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2 波風碧嬢とリュウトの場合
今日は、日曜日。
中学校はお休みだ。朝、身支度を調えてリュウトが階下に降りた時、インターフォンが音を響かせた。歩夢がモニターで外を確認している。
「リュウト、牛乳が届いたみたい。受け取ってくれる?」
「はーい」
素直に頷き、リュウトはエントランスへと向かった。
そしてドアを開けると、そこには白いキャスケットをかぶった、黒髪の少女が立っていた。少し巻いているように見えるツインテールをしていて、瞳の色は黄緑色だ。
「牛乳瓶回収に来ました〜!」
控えめながら柔らかな声音で、少女が牛乳瓶の入った箱を差し出す。するとその時、少女の手がリュウトの手に触れた。その瞬間、リュウトはドキリとした。ドクンドクンと動悸が始まる。間違いない、これは恋だ! そう思った時には、手は離れていた。
「あの」
うっとりとして、思わずリュウトは言う。
「名前、なんていうんだっけ?」
「え? ええと……私、波風碧と言います」
「碧か、最高に素敵な名前だね。瞳の色と相まって、まさに牛の暮らす牧場の緑、自然の息吹を感じさせられるような」
「? 何を言っているのかよく分かりません……」
「碧が素敵だってことだよ。どうして牛乳配達員をしているの?」
「実家の手伝いです」
「僕も近い将来、ご両親に挨拶に行かないと」
「どうしてですか?」
「『娘さんを僕に下さい!』ってやらなきゃ」
「……?」
困惑した様子の碧に対し、うっとりしたままの表情でリュウトが一人で盛り上がっている。それからリュウトは牛乳瓶の入った箱をそばの台に置くと、改めて碧を見た。リュウトは、本当に顔だけはいい。その顔に、真剣な色を浮かべる。
「その前に言うことがあった」
「な、なんですか?」
「碧。僕と付き合って下さい!」
「えっ」
碧は驚いた。今日も眩しいリュウトの声を理解すると、少しずつドキドキしてしまう。
「で、も、急に、そんな……」
「急じゃない。運命だ!」
「え、えっと……」
「付き合っている内に、きっと碧も僕を好きになる!」
どこからその自信が来るのかは不明だったが、碧は逡巡してから、小さく頷いた。
「いいですよ」
「!!」
「付き合っても……いいです」
「ありがとう碧!」
こうして、二人は付き合うことになったのである。リュウトは感極まって飛び跳ねた。
「碧。次はいつ会える?」
「中学校一緒だし……月曜日に、一緒にお弁当食べます?」
「そうだね。じゃあ中庭のベンチで待ってる」
うんうんとリュウトが頷いた。
一つの約束が、ここに生まれた。それからふと思いついて、碧が笑う。
「牛乳には疲労回復の効果があるんです。これ、あげます。サービス。」
その微笑は、リュウトから見ると神々しかった。
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さて、その後碧は次の配達先へと向かった。
リュウトは午後、塾へと行った。
そして塾で、『リュウトくん、消しゴム落としたわよ』と言われて拾われた優しさに稲妻のような衝撃を受けた。
「僕……あなたのことが……」
「まぁ、見る目があるのね。私は三年の見上というの。遊び相手にしてあげてもいいわ。気が向いたら学校で、またね」
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翌、月曜日。
お弁当を食べる約束をしていたので、碧は中庭へと向かった。
するとリュウトが来ていた。
「リュウトくん、これ」
碧は、個人的に購入して持ってきた牛乳を手にする。しかしリュウトは俯いたままだ。なにか深い悩みにぶつかり思いあぐねいているような顔だ。
「どうかしたの?」
優しげな碧の声に、リュウトは意を決したように顔を上げる。
その時だった。
「あら、リュウトくん」
「!! 見上先輩!」
「私と遊ぶ気になったかしら?」
「……っ、えっと」
「あら、カノジョさん? 私は別に浮気相手でも気にしないわ。じゃあね」
くすりと妖艶に笑って、見上先輩は立ち去った。リュウトは顔面蒼白だ。
碧は唖然とする。
「リュウトくん……」
「……はい」
「……どういうこと?」
「……その」
「……」
「……」
二人の間に気まずい沈黙が横たわる。だが、すぐに意を決した様子でリュウトが言う。
「ごめんよ! 僕は君と運命の恋に堕ちたその日の夜に、別の最愛を見つけてしまったんだぁああああ!」
「つまり浮気したって事よね!?」
「待ってくれ、でも続きを聞いて欲し――」
声を上げたリュウトを、芯の強そうな瞳で碧が見る。
「あなたなんて……一生牛の乳でも吸ってなさいよっ!」
悲しさ、嫉妬。様々な感情がごちゃ混ぜになる。唇に力を込めて、碧はリュウトを睨めつける。しかし怒りよりも悲しみの色が本当に濃い。
バシャリと音がし、リュウトの顔に牛乳がかかる。これは、リュウトにあげようと思って、碧が家から自分で購入して持ってきた品だ。
「!」
顔に牛乳がかかったと理解した時、リュウトが唇を震わせた。
「違うんだ……僕は今まで思い直したことなんてなくて、新しい恋を見つけたらずっと前へと進んできたんだけど……でも……碧のことは本当に……」
「言い訳です?」
「っ、ああ、もう――うえぇえええええええんん、振られたあぁぁぁああああ!」
ベンチから立ち上がったリュウトが走り出した。
どんどんその姿は遠ざかっていき、まだ昼休みだが、校門から走り去った。
それを見送り、涙を拭った碧は、はぁっと息をつく。
「もうリュウトくんのことなんて、忘れよう。忘れたいのに……うううぅ……」
やけになった碧は、その後牛乳をがぶのみした。
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走って帰ってきたリュウトが、リビングで体育座りをしていると、今日はテストのため早く帰宅した歩夢が首を傾げた。
「また振られたの?」
「……そうだけど、そうじゃないんだ」
「うん?」
「……いつもは振られても気にならないんだけど」
「うん」
「……やりなおしたい」
弟の口から飛び出した始めたの語彙に、歩夢は目を丸くした。
「そう。じゃあ、謝っておいで。誠実に、ね?」
「……」
「後悔、しないように。リュウトになら、きっとできるよ」
優しい兄に諭されて、リュウトは立ち上がった。
「うん。行ってくるよ。待ってろよぉぉぉぉ!」
こうしてリュウトは脱兎のごとし勢いで、家を飛び出した。
そんな月曜日もあった。これは、初めてリュウトが本当の恋をした日の記憶である。