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夢見草
ニュースで桜の木の倒木が相次いでる、という話を見て思いついたものです。結構ささやかな話です。
日本人は、きっと昔から桜を愛していたのだろう。この花について調べると、たくさんの話があり、たくさんの創作があり、たくさんの伝承があり、たくさんの愛憎が込められているのが分かる。
桜に関する洒落た言葉も、他の草花達に比べれば、めっぽう多い。うんと昔の時代から、日本人が特に桜を愛でてきたであろうことは、そういうところからも分かる。
しかし、愛するということは、その愛の対象を綺麗に仕立て上げるということばかりではない。
この花はときに、人の憎しみや呪いを背負った。どこかの作家が、桜の木の下になにが埋まっているのかを想像することもあれば、どこかの誰かが、すぐに散りゆく|花弁《かべん》を見て、悲哀の情をそこに馳せたこともあったろう。
そうして、桜は人々の心を背負い、散り、新たな葉に生まれ変わり、春が訪れるときにはまた、桃色の蕾を咲かせていくのだろう。
その桜の美しさを、私は散歩道で見ていた。散歩でよく歩く道に、桜並木があるのだ。この時期になると、せっかくなのでそこを通ることが多くなる。
視界に入る限りの、夢見草。その光景は、なんと言おうと刹那的だった。ここからあと一カ月もすれば、じきに全て散りゆくのが桜という花だが、それでも、この花に一生を託してもいいと、その並木の中を通る瞬間は、確かに思えた。それくらい、美しかった。
しかし、美しいものにも、醜いものだったとしても、終わりというのは来るのだった。
とある桜が倒木してしまったらしい。昨日、またいつも通り散歩に出かけた際に、初めて知った。並木の道の内側に倒れてしまったらしく、並木を歩けなかった。
道を変更することも、もちろん私にはできた。しかし、なんだかこの時期は、この並木道を歩けないというだけで気分が損なわれるので、私はそそくさと帰っていった。
帰ってから、一つ考え事をしていた。
あの桜は、憎まれてしまったのかもしれない。と。
誰かの妬みや嫉み、恨み、怨念、憎しみが籠もってしまったから、倒れて消えてしまったのではなかろうか。そう考えついた。
桜とは、得てしてそういう人の気持ちを解放させてしまう花である。あの狂気的とも言える散る様の麗しさに、頭をおかしくさせられてしまう人がいるのだ。昔も今も、変わらずいるものなのだ。
私のように、一生を託せるぞと愛する者もいれば、美しすぎて消してしまいたい、その光景を台無しにさせてしまいたい、という愛を持つ者も、この世にはいる。そういう人は、基本的には世間が考える愛情と、自らの持つ愛情の反りが合わず、誰かを消す前に、本人が消えていってしまうものだが。
しかし、はっきりとした意思を持つわけでないあの桜花を前に、気持ちが抑えられなくなる人もいることだろう。そういう人間に、あの倒れた桜は、目を付けられてしまったのかもしれない。
そう思うと、なんだか私の中で、倒木が悲劇的なことに思えてきた。もちろん、悲劇なんかではない。ただ木が倒れた。それだけのことだ。
それだけのことだが、やはり倒れたものが桜とあっては、なにかを想像せずにはいられなかったのだ。なんたって、私達はあの木達に思いを重ねて、古来より生きてきたのだから。
夢見草というのは、そういう花であった。
さて、そうこうしていると、友人から一通の連絡が来た。花見をしないか、という旨のものだった。
私はそれを見て、心にどこか、確信めいた感情を抱いたのだった。