ともつかない調子だった。
「……あなたは、誰?」
「ん? 違ったのか。ああ、ごめんごめん。自己紹介、忘れてたねぇ」
メテ=ロウスは、ゆっくりと歩み寄る。
その足音すら熱を孕んで、シオンの皮膚を焼いた。ほんの触れただけで、指先がじり、と熱を持つ。
「——ボクは、かつて神々の頂にいたもの。地に堕とされた堕神さ。名前は……メテ=ロウス。覚えておくといいよ」
くすり、と笑う。
その瞬間、シオンの指が無意識に動いていた。
触れてみたかった。その髪に。肌に。確かに存在するその熱に。
だが、手が届いた瞬間——
指先が燃えた。
「……っ!」
火が走るような痛み。
けれどシオンは手を離さなかった。
「馬鹿だねぇ。触れれば焼けるよ?」
笑いながら、メテ=ロウスはその指をそっとほどこうとした。
だが、シオンはその手を握り返した。
「……わかってる。でも……それでも、触れたかった」
目は、まっすぐに見据えていた。
炎の神に、命を焼かれてでも、近づこうとする眼差し。
メテ=ロウスはふと、目を細めた。
空を仰ぐでもなく、何かを探るように、空気の奥を眺める。
「……始まったねぇ。もう来てる」
小さく呟いたその声に、シオンは顔を向ける。
「どうしたの?」
「見えない? いや、見えなくていいか」
メテは苦笑した。
その目は先ほどまでの軽さがあったが、燃えるような瞳の奥に、確かな警戒が灯っている。
「“上”が、気づいたんだよ。ボクがまた火を灯したってことにねぇ」
空気が微かに揺れている。
まるで、見えない糸が空の向こうからこちらを探っているようだった。
神々の眼差し。祝福と罰を同時に振るう存在の、冷たく沈んだ気配。
「今はまだ、探ってる段階さ。でもね、そう長くはもたない」
メテの声は静かだったが、確かに焦りがあった。
「このままここにいたら、また封印されるか、最悪、燃やされるねぇ。洪水の次は炎かねぇ…?」
「神が、来るってこと……?」
シオンの問いに、メテはにこりと笑った。
「うん。ボクのことも、君のことも。自由にさせておくほど、神々は優しくないからねぇ」
風が、鈴を鳴らした。
その音は、どこか遠くの世界とつながっているような響きだった。
「だから、旅に出よう。逃げるってわけじゃない。……でも、火は止まらない。動いていれば、何かを変えられるかもしれない」
メテ=ロウスは、シオンの方を見た。
「キミはどうする? 神の監視の下に留まるのか、それとも…少し旅をするかい?」
その問いに、シオンは一歩だけ、彼の隣に進み出た。
その瞳に迷いはなかった。
「行くよ。僕は、あなたの傍にいるって決めたから」
紅と金の目が重なる。
それを見て、メテはふっと笑う。
「……ほんと、人っていうのは、愚かで愛しいものだねぇ。」
沈黙が降る。
風が吹いた。木々がざわめき、封印の残骸に鈴の音がひとつ、鳴った。
メテ=ロウスは、目を閉じて、そして笑った。
「……まったく、変わらない。いつの時代も。燃えるような目をして、そう言うんだ」
その声には、どこか嬉しそうな、けれど決して救いのない響きがあった。
「よし。じゃあ行こうか、シオン。旅に出よう。ボクの火が、キミをどこまで焼け残せるか——見てみたい」
彼の羽織が揺れる。
白と赤が舞う。風が、過去を巻き上げて吹き抜ける。
そして、ふたりは歩き出す。
祝福という名の呪いを抱えたまま、まだ見ぬ地上へ。