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傘はいらないね
臘梅
「桜の樹の下には」
春風がふわりと彼女の髪を浮かばせながら、そっと体を撫でていた。彼女は耳に髪をかけながら桜の木の枝を見つめる。桜の匂いが鼻先を掠めた。見慣れないスカートに、伸ばしたらしい黒髪。ほんのりと甘い香水の匂いがして、それが嫌に染み付くような感覚がした。彼女は私の一歩先にいて、それから、私を見ることはなかった。
「死体が埋まっているんだって。だから、こんなにも綺麗なんだ」
彼女の声は、変に生温くて、そのくせ冷たかった。秋みたいな声だった。
「ね」
楽しそうな、嬉しそうな、子供みたいにはしゃいだ声で私を呼びかける。鳶色の瞳がこちらを向く。ふわりと一瞬薄く薄明がかった髪が彼女の顔を隠して、微笑んだ輪郭だけが目に映る。酷く濁った二つの宝石が爛々と輝いて、薄暗がりの夕方では、やけに目立って見えた。気持ち悪いくらいに輝いていて、桜なんかよりも、夕日なんかよりも、ずっと、この瞳を見る方が美しいとだって思った。
「明日は雨が降るらしいよ」
彼女は樹を見上げる。どこか遠く、淀んだままの宝石に映して。不意に開くつもりもなかった唇が開いて、出すつもりもなかった言葉が喉からするりとこぼれ落ちた。
「明日も、花見をしようか」
ぱちくりと目を瞬かせて、彼女はこちらを向く。それから、にっこりと、今までに無いくらい他人行儀な微笑みを浮かべて、風に揺れる髪を抑えながら言った。
「──それなら、傘はいらないね」
春は散る。風のせいだ。