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ピアノしかできない僕は。
放課後の音楽室は、僕にとって唯一の「聖域」だった。
窓の外から運動部の掛け声が聞こえてくるけれど、重い防音扉を閉めれば、そこは僕だけの世界になる。
黒いグランドピアノの前に座り、指を置く。
物心つく前から、僕の指は鍵盤の上の正解を知っていた。ショパンもリストも、譜面を一度なぞれば指が勝手に歌い出す。
勉強だってそうだ。教科書に書かれた論理は、ピアノの和声と同じように整然としていて、疑う余地もなかった。
でも。
教室に戻った途端、世界は急に「正解のない不協和音」に変わる。
「……あ、一条(いちじょう)くん。ノート、また見せてもらってもいい?」
クラスメイトの佐藤さんが、所在なさげに笑いかけてくる。
僕は無言で頷き、整理されたノートを差し出す。彼女は「ありがとう、助かるよ」と言って、足早に自分のグループへ戻っていく。
そこから先、僕を呼ぶ声はもう聞こえない。
「すごいね」「天才だね」という言葉は、賞賛の皮をかぶった壁だ。
テストで満点を取るたび、コンクールで賞をもらうたび、僕と彼らの間の溝は深く、静かに削られていく。
彼らが笑い合っている放課後のファミレスの話も、昨日観たバラエティ番組の冗談も、僕にはどうしてもうまく弾けない難曲のように感じられた。
空気を読むための「楽譜」はどこにも売っていない。
「一条くんは、一人の方が集中できるもんね」
誰かが放った何気ない一言が、鋭いトゲのように胸に刺さる。
違う。一人になりたいわけじゃない。
ただ、どうやってその輪の中に混ざればいいのか、どの強さで鍵盤を叩けば「普通」の音が鳴るのかが、わからないだけなんだ。
ピアノを弾いている間だけは、孤独が「芸術」という名前に変わってくれる。だから僕は今日も、誰もいなくなった音楽室で、ひとりきりの独奏を続ける。
いつか、僕の不器用な指先が奏でる音が、誰かの心に正しく届く日が来ることを、密かに願いながら。
放課後の音楽室。いつものように、僕は一人で鍵盤に向かっていた。
ショパンのノクターン。繊細な旋律が、夕暮れの教室に溶けていく。
不意に、背後で小さな音がした。
「……あ」
振り返ると、クラスでいつも隅の席にいる、名前もあまり呼ばれないようなおとなしい女子生徒――佐々木さんが立っていた。手には、忘れ物らしい筆箱を握っている。
「ごめん、邪魔しちゃった」
彼女は申し訳なさそうに頭を下げて、すぐに立ち去ろうとした。
いつもなら、僕もただ黙って見送るだけだ。けれど、ピアノの残響が、僕の臆病な背中をほんの少しだけ押した。
「……ショパン、好き?」
自分でも驚くほど小さな声だった。
彼女は足を止め、少し目を見開いてから、はにかむように笑った。
「詳しくないけど。一条くんが弾くと、なんだか雨上がりの匂いがするなって、いつも思ってたの」
雨上がりの匂い。
音楽理論の教科書にも、数学の公式にも載っていない、曖昧で、でも確かな表現。
「天才」でも「すごい」でもない言葉が、僕の胸にすとんと落ちた。
「……変なこと言ってごめんね。じゃあ、また明日」
彼女は小さく手を振って、音楽室を出て行った。
「また明日」
その響きが、僕の耳の奥で、今まで弾いたどんな和音よりも心地よく共鳴した。
僕はもう一度、鍵盤に指を置く。
今度は、自分一人のための独奏じゃない。
窓の外には、さっき彼女が言った通りの、透き通った夕空が広がっている。
明日、教室の隅で彼女と目が合ったら。
ほんの少しだけ、いつもより柔らかい音で「おはよう」と言えるかもしれない。
ピアノの黒い蓋に映る自分の顔が、ほんの少しだけ緩んでいることに気づいて、僕は小さく、自分にしか聞こえない音で鍵盤を叩いた。