🗝️🌙夜灯館

「本当に…こんな場所で良かったの？」 母の不安げな声が、まだ重く澱んだ空気の中を漂っていた。 私はうなずいた。 築五十年の洋館。木造三階建て。人里離れた山の中腹にぽつんと建っている。街から来た不動産屋が、信じられない安さで紹介してくれた物件だ。 「だって、ここなら静かで落ち着いて勉強できるし…私、来年は医学部狙いたいしね。」 「…そうね。わかったわ。」 母は、それ以上何も言わなかった。 父を三年前に亡くしてから、母はずっと働き詰めだった。私の進学費用も、ひとりで必死に貯めてくれたのを知っている。だからこそ、家賃がほとんどタダ同然のこの館は、私たちにとって最善の選択肢だった。 けれど、館に足を踏み入れた瞬間から、私はなぜか―― ずっと誰かに"見られている"ような気がしていた。 洋館の三階、北東の部屋に、ひときわ大きな鏡が据え付けられていた。 腰まである金縁の姿見。どこか西洋風の彫刻が施され、色は煤けて黒ずんでいたが、鏡面は不思議なほど美しかった。まるで水面のように、わずかな光を取り込んで、ゆらゆらと揺れているようにすら見えた。 「…この部屋、好きかも。」 私はそう呟いて、自分の寝室に決めた。 鏡を見つめると、私の姿がそこに映っていた。黒髪、地味な顔、少し痩せぎす。何度見ても、冴えない自分だ。 「頑張らなきゃね、医学部。」 鏡の前でそう呟くと、なぜか―― 映った"わたし"が、わずかに微笑んだように見えた。 --- 夜になると、この館は急に温度が下がる。 夏だというのに、毛布が手放せなかった。 ある夜、私はふと目を覚ました。 時計は午前二時。窓の外には月が出ている。静かなはずなのに――どこかから、ぺた、ぺたと、足音のような音が聞こえる。 「…お母さん？」 起きてきたのかと廊下を覗いたが、誰の姿も無かった。 そのまま部屋に戻ろうとして、ふと――鏡を見た。 「…あれ？」 鏡の中の"わたし"が、動いていない。 現実の私は、首を傾げている。けれど鏡の中の私は、真っ直ぐ前を見据えたまま、動かない。 ぞっとして目を逸らし、もう一度鏡を見直す。 今度は、ちゃんと動いていた。 「…気のせいだよね。」 そう自分に言い聞かせながら、私は眠りについた。 --- 翌朝、私は気まぐれに日記をつけ始めた。 『七月十四日 鏡の部屋に引っ越して二日目。昨夜、変な音がした。 鏡の中の"わたし"が、少し変だった気がする。気のせい…だよね？』 その夜、また足音が聞こえた。 廊下の奥から、ぺた、ぺたと――裸足で歩くような音。 母の部屋を覗いたが、母はぐっすり眠っていた。 私は恐る恐る、三階の自室に戻る。 鏡を見ると、"わたし"がまた――にやりと、笑っていた。 「…違う、私じゃない…！」 私は叫びそうになった。けれど、声が出なかった。 その時、鏡の中の"わたし"が口を開いた。 「ねぇ、入れ替わろうよ。」 そう囁いた。 --- 「最近、あなた、少し変じゃない？」 ある朝、母がそんなことを言った。 「なんだか、ずっと誰かに睨まれてる気がするの。ごめんね、私、ちょっと疲れてるのかも。」 私は「うん」とだけ答えた。 だけど本当は、私も感じていた。 この館には、確かに"何か"がいる。 廊下の端に、黒い影。 窓に映る、ありえない角度の手。 そして、鏡の中の"私"。 私は、とうとう決心した。 「この館を、出よう」と。 --- その夜、荷造りを終えて、母を起こしに行こうとした。 けれど、母の部屋のドアは開かなかった。 「お母さん！開けて！」 返事がない。 私は全力でドアを叩いた。そのとき――背後から、声がした。 「どうして逃げようとするの？」 振り向くと、鏡の中の"わたし"がそこにいた。 鏡の中でしか見えない"私"が、笑っていた。 いや――鏡の中ではない。 部屋の"こちら側"で、鏡から這い出すようにして、"もう一人の私"が立っていた。 「せっかく、わたしが助けてあげようと思ったのに。」 その声は、まるで私自身の声だった。 「もう、交代の時期なの。あなたは、閉じ込められる番。」 私は、逃げようとした。けれど足が動かない。 気づけば、身体が徐々に鏡へと吸い込まれていく。 鏡の中で、もう一人の"私"が笑っていた。 --- 翌朝。 母が起きてきた。私は台所で朝食を用意していた。 「…おはよう。なんだか今日は、よく眠れたわ。」 「そう？良かったね。」 私はそう言って、にっこりと笑った。 母は、少しだけ不思議そうに私を見つめたが、すぐに笑い返してくれた。 私は、もう大丈夫。 鏡の中の"わたし"は、もう戻ってこない。 ――あの子は、今度こそ、私の代わりになったんだから。 --- 『七月十七日 わたしが、わたしじゃない。 鏡の中から、誰かが私の声で笑ってる。 母さん、気づいて。お願い、ここにいるのは、 ――本当の私じゃ、ないんだよ…。』 その日記帳は、今も三階の部屋に置かれている。 ページの最後、血のような赤いインクで、こう記されていた。 「もう、出られない」