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銀河の瞳
新学期、3tは超えた日差しを受けながら歩く。今日は使わないであろう教科書が入ったランドセルが重い。
教室、俺はみんなが好みそして嫌う席に着いた。1学期まではそこは端の席、通称「ぼっち席」だったから。34人が6×6に並ぶと、角じゃなくても端になる。2人分、欠けているから。
でも今日は違いそう。その2人分の“欠け”が机で埋まっていた。俺の席は、俺たちが夏休みをエンジョイしているうちにぼっちを卒業したようだ。
転校生か。
しかも、2人。
興味がないわけではなかった。でも、他の奴らみたいに興味津々でもなかった。
夏休みの課題を取り出そうと、ランドセルに手を突っ込んだ。
緊張が走っている。けれどざわめきがうるさいままだ。いよいよその転校生が入ってくるんだ、わくわくしない訳ねぇだろ……とでも言いたげな空気。そんなのお構いなしに、浜松先生がぽんぽんと手を鳴らして言う。
「じゃ、|春夏冬《あきなし》さん、入ってきて」
「はいっ」
その1歩が教室に響いた瞬間、強い風が吹いたような、それでいて空気がさらに固まったような感じがした。薄ピンクのポロシャツに、デニムのショートパンツ、髪留めで留めたショートカット。頬には小さな絆創膏。ちらっとこちらを見たその目は、黒だった。強い黒だった。それでいて、輝いていた。煌めいていた。その目の中に大きな銀河がみえた。田舎のばあちゃん家の裏山で寝っ転がって見るような、そんな空が広がっていた。
「春夏冬 |優《ゆう》です!よろしくお願いします!」
「じゃ、春夏冬さんはあそこに座ってください」
「はい」
そう言って、俺のぼっち席(元)の隣に座った。ちょっと人工的な葡萄の香りがした。
俺は緊張していた。余計に暑い。
「先生、もう1人はー?」
いつもの男子が言った。
「もう1人は、今日は来られないって。今のところ明日は来れるそうだから」
「せんせー!男子?女子?」「名前は?」「誰~?」
「はい、静かに。では今から課題回収しま~す」
先生にはカンジョーがあるのだろうか。冷淡だ。俺の隣に座った「|優《ユウ》」の葡萄の香りとは違って、鼻の奥を凍えさせる感じだ。冬のような。
「ハママツ先生って、どんな?」
ユウが話しかけてきた。
「え?」
「いや、だから」
「え、どんな、とは」
「厳しい?」
「う、うん」
「そっか~。課題とかも?」
「厳しい方だと思う」
もしかして、とユウが言う。
「|悠《ハル》くん、宿題出さない側だったりする?」
「え、は?違うけど」
「いやぁ、近くに経験者がいないかと思って!」
と、悪戯な笑みを浮かべるユウ。
もしかして、宿題が苦手分野の子なのか?
思ってみたけど、にわかには考えられなかった。
その目は、すべてを難なくこなせるような、完璧な銀河だったから。
ユウは明るくて気さくな子だった。笑顔を絶対に絶やさない。勉強もできて、運動も得意。誰が妬んでもおかしくないような完璧少女。
その頃には、皆、2学期になって1度もやって来たことのないもう1人の転校生のことなんか忘れ去ってしまっていた。
その中でただ1人、ユウだけがこの学級が36人いるということを忘れていなかった。
俺は、彼女の言葉でかろうじてその存在を認識していた。
2学期は静かに過ぎた。
粉雪が舞う2学期最終日、その日は漫画の発売日で、俺はダッシュで帰路についた……はいいのだが、学校に筆箱を忘れてきたことに気づいた。最悪。俺はまた学校に戻る羽目になった。
向かいからユウが歩いてきた。3か月で、ショートヘアは耳にかかるくらいに伸びた。前髪も少しずつ伸びてきて、学校では女子の輪の真ん中で「切らなきゃ~」なんて言ってた。
その伸びた前髪で顔が見えなかったが、ユウだとすぐ分かった。
「ユ……」
やめた。
声をかけてはいけない。
目が、見えたのだ。
真っ黒だった。ドス黒かった。星なんてなかった。
立ち止まらなかった。
走った。気付かなかったふりをして。
3学期のはじめの日、ユウは遅刻した。
2時間目に、ユウは1人の男子を連れてやってきた。2人は、手を繋いでいた。
「春夏冬 |竜《りゅう》です」
それだけ言って、|竜《リュウ》はユウに連れられて隅に座った。
あの日と同じように、カンジョーのない声で浜松先生が課題を出すように言う。
やはり転校生を前に黙れというのは、小学生にはキツい。2時間目が終わるや否や、リュウの周りには人だかりができた。ユウと俺の席も埋もれた。
リュウの「アキナシ」が聞き取れたのは俺と最前列の奴らだけらしい。みんなユウと付き合っているだかいないだか言い出した。
さすがにうるさくないか。そう思った時、ギィィッと椅子を引く音がした。
__「……うるさい」__
人混みが退けた。そこから逃げるようにリュウが出てきた。
俺は、見てしまった。
あの日のユウと同じ目。真っ黒な闇。
教室を出た足音に続いて、かちゃっと金属の音がした。
俺はあとを追った。廊下にはペンダントが落ちていた。隣のトイレのドアが軋んだ。
そっと、開けてみた。中には、リュウとユウと、2人の大人が移った写真。みんな笑顔だ。ユウとリュウの目は、今よりずっときらきら輝いていた。
でも、何か違和感がして、少しまじまじとその写真を見つめた。
あ、授業参観の時のお母さんと違う……のか?
少しの間、ずっとそれを見ていた。そのあと、俺は考えるのを放棄した。小学生だから。人の家の話だから。……本当は、そうやって都合よく他人事にして逃げたかったんだと思う。
でも、俺はその時、“もっと大切な理由”を見つけた。俺はペンダントを閉じた。
男子トイレに入った。ただ1つ使用中になっている個室に声をかける。
「リュウ?」
返答はない。
「このペンダント……リュウのやつ?」
そう言ったら、衣擦れの音が聞こえた。
「下から入れていいか?」
返事の代わりに、ドアの下から手が出てきた。それを渡して言った。
「体調とか悪かったら、言っていいからな。一応、クラスメイトとして、仲間を助ける義務と権利はあるだろ」
それっぽいこと言って、自分でもダサくねえか、と思い、でも訂正するのはいけない気がして、少し黙った。
__「……戻ってて。しばらく1人でいたい」__
「わかった、ユウを呼んだりは……」
「1人でいたい、って、言ったよね?」
震えた声だった。でもその声に、何か身体の大切な核を抜かれたような気がした。圧が強かった。あの真っ暗な目が蘇った。
「……うん、ごめん」
大して姿も見ていない、会話もしていない、今日初めて会ったリュウになんでここまでするのか。聞かれたらきっと答えられない。
わからない。
重い戸を開けると、トイレの中の夏でも籠るような生暖かさではなく、冬らしい寒さが背筋を震えさせた。
そして次に反応したのは聴覚だった。
「春夏冬さん、落ち着いて」
「だって、だって太一が……っ!」
浜松先生と、ユウの声だった。走るほどの速さまではいかない距離だったが、事実上走った。
俺の目に飛び込んできたのは、想像していたより酷い光景だった。
教室は、すこし荒れていた。野次馬が集まっていた。だが、問題はそこではなかった。
ユウが太一を殴った。
この状況を見て、そう判断しない人がいるだろうか。
隣のクラスの赤城先生に押さえられているユウと、鼻血を出して倒れている太一。ユウの手にも少し血がついているように見えた。
ユウと太一は、先生たちに連れてかれた。何事もなかったかのように、3時間目は始まった。
気づいたときには、ユウ、リュウ、太一のランドセルはロッカーから消えていた。
2月。
あれから、ユウとリュウは学校へ来ない。
太一はあの翌日、鼻栓1つで登校してきた。みんながなぜ殴られたのか聞いたけれど、太一は「知らねーよ」の1点張りだった。太一に都合の悪いことなのか、本当に知らないのか、はたまた一瞬の人気者をできるだけ長く気どっていたいのか。それは誰も知らない。殴られる直前話していた太一の友達も、何がユウの気に触れたのか見当もつかないそうだ。
教室は、空っぽになったみたいにつまらなくなった。クラスの中心は既にユウだった。みんなユウを慕っていた。思い出は全部、ユウやその近しい友達が柱だった。この教室は、主人公をなくした物語だった。
脇役だって、モブだって、主人公がいなきゃ成り立たない。ユウがいなくなったら、太一でさえなんだか静かだ。
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冬の空って、綺麗に見えるんだって。
ユウは、空のことをなんでも知ってた。天気もだいたい予測することができた。
空のことを話すユウの目は、その冬の空より澄んで見えた。
そして、空のことじゃなければ、こんなことも言っていた。
『目は、心の窓なんだよ。目を見ると、その人の心がわかるんだ』
そういうところは、天気と通じるのかもね。……って。
じゃあ、ユウの目、あれは何?
銀河の目、真っ暗闇の目、輝いた目。
あれは……何を表している?
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既にユウの家の前まで来ていた。
木でできた「春夏冬」の表札。
そっとインターホンを押す。
『……はい』
出たのは大人だった。
「ユウは、いますか」
『……』
すこし静かになって、ぶつっと音がした。多分、切られた。そして少ししてから、ドアが開いた。
「ユウ、久しぶり」
平静を保つのが難しい。でもユウにとってそれが1番安心できるのだろうから、無理してでも普通でいなければならない。
「元気してた?」
「うん」
久しぶりに会ったユウの髪は肩まで伸びていた。
「公園、行かね?」
「……いいね」
ランドセルを背負ったまま、お気に入りの公園に向かう。ユウは俺の隣だったり斜め後ろを歩く。
「……ここ、ユウは来たことある?」
「ないと思う」
ユウの目は曇りだった。重い雲が、何かを隠していた。
「……私ね、学校にいる間だけは現実逃避できたんだ」
「現実逃避?」
「誰か、家族以外と話してる間はね。でも……リュウとだけはまだ話せない。話さないんじゃなくて」
「……そっか」
「でも、リュウが大切な家族であることに変わりはない……だから、あの時、許せなかった。太一が、リュウのこと『ヤバい奴』って言った時」
ユウの目の空に、雨が降り始めた。
「殴ったのは、よくなかった。でも、もっと“言葉の重さ”を考えてほしい」
俺は何も言えなかった。
「陰で言えばいいのか。感想って体で言えばいいのか……。そうじゃないよね。だから……発言の自由にも、責任は伴う、って気づいてほしい」
「……難しいこと言うね」
「うん、だから、私は解ってくれるまで戦う」
いつの間にか雨は止んでいて、そこには、黒い太陽が燃えていた。
その強い眼差しに、俺はいつの間にか圧倒されていたようだ。
「また、ここ来ようよ」
ユウに言った。自分で呼んだ癖に、もう帰りたいと思ってしまった。
「……そうだね。その時は、晴れの日に夜空を見たい」
ユウは、曇り空を見上げて言った。
「3月の2日、夜7時にここで会おうね」
「晴れるの?」
「晴れなかったら会えないけど、その時はまた次、ね」
ユウは、それほどこの公園で空を見たいのだろうか。
そう思ったけど、うまく消化できなかった。
3月2日。
雨が降った。数年に1度の豪雨らしい。
真っ黒い雲が空を覆っていた。
金曜日で、学校は5時間だった。学校で会えないユウに、また今度をいつにするのか聞きに行った。
ユウの家は、売家になっていた。
静かだった。電気がついていなくて、窓から見える家の中はがらんどうだった。
ユウは嘘は言っていない。晴れていないから、俺に会う約束はなくなった。
でも、ひとつだけ。
また次、っていう約束を、ユウは破った。
あの目を、俺は噓つきの目と思えなかった。
あの日公園で見たユウの目よりずっと激しい雨が、ずっと傘に打ち付けていた。
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来月から大学生になる。
特に何があるでもない3年間だった。
適当にコンビニで夕飯代わりの弁当を買った。近くの公園のベンチに腰かけた。
ゆっくり、空を見上げる。風が吹いて、若干ドライアイ気味の俺の目を乾燥させる。
瞬きを繰り返すと、一気に涙が出る。目を潤すためなのか、それとも……空が綺麗すぎてなのか。
あの日の約束は、一応守られている。
今日が、あれから初めての、晴れた3月2日だ。
ユウはきっと来る。
今日は、夜中まででもユウを待つと決めたんだ。
もう1度、あの輝いた目で空を見つめる君を見たい。
追記 春夏冬は実在する苗字だそうです。