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3-5 それぞれの信念
「ノル……じゃないわね。あなたは誰?」
鈴を転がしたようなティナの声が静かに届く。
俺はその問いに答えあぐねた。俺の答えは、ティナが求めるものとは絶対に違う。
けれど、答えを返さないのはもっと駄目だ。俺たちの関係が壊れる気がする。初対面の相手に何を思っているのか、という話だが。
俺の記憶は、ティナが店を飛び出したところで途切れている。
「分からない。俺はティナが何者なのかも、俺が何をしてきたのかも、俺はなぜここにいるのかも知らない」
それを聞いて、ティナは目を伏せた。
反対に、男はようやく状況を掴んだのか口を開く素振りを見せた。
「私はアシュトンと申します。あなたを組織に勧誘するために参りました」
名前を聞かれることはなかった。
「組織?」
「世界を滅ぼす魔神を倒すことを目的にしています」
世界を滅ぼす魔神? 本当にそんなものがいるのか? いたとしても倒せるのか。
俺にはアシュトンが本当のことを言っているか判断をつけることができない。
「……俺は自分の目で見たものしか信じない。もし本当にそんなものがいるのなら、見せてみろ」
「……」
アシュトンは黙り込んだ。
たっぷり十秒後、再び口を開く。
「良いでしょう。どうせあなたは幹部候補だ」
俺が幹部候補? 前から俺のことを知っていたのか。
前の俺は一体何をしていたんだ。残してくれたヒントはたったの二文。これだけでは、到底追いかけることはできない。
「今から転移します。付いてこられますか?」
「当然」
アシュトンが組み上げた式を読み取り、『|転移《バティン》』に応用する。
この程度ならわけない。なぜか、地獄を出た時よりもこういう式についての理解が深まっていた。
転移すると、濃密な気配を感じた。悍ましいものが肌に直接触れているような感覚。
その気配は、岩窟のずっと奥から感じられる。アシュトンが奥へ歩を進めたのを見て、俺も覚悟を決めた。
「ぉっと」
入口付近で伏せていたモノにつまずきかけた。
体勢を整え、改めてそれを見る。
なんとなく嫌な感じがした。生物として見ると、歪みが目につく。
俺は反射的に首を切り落とそうとして、
「失礼。私の飼い犬です」アシュトンに止められた。
「悪い」俺は殺意を引っ込めて、先に進む。
二人分の足音が不規則に響く。ティナはいなかった。
俺は目の前の岩の柱を避けると、アシュトンに尋ねた。
「ティナは?」
「彼女は、まだその資格を持っていない。本来はまだ加入すらしていない相手に見せられるものでもありませんが……」
そこでアシュトンは言葉をまとめた。
「力というのは、それだけ重要だということですよ」
「確かに、力はどれだけあっても足りないように思える」
俺はその言葉を一旦肯定した上で、
「だが、力だけに縛られていると不自由だ」
地獄から出てきた時のことを思い出した。
俺は、ここではどうやっても全力を発揮できない。そればかり考えていると、絶対に人生を楽しめない。
だから、力が全てではない。そう考えなければならない。
「その考えに逃げてはならない時だってあります」
「何も考えずに力を盲信するのも同じくらい愚かだと思うが?」
力は目的ではなく、手段だ。にもかかわらず、力を求めることを目的としている連中は存外に多い。
手段と目的を取り違えないこと。そうすれば、うまくいかない確率はぐっと下がる。
「私たちは魔神に対して無力です。力以外の手段を模索できる域に達していない」
だからあなたが必要なんです、とアシュトンは言った。
アシュトンが足を止める。それに|倣《なら》い、俺も足を止めた。
「着きました」
進んでいくごとに、圧力が強くなる。
ずっと感じていた気配が深化した。
肌に触れる程度から、内蔵を素手で撫でられるような悍ましさへと。
ここに在る。そう直感した。
「こちらです」
そう言われる前から、知っていた。
それは、腕だった。様々なものが混じり合った黒に染まり、何かを掴もうとしている。
違う、黒ではない。よく見れば、赤や青、黄の色がある。それら一つ一つが互いを|穢《けが》しながら、その腕は存在していた。
「見ての通り」アシュトンは魔神の腕に触れてみせる。「魔神の腕には触れることができません」
だから、こちらから何かをすることもできない。その代わり、魔神の腕が今すぐ何かをしてくることもない。
「信じていただけましたか?」
俺は悩んだ。アシュトンが求める答えは、俺が奴の勧誘にうなずくこと。
しかし、俺は素直にうなずきたくない。別に嫌がらせってわけでもないが、俺はこのままアシュトンの組織に加入して良いものか迷っている。
この岩窟に入ったばかりの時、俺はそこにいたモノに間違いなく嫌悪感を抱いた。あれは世界にとって不自然なものだ。
「さっき……入口にいたな。あれを最低限俺の目の前では使わないというなら入っても良い」
「入口……ああ、模擬魔獣のことですね」
アシュトンは一瞬考え、「あれは戦力として重要な存在ですからね。あなたが同等以上の力を発揮するというなら、可能でしょう」
「アシュトンが使う力。それが使えるようになれば」
「良いでしょう。この先、あなたの前では模擬魔獣を使わないと約束します」
本音を言えば世界からいなくなってもらいたいが、それを言ってもどうにもならない。俺だって魔神をどうにかしたいし、組織に所属することの必要性は理解しているつもりだ。
「私たちの拠点にご案内しましょう。話はそれからです」
アシュトンに続いて、俺も転移した。
次回予告。
それは、運命なのか。ノルにはその記憶がなく、運命か否か論じることはできない。
しかし、そこで会ったのは、紛れもなく会ってみたいと思っていた人物だった。
「――素晴らしい。魔法の発動はスムーズで、魔力の流れも淀みなく、威力も十分。これなら今からでも実戦で使える。まあ、俺の研究に付き合ってもらうが」
次回、3-6 魔法の「初心者」