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私の救世主
12月25日がイエス・キリストの誕生日であることは、キリスト教信者、もしかするとそれ以外でも知っていることだ。
雪の降る夜、私は家から駆け出した。背後で父の怒号と母の悲鳴が響く。
DVをする父、ヒステリックな母。我が家の「当たり前」の光景に、何故だか今日は耐えられなかった。
12月25日は、クリスマス、イエス・キリストの誕生日、そして、私自身の誕生日でもある。そんな日であっても、腕に新しく痣が増え、耳をつんざくような悲鳴を聞くこの家庭に、自分の惨めさに耐えられなかった。
行く当ては無い。けれど、足は自然と、キリスト教の教会へ向かっていた。
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キリスト教の学校に進学を決めた時は、両親は興味も持たなかった。受験、合格通知、入学が決まったくらいに、学費が高いと殴られた痣と、包丁による切り傷が出来た。
この教会に来るのは、学校での行事以外では初めてだ。夜でも明るい教会の扉を開けると、神父とシスター達が十字架へと祈りを捧げていた。
真正面で聖典を読み上げていた老人の神父は、私を見つけると朗読を中断して近づいて来た。
「……おや、もしかして、あの学校の……?」
「……はい」
「どうしたのかね、祈りを捧げに来たのかい?」
シスター達が、私を見てざわざわと騒ぎ出す。ボサボサの髪に頬の痣。こんな姿でキリスト教信者なんてなんだか申し訳なくなって、気が付くと泣いていた。頬の切り傷に涙が染みる。
「っ……、ここで、匿ってもらえませんか?」
シスター達が顔を見合わせる。神父様は、私の目をじっと見つめて、髭だらけの顔でにっこりと笑った。
「もちろんだよ。シスター、この子を着替えさせて頂けませんか?身なりを整えたら、私達と一緒に祈りましょう」
「はい、畏まりました。傷の手当てもしておきますね」
シスターに手を引かれながら、私はぼうっと十字架と、十字架にかけられるイエス・キリストの木像を見上げていた。
正直、キリスト教なんて信じていなかったけど、今、はっきりと『救われた』と感じる。
今日はなんて素敵な、クリスマスで、イエス様の誕生日で、私の誕生日なんだろう。
虐待は子供を恐怖で閉じ込めることで、信仰はその信仰している対象に閉じ込められることだと思うんですよね。
信仰は、自分が形だけでも信仰している対象を信仰している大勢の人に、畏怖とか、統一したいとかの思いで自分を似せるんですよね。そして、それが当たり前になって、俗世が分からなくなっていくことも、ある意味では『閉鎖』なんじゃないかなって。
それと、キリスト教の学校って、日本にもあるんですよね。私が知る限り、宗派(カトリック、プロテスタント等)の違いはあっても、二、三校ぐらいのキリスト教の学校はあります。
まぁ、そこの人達がキリスト教を本気で信じているかは知りませんが、日本人のシスターもいるらしいですよ。