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サイゴノウタ
夫が亡くなって、一か月が過ぎた。カレンダーを見るたび、まだ一か月しか経っていないのかと思う。けれど体の感覚では、もう何年も前のことみたいでもある。朝、目が覚める。隣を見る。けれど、誰もいない。それを毎日、毎朝繰り返している。
五月の風は思ったより冷たくて、洗濯物を干していると指先が少しかじかむ。彼がいたころは、こういう日に必ず言っていた。「今日、寒くね?」夫は春なのに寒い日が嫌いだった。だから私は、わざと「そんなことないよ」と返していた。「いや寒いって」「大げさ」「絶対寒い」そこで終わるだけの会話だった。今思うと、あんな話ばかりしていた気がする。大事な話なんて、ほとんどしていない。でもたぶん、そういうものだったんだと思う。一緒に暮らすって。
夫は歌が好きだった。音楽好き、というより、歌うこと自体が好きな人だった。車の中でも歌うし、風呂でも歌うし、スーパーの帰り道でも急に歌い出す。機嫌がいいと鼻歌が増えるから、私はそれでだいたい彼の調子がわかった。
付き合ったばかりのころ、一緒にカラオケへ行った。男は正直、あまり期待していなかった。男の人の「歌うまい」は、だいたい信用できない。でも、最初の一曲を聞いた瞬間、少し驚いた。うまかった。声量もあるし、音も外れない。それより、楽しそうだった。歌い終わったあと、彼は照れたみたいに笑った。「うまくでしょ?」「うん、うまい」「だろ?」得意げだった。そういうわかりやすいところが、かわいい人だった。
結婚してからも、休みの日はよくカラオケへ行った。彼は採点に本気になる。「九十七点かぁ」とか、「ビブラート絶対もっと入ってたよな?」とか。私は横でポテトを食べながら聞いていた。たまに「歌えば?」と言われるけど、私は苦手だった。「嫌だよ」「なんで」「下手だから」「誰も聞いてねえって」「聞いてるじゃん」「俺しかいないし」そんなやりとりを何度もした。結局、一度もちゃんと歌わなかった。
異変が見つかったのは、一昨年の冬だった。最初は咳だった。長引くね、くらいの感じだった。でも病院へ行って、検査して、また別の病院へ行って、気づいたら大きな病院の白い部屋にいた。希少癌だった。先生は丁寧に説明してくれた。でも途中から、私はほとんど聞いていなかった。隣に座る夫の手だけ見ていた。大きい手だった。指が長くて、節が少し目立っていた。その手が、微動だにしなかった。帰り道、駅まで歩きながら、夫が言った。「なんか、ドラマみたいだな」私は何も返せなかった。「なあ」「なに?」「治るよな」その声が思ったより普通だったから、逆に泣きそうになった。「うん」私はそう言った。本当かは、わからなかった。
病気がわかってからも、夫はなるべく普通にしていた。仕事もできるところまで続けたし、家ではいつも通り笑っていた。「病人扱いすんな」が口癖になった。でも、少しずつできないことが増えた。食べられなくなる。眠れなくなる。歩くと息が上がる。それでも音楽だけは聞いていた。スマホから流れる曲に合わせて、かすれた声で歌っていた。私はキッチンに立ちながら、その声を聞いていた。
ある日、急に歌が止まった。「どうしたの?」聞くと、夫は少し笑った。「声が出ない」風邪みたいな声だった。喉を押さえて、もう一回歌おうとした。でも途中で咳き込んだ。「歌いたいのになぁ」その言い方が、子どもみたいだった。私は冷蔵庫のドアを閉めたまま動けなかった。なんて返せばいいかわからなかった。頑張れ、なんて言えない。頑張っていたから。十分すぎるくらい。
入院してから、夫は急に弱くなった。昨日までできていたことが、今日はできない。その繰り返しだった。病室にはいつも機械の音がしていた。ピーコー、と。最初は気になったのに、だんだん慣れていった。慣れることが嫌だった。夜、病院を出るとき、夫はいつも言った。「気をつけて帰れよ」自分のほうがよっぽど大変なのに。ある晩、消灯後の病室で、夫が小さく言った。「なあ」「うん」「俺さ」少し間が空いた。「死ぬのかな」私はすぐ答えられなかった。窓の外に救急車の音が聞こえた。「死なないよ」やっと言った。夫は笑った。「棒読みだよ」「うるさい」「でも、ありがと」そのあと少し黙って、「俺、お前と結婚できてよかった」と言った。私は泣いた。泣くつもりなんかなかったのに、勝手に涙が出た。「泣くなって」「無理」「顔やばいぞ」「そっちこそ」 夫は笑った。痩せてしまった顔だった。でも、その笑い方は昔と同じだった。
亡くなったあと、部屋と私だけが残った。ソファ。マグカップ。脱ぎっぱなしのパーカー。生活の形はそのままなのに、人だけいない。不思議だった。夜になると、音楽を流すことが増えた。静かすぎるから。彼が好きだった曲を流す。すると、なんとなく人の気配が戻る気がした。昨日、久しぶりにカラオケの前を通った。駅前の店。ふたりでよく行った場所。学生らしい男の子たちが店の前で騒いでいた。楽しそうだった。それを見ていたら、急に夫の声を思い出した。「次、何歌う?」とか、「ポテト頼む?」とか。
くだらない言葉ばかりだった。でも、そういう言葉で毎日はできていたんだと思う。家に帰って、私はひとりで音楽を流した。夫が最後まで好きだった歌だった。目を閉じる。もし今、どこかでまた歌えているなら。苦しくなく、ちゃんと声が出ているなら。それでいいと思った。空の上なのか、どこなのかはわからない。でもあの人はきっと、マイクを握っている。前奏が流れるのを待ちながら、少し得意げな顔をしている。そして歌い終わったあと、「今の、よくなかった?」と笑う。
私はたぶん、一生夫を忘れない。でも、忘れないまま、生きていくんだと思う。窓の外で風が吹いた。洗濯物が揺れている。私は立ち上がって、ベランダへ出た。少し寒かった。そういえばあなた、こういう日にいつも寒いって言ってたね。私は誰もいない空に向かって、小さく答えた。「今日は、ほんとに寒いかも」