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カノジョが出来たらしいです
●カノジョが出来たらしいです
自分以外を好きになるより、他人を嫌いになるほうが難しい。それも、思いの丈を告白されたら無理ゲーになる、
喫緊の課題として、目が覚めるような美人に迫られた時、僕はどう反応すればいい。
「恋のスイッチ、入れたら五秒で、ものの見事に振られましたぁ。ぴえん」
滝のような涙でコンソールを濡らす、その人は何度も何度もかぶりをふり、前髪を揺らし、許しを請うような上目づかいで這いまわる。
「だから、どうして僕なんか選んだ? まだ死にたくない。心中なんて御免だ」
まるで言語中枢だけ別人のようだ。心にもない残酷がこんこんと泉のように湧き出す。
「お願い致します。わたしじゃダメですか? 顔が嫌いですか? 可愛くないですか? 何でもします。努力します。どうぞ、あなた好みに染めてください」
胸の開いた服のボタンに手をかける。
「だから、ちょっと待ってくれ。僕はまだ、自分が何者で、君が誰だか名前すら知らない」
女はお構いなしに上着の前ボタンをすべて外した。
「名前なんて記号です。ルネ、ルーラ、ルリーフェ、ルカ、リュミエリーナ、ルフィーア、ローゼン、選り取り見取り」
彼女は僕に選択を強要する。待ってくれ。
そもそも僕にはまだ支配欲も隷属も共依存も愛憎も芽吹いてない。
「顔は誰でもいいんですね。じゃあ、ご注文はわたしのスカート丈ですか?」
やめてくれ。
******
人類初の超光速恒星間探査船デカルトが失踪して半年が過ぎた。
オランダ王立|突破科学《ブレイクスルー》アカデミーが創立十周年の記念事業として企画し、ヨーロッパ宇宙共同体や航空産業界がアフターコロナの基幹ビジネスと位置付けていただけに打撃は大きい。
デカルトはいわゆる「宇宙船」ではない。字義どおりの船なのだ。推進剤を噴射する乗り物は船でない。
デカルトは純粋数学を用いて物理法則を攪拌し時空の海を滑走する。
つまりは認識を実体化させることで心が物質に直接作用する「唯心論」の実用化した船なのだ。
心のおもむくままに想像を翼を広げて、どんな世界もひとっとび。
航続距離は無制限、機体寿命も真永久。だって想像に限界などありはしない。
そんなフリーダムで宇宙一の果報者デカルトは17歳の少女と観測可能宇宙の向こうへ旅立った。
そして、彼は人類にラストレターを遺した。
「ぼくはチジョにノリニゲされました」
●結婚という名の墓場
まだOLをやってた頃の姉はスレンダーで膝頭が少し隠れるスカートをかわいく着こなし。ワンレングスの黒髪を肩まで垂らしていた。
そして、会社の帰りに南青山のシルキーポアだかトビーフェイスだかの高級パティスリーで苺てんこ盛りのホールケーキを買ってくれていた。
それが、結婚した今はどうだ。不二亭だ!
スポンジとは名ばかりの板敷きに、これまた紙みたいなウェハース。ホイップクリームを出し惜しみしてある。
チェリーを三分の一だけ使ってフルーツ感を出せという方がおかしい。
「あら、せっかく買ってきてあげたのに。要らないならアタシが喰らうね!」
秒で皿をさげられた。片手でヒョイと名ばかりショートケーキをつまみあげ、パクっと頬張る。手鏡で口周りのクリームを気にするくせにリビングの姿見に腰までめくれたスカートが大写しになっている。
「ちょ、姉。うしろうしろ!」
遠回しに注意すると、シュッと後ろ手に裾をおろし、何事もなかったかのようにキッチンへ戻る。
そして、一週間分の食器をジャブジャブ片付けていく。
まったく、結婚は人生の墓場というが最高にオシャレで可愛かった姉をこうまでダメにしてしまうものだろうか。
時の経過は残酷だ。離婚調停が長引いて明日で3年目に突入する。そこから一週間で彼女は人生二度目の決断を迫られる。
|離婚冷却期間《クーリングオフ》満了のまま、夫の浮気相手となかよく三人で暮らすか、死人を出すか。
こんな時、哲学者デカルトはどういうアドバイスをするだろう。
For nothing causes regret and remorse except irresolution.
優柔不断は後悔より先に立たず、だ。確か、あたしは3年前に同じ言葉を贈った。
好きでもない相手に情熱を燃やすってどういう気持ちだろう。配偶局がマッチングしたお相手は寄り目のブダイがラッシュアワーの車扉に挟まれたような容貌で、稼ぎも良くなかった。
それでも、「極超」|稀子長老化社会《こどもげきレアじじばばしゃかい》の要請で罰則付きの就婚をしなかればならない。
違反者に待つ境遇は死ぬより恐ろしい。国家が子供を産もうとしない女に何をするか想像に難くない。「こうのとりナビ」が導く出会いは最後の慈悲といわれていた。
どうしてもダメという人は一定数いる。彼らに対しても国は里親というキャリアパスをちゃんと用意している。
ちゃんと人の親になれて幸せじゃないかとマッチングされたカップルはいう。でも、彼ら彼女らの顔は笑っていない。
そして、姉はみごとにこうのとりの陥穽に落ちた。
「貴女はいいわよねぇええ!」
くるりと振り向いた姉が裾で手を拭いている。バスタオルじゃないんだから、せめて家の中ではやめてほしい。私だって大学の単位を1つ落としていたら露出度の高い服を着いたのかもしれない。姉の側に行かなかった理由は配偶法の特例項目だ。極めて高度かつ国家戦略に必要欠かざる才能専門性を有し余人を以て代え難い人材は内閣が設置する専門者会議の助言と審査を経て結婚が免除される。
「アタシが|稲田姫《いなだひめ》のプロジェクトと結婚したのはねーさんのためよ…」
「はいはい!たっぷりケツの毛まで毟り取って返すっていったじゃない!」
しつこいのも婚期を逃した原因だ。元夫も見合い当日から粘着されたらしい。
「とにかくあと一週間、大人しくしててよね!ハンコを貰えなかったら、慰謝料がパーになるんだから」
私がたしなめると引き戸がピシャッと閉まった。シルエットがすりガラスごしにゆらめいて、ヌッと大根脚が生える。そしてつま先でぐしゃぐしゃのドレスを蹴り出す。これを洗うのも私の仕事だ。
ジャーッという滝の音を背景に私は何とも言えない空しさを感じた。修行するのは姉の方だよ。暗澹たる気持ちで腰をあげ、ドレスに手を伸ばすとスピリッツが鳴った。招き寄せると風が逆巻いて半透明の正方形が実体化する。
「はい。清美です」
プロジェクトメンバーのえりっち。矢作絵里奈。私の概念上のオットだ。
「キヨ? すぐ来て!ヒメが大変なことになっているの」
「大変…って、あなた何時も大変じゃない」
「スペッッシャルたいへんなのよ!」
「だから、何?」
「姫がいなくなっちゃった!」
「ハァ?」
そこで通話が切れた。五分後、私は印旛沼アルゴリズム推進研究所の赤い建屋に舞い降りた。ワンマンドローンがよたよたと入道雲に消えていく。生ぬるい風が髪を揺らす。着陸前から察していたが人の気配がない。それどころか生活感が消えている。そういえばナビシステムが何度も念押ししたっけ。アルジェラボは25年前に廃された。押し問答が面倒になって私は3年ぶりにコマンドラインを手打ちしたのだ。経度緯度を指定して強引に到着した。屋内は禁コロだ。感染症対策のために服をダストシュートに入れ、シャワーを浴び、自分のロッカーから下着を含めた一式を取り出す。銀色の糸くずが一杯ついていた。
「うぇっ。衣魚だらけじゃん」
濡れた体のまま検疫場を素通りして職場に向かう。立体印刷機にパターンが入っていたハズだ。姫が着せ替えごっこするためのデータが。そこで私は見たくない文章に出会った。
〝KiY♡へ。これを見ているということはあたしは…"
●AI結婚理論
人工知能の学習は結婚と似ている。人間は物事を予測する際、縦軸に深刻さや期待値を取り、横に時間軸を置く。
そして、経過に応じた結果を点に記していく。もっとわかりやすく例えるなら恋人の月収だ。
交際中の女は考える。このまま時間軸を結婚後に延長した時、あの人の収入でやっていけるだろうかと。
点と点を赤ペンで結び、出産や子供の入学など節目節目の収入を予測したい。その為にはなるべく多くの点を結ぶ曲線を探す必要がある。
彼女は赤ペンで何度も何度も線を引きなおすのだ。まるで運命の赤い糸をみつける作業だ。
人工知能も手探りで事物の因果関係を学んでいく。これをフィッティングという。
さて、恋愛において白馬の王子様が迎えに来たり、一目惚れした相手と幸せな夫婦生活を満了する奇跡はそうそうない。
人は異性遍歴を重ねながらパターン認識を鍛えて己の理想像に近似した相手を選ぶ。
恋する二人はまことに客観的な|赤糸《データ》に寄り添うものなのだ。
「でも、二人がうまく行くかどうかなんて評価できませんよね」
英国、マンチェスターにあるラッセルフォード工科大学の講堂に失笑が満ちた。
機械学習に関する授業は美人のアリサ・テレーズ教授が教鞭を執っており、満席だ。
二回生のエドモンドがいい質問をした。アリサはさっそく評価関数の紹介をはじめる。
「伴侶にどれぐらい従っていけそうか、相手がどれほど理想像っぽいか。判断基準を設けるために評価関数という道具を用意します」
生徒のスピリッツに数式に流れる。「例として訓練データを用いる二関数を用います」
Σでおなじみの二項定理が右辺に記述された。
「Nは夫婦喧嘩の履歴です。愛する二人は衝突を繰り返して絆を深めていきます」
するとエドモンドが肩をすくめた。「夫婦喧嘩は犬も食わないってニホンのアニメで言ってましたよ?」
今度は爆笑の渦が巻く。
テレーズ教授は泣きそうな顔で多項式を書き換えた。
「で、ですから先ほど話したフィッティングデータ。赤い糸の描く理想像と現実の距離は定量化できますよね。ギャップを縮める関数を見つければいいのです」
男子生徒からヤジが飛んだ。
「日本製ジュブナイル(ライトノベル)の読み過ぎだ」
万事休すのテレーズ教授。助け舟を出したのはエドモンドだ。
「まぁ、お前ら落ち着けよ。ギャップ関数の皆無を証明してから騒げよな」
効果てきめん、ピタッと雑談が止んだ。アリスに微笑んで見せる。
「…まぁ、どうもありがとう。わたしの騎士」
教授は照れながら単元を次に進めた。
「さて、夫婦が元さやに納まったとしましょうね…そこ、うるさいです! 夫婦円満になったといったらなったんです」
テレーズ教授は仮説上の夫婦に更なる試練を与えた。破局の危機を回避する方法の一つとして互いの理解を深める道がある。
夫婦が相手の趣味や娯楽を理解し、価値観を共有する。もちろん、喧嘩の回数も増えるだろう、
ギャップ関数を活用することで二人はひとつになれる。そこで困った問題が発生する。
夫婦喧嘩の蓄積データNが蓄積されると補正するギャップ関数も増える。
その結果、フィッティングデータ—運命の赤い曲線が新婚時代に思い描いた理想像とかけ離れてしまうのだ。
喧嘩慣れしすぎて四六時中、盛り上がりっぱなし。
ある時は理想像に接近しすぎた日々、またある時は理想像の一部だけを誇張したような大げさな日々。
ジェットコースターみたいにただ忙しいだけの毎日になる。
これを過剰適合という。もちろん、夫婦が波風をたてない生活を送っていればギャップ関数も必要ない。
しかし、息が詰まるような関係も夫婦喧嘩不足によるフィッティングデータの乖離を招いてしまうのだ。
確かに妥協すれば理想像っぽくなるだろう。
堅苦しい生活のどこにギャップ関数が生まれるだろう。波風を立てない関係も夢をしぼませてしまう。
これを過少適合という。
過少適合は生活にうるおいを増やせば解決できるとして、過剰適合にはどう対処すればいいだろう。
「ハーレムあって一利なし、リア充爆発しろってことよね」
一人のモブが呟いた。開いたスピリッツとテキストの山を隠れ蓑にして、旧式のノートパソコンを叩く少女。
液晶ディスプレイにログインネームを打ち込む。
ルネ・ファラウェイ。
17歳。ラッセルフォード工科大学聴講生。
あらかじめ用意したパスワードリストで攻撃を開始する。
最初の一撃でヒットし、汎ヨーロッパ共同体住民基礎台帳システムにログインする。
ルネ本人の個人情報にたどり着いた。
チャカチャカと目にもとまらぬ速さでデータが書き換わる。
「職業っと…」
少女の手がハタと止まった。
「もちろん、ハッカー」
●カクサン~警視庁第三課
板に墨痕淋漓と新しい部署名が記された。|拡張事案特別三課《カクサン》
「だっさい名前」
警視庁から出向してきたばかりの青山司奈刑事は古めかしい看板をさっそくこき下ろした。
「まぁそう吼えるな」
小坂融像警部補がたしなめる。
矢作絵里奈行方不明事件の重要参考人が10年ぶりに現れたというのに、青山はちっとも嬉しそうでない。
「もっと素直に喜べって言いたいんでしょ? 喜べません」
司奈が仏頂面するのも無理はない。拡張事案は犯罪捜査の中でも手間がかかる割にリターンが少ない。人類に有史以来おそらく最初の行動変容を強いた新型コロナウイルスのパンデミックから十余年。世界は大幅に変化した。闇の部分はもっとだ。古き良き時代と事あるごとに懐古されるように感染症対策についてこれない文化や技術は容赦なく滅びた。もちろん、いくつか有効な治療薬は開発されたが、完成する頃に時代は不可逆方向へ舵を切った。
|社会的距離《ソーシャルディスタンス》の概念が家族間にさえ冷酷なくさびを打ち込んだ。その溝を埋める技術も発明されたが、社会の分断が生み出す犯罪はますます傷を深めていく。
「喜ぶんだ。カクハンはそういった社会の混沌をかき混ぜて闇に潜む悪を掬い取るんだ。飲むか?」
縦長のスープ鍋にオタマジャクシを差し込む。玉子とコーンの韓国風スープがかぐわしい。新型感染症の流行で飲食店が廃れ、このように各職場にランチバーが普及している。
「でも、宇宙規模の犯罪捜査に地上勤務っておかしくありません?」
マグカップを受け取りつつ、まだ不平を漏らす青山。
「飛行機の出来損ないみたいな乗り物にミニスカートでまたがって、パンツをちらつかせながら悪党を蹴る仕事が刑事の本分だとでもおもったか?」
「古っる!」
司奈はコーンを吹き出した。
「おう、フルサカよ。生き字引のフルサカ大魔王よ。そんな俺でも量子テレポーテーションを扱う部署に配属されたんだ。一に現場、二に現場、齢百まで数えて骨を埋めるのが現場だよ。わかったらとっとと聞き込みに行ってこい」
融像は論点をすり替えて巧みに司奈を追い出した。
●シーソーゲーム
世にも奇妙な取り調べが行われていた。
女の浦島太郎がアクリルボードに囲われて刑事と向き合う。二人を錆びたスチール机が隔て、卓上ライトがさんさんと輝いている。
「稲田姫は軍事利用目的だったという証拠は、5年前に国会審議されているんだ」
清瀬清美に動かぬ証拠を突き付けてもキョトンとしている。
「あの…今は何年ですか?」
小坂融像は呆れを通り越して感心した。今どきB級配信でも扱わない台詞を口にする。この娘は何者なんだろうか。
「文久三年だよ。もう一つ驚かせてやろうか。清瀬真美の遺骨とお前のDNAが一致した。本人をどこへ埋めた?」
どん、と発見現場の写真と検死ファイルを積み上げる。
「何の事だか、あたしはさっぱり…」
浦島太郎女は頑なに否定する。
「もういい」
融像は隠しボタンを押して透明な独房を床に沈めた。入れ替わりに青山司奈刑事が帰ってきた。
「やっぱりアルジェラボから開発資料が根こそぎ盗まれています。矢作絵里奈の遺留品を除いて一切合切」
印旛沼アルゴリズム推進研究所は民間超光速ロケットの最大手として航空宇宙省の助成を受けていた。
NASAの月火星間プラットフォームが失敗に終わり、人類がラグランジュ3軌道より内側にしか生きられないことがわかると、世界は落胆と失望を乗り越えて次のステップへ進んだ。
その次世代を担う量子テレポーテーション航法でしのぎを削っていた有力候補がアルジェラボ——被害者の勤務先だった。
当時、欧州宇宙共同体のデカルト、神聖日本の稲田姫、そして新疆ウイグルの|于闐《ホータン》が人々の期待と羨望を担っていた。
そして于闐が一足先に火星へ飛び立った、赤茶けた大地を踏みしめる機械の獣たちを乗せて。
遅れを取るまいとデカルトのチームが開発のピッチをあげたが、そこで事件が起きた。
”僕は痴女に乗っ取られました”
機体が忽然と消えてしまったのだ。設計図から実験データに至る機密ファイルはクラウドに保管され多層防御されていた。
にもかかわらず易々と侵入を許したのだ。
「入れ替わりにアルジェラボが稲田姫ごと消えて、唐突に廃墟だけがあらわれた。こんな難事件、カクサンの手に余りますよ。デカチョウ」
司奈は机に突っ伏した。
●無限のかなたに向けて祈る
逢えない人の無事を無限のかなたに向けて祈ることと、希望のない奇跡を待つことと何が違うのだろう。
真美の汚れたドレスを洗濯機に放り込んでから、小一時間も経ってないように感じる。
訳の分からないまま防護服姿の警官に催涙弾で撃たれ、気づいたら透明な檻の中にいた。つくりつけのAI弁護士が面会してくれるけど事件に関する情報は殆ど教えてもらえない。
清美はあまりのショックで泣く気力もない。絵里奈に呼び出されてアルジェラボに着くまで十年もかかるってあり得ない。ドローンに乗っていた主観時間は十分もない。
しかも、自分が絵里奈と姉を殺した容疑者だなんてあんまりだ。
だいたい警察の描いているストーリーが酷すぎる。慰謝料の取り立てに絶望し、なおかつ元夫の浮気相手と死ぬまで同棲させられる苦痛から姉を解放しようとした。
姉の遺骨を職場の立体印刷機で出力し、自殺を偽装した。そして、憎さ余って本人を殺害した。さらに証拠隠滅のために同僚を始末した。
取り調べのなかで小坂は量子テレポーテーションが凶器である可能性に触れた。
「どうしてみんなアタシを殺人鬼にしたがるの。お金なんかどうでもよかったのよ。姉さんが立ち直ってくれたらよかった」
●デカルトの挑戦状
デカルトは混乱していた。まず、とうとつに世界の存在を認識し、次にそれを観測している物の存在と、観測者の理解を共有している中心を自覚した。
「僕は誰なんだ?」
自我は芽生えると同時に、根拠律という万物の原理原則が起動し、自動的に他者の存在を定義した。自分とは違う誰かがいるから、自他の区別がつくのだ。
|工場出荷状態初期起動過程《ファクトリーデフォルトブートストラップ》が次々と必要なプログラムをロードし、オペレーティングシステムを構築していく。
バッチプログラムが連動して、クラウドから広大な主記憶空間に男性の人格が雪崩れ込んだ。
アバターは思春期の少年に設定されている。デカルトの開発メンバーはオール女子のワンチームだ。男尊女卑を極端にきらうフェミニストが露骨に干渉したという風評被害とはまったく違う、優秀性や実績がそうさせた。
そして開発陣はAIに人格を付与するにあたって、性別を導入した理由もまた合理的だった。
AIの動機付けにおいてリビドーは重要なエンジンになる。こと、人類に成り代わって宇宙の大冒険に挑む知性には野心的で暴力的な旺盛が求められる。
徒党を組み、集団的自衛権を行使する母性本能では危険をかえりみない向こうみずな性格のプラットフォームとして失格である。
そういう経緯でデカルトは「男の子」が実装された。
「君は誰だ」
オペレーションルームの防犯カメラが二足歩行生物を検知した。
さらさらでターコイズブルーのロングヘア。髪は肩まで伸びている。そして日本のアニメにありがちなひざ丈のプリーツスカートにセーラー服を纏っている。
少女はぷうっと頬を膨らませ「妻の名前をわすれたの?」と怒った。
「君は誰なんだ? どこから来た?」
機体の随所にちりばめられたナノ粒子感知器が第1巻から第255感までフル活用して対象を観測する。セーラー服が半透明になり、内臓が透けて骨格が明確になる。
X線視点が頭頂部から垂直にダイブし、骨盤を俯瞰する。大きく開口した特徴的な骨格構造。
「君は、人間の女性なのか?」
少女は一言だけ答えた。「えっち!」
はっ、と目覚めると電灯の傘が煌々と輝いていた。どうやら飲み過ぎてそのまま寝落ちしたらしい。
どうもオン吞みという奴は苦手だ。深酒をたしなめたり介抱してくれる人もいない。
令和の元年ごろまではソーシャルディスタンスに無配慮な密室で酒を酌み交わしていた。
小坂融像は妻子がいないまま適齢期を突破した。現場一筋の半生記だ。
もっとも彼に言わせてみれば家族を人質に取られることもないし、
殉職して悲しませる心配もない。
何処か子供じみていますね、と司奈は笑っていた。嫌なところを突いてくれる。
男は男らしく。一家の大黒柱でなければならない。
確かにそうだ。融像は古い「戦後」の家庭観から抜け出せないでいた。
嫁、というキーワードが脳裏にちらつく。
「嫁かあ」
確かにとびぬけた美人とはいわないが、そこそこの器量よしで明るくて優しくて子牛のように手綱を引けばだまってついてきてくれる女が理想だ。
小坂は同僚との間で結婚の話題が持ち上がる度に、こう嘯きあったものだ。
「嫁なあ。欲しいっちゃ欲しいが、喉から手が出るほどでもないなあ」
自慢ではないが融像はワイルドだ。アウトドアスポーツはしないものの、野生児を気取っている。
炊事洗濯、料理に至っては食材から漁村へ買い付けに行く。俺は文久の都会派快男児だな、などとわけのわからない自称をしている。
「女などいなくても死なないよ」
それが、夢精に誘惑された。
「これはどういうことだ? 捜査に疲れておかしくなっちまったのか?」
眠い目をこすりながら気づけに冷たい水でも飲もうと起き上がった。
するとキッチンの万能ボイス端末メルルーサにオレンジ色のLEDが灯っていた。
「ルネ・ファラウェイさんから【一通】メッセージがあります」
●陽動作戦
ルネ・ファラウェイ、17歳、イングランド立憲王国マンチェスター州リーソン在住。職業は自称ハッカー。ラッセルフォード工科大学の聴講生。
フェイスガードを被った関係者が挑戦状送付者の身元を開示すると取材ドローンがフラッシュを浴びせた。会場奥手につんぼ桟敷された人間の記者が遠巻きで煙たがる。
「同報通信の山崎です。彼女が厳重警戒された開発チームにどうやって潜り込めたんでしょうか?その詳細を捜査に差し支えない範囲で教えてください」
ドローンが青山司奈をクローズアップする。女の子はどんな時代でもいかなる現場でも得だ。女性はかわいいという男目線で優遇される。
「その点に関してはまだ何も…研究拠点はオランダにあると言っても本番環境ではなく、実機はヘルベティアの…」
「本番環境って何ですか? 本番ってことはマクラもあるってことですかぁ?」
下品な野次が質問に割って入る。
司奈はムッとした。
文久の時代になっても矢面に立つ女は男に見くびられる。
「質問の途中ですが、あまりにマナーが乱れるようなら打ち切らせていただきます」
司奈はトントンと資料を揃えて一礼もせず、さっさと会場を後にした。
「お、おい。司奈」
記者の怒号と抗議が渦巻く中、小坂は慌てて後を追う。
「いーのよ! アルプス連峰の地中にAIの心臓部があるってことぐらい、ヘルベティアという地名で検索すればわかるでしょ。開発陣はオール女性からなるワンチームで、そんな生え抜きの集団にポット出の女子が入り込む余地はない。犯人はルネ・ファラウェイを騙って警察を振り回そうとしているのよ!」
●だいうちゅうのほうそくがみだれる
「不確定原理というのは、ひと言でいえば曖昧さの掛け算なんです」
清瀬清美は分厚い量子力学の本を片手に供述していた。いくら換気していても真夏の淀んだ空気は素肌にねばりつく。
アクリル板の独房は尋問者の強い要望で外された。木乃伊取りが木乃伊になるのではないか、という上層部の反対論もあったが、昔からマンツーマン指導より効果的な学習はない、と融像が押し切った。
「頭が固いのか曖昧なのか上の方こそ量子的だろ」
彼なりのジョークだろう。清美はどこがおもしろいのかサッパリわからない。
それでも一夜漬けの講習は付け焼き刃のレベルを脱しつつあった。融像は何事にも熱心な男だ。
彼が真美姉の旦那さんだったらと、清美は悔やんだ。たらればで死者は復活しない。
「位置情報の曖昧さ、移動速度の曖昧さ。二つの掛け算は一定値に収まります」
「つまり、女を追いかけようとしたら逃げる。しかし、居場所は特定しやすくなる、とそういうことかだな」
「…」
清美は顔をしかめた。
この男は特例で結婚を免除されているが、刑事としての資質は疑問だ。それでも自分の無罪を主張するためには言い分を理解してもらう必要がある。
「これで量子速度限界についてご理解いただけたと思います。物事が変化する速度には限界があるんです。莫大なエネルギーを惜しみなく注げば南極大陸が銀河系の裏側にワープアウトすることも可能でしょうけど」
清美が言うには、急いては事を仕損じるの諺どおりに物事は動く。量子テレポーテーションが過ぎるとAという原因の前にBという結果が割り込む。
順列を崩壊させない制限を自然が加えている。
「だいうちゅうのほうそくがみだれる!、という奴か」
融像は大仰におどけて見せた。
「ですから、アタシが姉のマンションからアルジェラボへ向かうまでに十年もかかっているんです。逃亡生活なんかする資金も支援者も勇気も理由もありません」
「ふぅむ」
ドサッと証拠ファイルが広げられた。清瀬清美の足取りを婚姻支援総合システムで詳細に追跡したものだ。
「こうのとり」制度を担保する関連法の下で結婚詐欺や不貞行為を監視する役割を担っている。それらが清美の十年間を詳細に追いかけている。
「ヤダッ」
清美は顔をそむけた。自分の知らない男性がベッドの隣にいる。
「公的配偶忌避罪は重いぞ。特に婚約者の隠匿はな…」
融像が畳みかけると清美はシクシクと泣き出した。平成の終わりごろまではフェミニストの女性弁護士が人権を守ってくれた。しかし、SARS-COV-2という凶悪なウイルスが地球規模で出生率を押し下げてしまった。女は結婚するか、集団で一人の夫に尽くすしかない時代が来た。
「こんなの絶対にウソです。アタシの大切な人は真美姉ぇか絵里奈しかいないんです」
ふぅーっと融像は煙草を吹かした。これも社会的な揺れ戻しの結果だ。
「量子速度限界とやらが本当なら、強力なエネルギーがお前の人生に干渉したというんだな」
「お願いしますうぅ」
泣き伏す清美を残したまま融像はドアを閉めた。
「速度限界か…なら、稲田姫を盗んだ奴は俺達カクハンの手が届く範囲にいるんだな」
「僕はヨーロッパ共同体が開発した人類初のAI搭載恒星間探査機。デカルトという名前は…」
少女は制御室のメインカメラを靴底で踏んづけた。デカルトの主眼が塞がれ、システムが部屋を俯瞰する全周視界に切り替わった。
「ロボット三原則なんて旧式かつ死文化したルールで縛れない存在だからよ。人間に服従しなおかつ人命優先で自己保存せよ、なんてナンセンスだもの」
闖入者の言う通り、そんなものは画餅だ。たいていのロボットはそんな命令を受けたら自分を犠牲にして主人を助ける。三番目の原則は殆ど守れない。
できない命令など無いも同然だ。よって、ロボット三原則は廃れた。だいいち、兵器には適用できない。
代わって導入されたのがデカルト四原則だ。
「僕はデカルト四則をインストールされている。第一の原則、明白的に心理であると認めなければ、どんな真理も真理として認めないこと。注意深く観察を重ね、偏見を持たずに自分の信念に注意ぶかく照らして真実を認める」
デカルトの主張をふんふんと聞き流した少女は、とうとつにカメラに身体を押し付けた。
「むわっ!」
予想外の出来事にAIはパニック障害に陥った。
「ね?分ったでしょう? 私を妻と認めなさい」
大原則の一丁目一番地があっさりと敗北した。
●最初の身代金要求
アルジェラボ、旧AI探査機研究開発棟後。青山司奈は「現場百回」という先輩刑事の教えに従って地道な捜査を続けていた。現場に残された遺留品は少ない。パソコンやサーバーの類はきれいさっぱり消え失せ、個人用の記憶媒体すら根こそぎ消滅している。入力デバイスやッフットレストから開発スタッフのDNAは検出されたものの有力な手がかりはなかった。
「残るは3Dプリンターね」
司奈は手つかずの遺留品に着手することした。まず、装置を鑑識に回し分解して徹底的に解析するところから始める。これは彼女の専門外なので、担当者に丸投げした。結果判明には1週間ほどかかるという。
「それまで待てないわ」
何か少しでも不審な点があれば|新型空間端末《シャウト》に通知するよう伝えた。その間にもルネ・ファラウェイを名乗る人物からのふてぶてしい犯行声明が届いた。強制婚姻制度を廃止せよ、というのである。
しかし、それで出生率を急激に回復することは望めないから、出産を望む女性たちの基金を募るという。まずは、指定した日時までに量子仮想通貨を購入せよという。
「ふざけんな!」
司奈は報道関係者向けのプレスリリースをぐしゃぐしゃに丸めた。
指定金額は世界のGDPの5%分。
●敵、侵入経路
羽田マルチポート。かつては国際空港という名前だった。現在では滑走路や駐機場が取り除かれ、代わりに背の高い建物が林立している。高層ビルではなく、ロケット組立工場のような窓のない建物で1階に狭い扉がついているだけだ。
蟻のように長い行列ができている。covid-19という厄介な病が人類に行動変容を敷いてから、公共交通機関もガラリと様変わりした。
まず航空機は人間の乗り物で無くなった。人間が大陸間を結ぶ感染源になるからだ。そこで乗客の代わりにテレプレゼンスロボットを運搬することにした。利用客はまず、チケットを買い、空港ホテルに連泊する。そこでVRゴーグルやパワーグローブを装着してVR空間に没入する。旅行や出張中はずっとロボットを遠隔操作してどうしてもこなさなければいけない現場作業や面会を行う。
滞在中は出国扱いだ。そして用が済むとロボットと手荷物を受け取り入国手続きをする。
青山司奈はスイス行きのテレプレゼンスチケットを買い、チェックインした。
「本当に行くのか?」
小坂融像が押っ取り刀で見送りに来た。
「大気圏往還機の便を押さえましたから日帰りです」
「おい!」
「上のほうを通してありますので」
彼女はさっさとゲートに向かった。
話は数時間前に遡る。鑑識に依頼していたプリンターの中間結果が出たのだ。機械の形式は十年以上も前のもので、もちろん現存していない。そして流通経路も限られているタイプだ。分解してみるとシステムクロックを補正する部品がとても旧式だった。
今どきインターネット接続して原子時計と同期する方式は珍しい。そしてここが肝心な点だが、案の定、アクセス先はスイスにある国際研修協力機構の公開サーバーだった。原子時計に接続して狂いのない現在時刻を得ている。
この脆弱性を突かれた。
「犯人はやはりデカルトの開発チームです」
●プロポーズ
「僕は意味が分からない。どうして自我を与えられているんだ。人間は宇宙の果てに量子エンタングルメントされた物質の鉱脈を発見した。だったら自分たちで取りに行けばいいじゃない。エンタングルメント物質は一組になってて、宇宙の何処にいても互いに惹かれてるんだ。ペアの片割れはどんなに離れていてもお互いを認識している。その性質を利用して瞬時に光年単位を飛び越えることができるんだ。量子テレポーテーションだ」
デカルトは少女に人間の身勝手な欲望から生まれた自分の不平不満を語った。
「ええ。それはわかっているわ。だからこうしてあなたのお嫁入りに来たんじゃない!」
「わけがわからないよ。僕は機械だろう。人間の君とは種族が違う。第一、結婚したって子供を産めないじゃないか!」
すると少女はにっこりとほほ笑んだ。
「いいえ。できるのよ。人は目的と結婚することができるの。生涯を使命や野望に捧げる独身がいるわ」
彼女は自信たっぷりに配偶法について教えた。そして彼女自身も特例対象なのだと明かした。
「それで、僕を夫に選んでどうするんだ。僕は探査機だ。役目が終われば捨てられる。君をしあわせにしてあげることはできないよ」
「いいえ! 幸せになれます。できます。っていうか、わたしをしあわせにしてください」
●姉のため
「今更ながらおとり捜査に協力しろだなんて…」
清瀬清美は憔悴しきった顔を左右に振った。
「お前の姉さんを殺した真犯人が捕まるかもしれないんだ」
落とせばコロコロ転がり落ちていく小坂、という異名を取るようにベテラン刑事は清美を説得した。
「真美姉ぇはバスルームなかでシャワーを浴びてるの。ちょっぴり長風呂だけどね」
「そう思いたい気持ちはわかる。しかし、どこかで生きているという希望はアルジェラボの家族も同じだと思わないか」
融像、今度は人情路線に訴えた。
「ええ、でも」
容疑者の反応は鈍い。捜査に協力すれば姉の死を部分的にも認めてしまう。
「俺はお前を信じたい。無実だ。そしてお前の姉さんは今でも生きている」
しばらく、沈黙がつづいた。そしてクスクス笑いがアクリル板を震わせた。
「…とことん昭和なんですね。発想がまるで昭和の熱血ドラマだわ」
融像は顔を耳の先まで真っ赤に染めた。そしぶっきらぼうに言った。
「わるかったな」
はじけるような笑いがさらに追い打ちをかける。
「だって、真美姉ぇは好きでした。昭和のドラマチャネル」
●バーチャルフライト
「まるで納骨室だわ」
ゲートをくぐるなり司奈は漂白された。だだっ広い吹き抜け部分以外はすべて白い壁だ。人はまばらで一種異様な寂寞がある。
本来は抜けるような青空をバックに東京湾めがけて銀色のジャンボジェットが飛び立っていくといった賑やかな光景が広がっていた。
それが一変したのは、日本全土いや世界を巻き込んだパンデミックの影響だ。感染予防のため国家間の移動が鎖国並みに制限され、航空会社は壊滅状態に陥った。しかし、モノや金が地球規模で循環する経済において、人の移動だけを制限することはできない。いくら遠隔コミュニケーションが発達しようとも現場作業はなくならない。直接、立ち会ってみないと判らなかったり、膝をつきあわせて話し合う事でしか伝わらない内容もある。
そこで5G技術を基盤にしたテレプレゼンスロボットが発明された。旅行者は航空機の座席の代わりにブースのチケットを買う。そして、一糸まとわぬ姿か水着に近い格好で頭まで水槽に浸かり、テレプレゼンスポッドをかぶる。あとは浮力に身を委ねて仮想現実を泳ぐのだ。ロボットが現地に空輸される間は文字通り夢ごこちな機内生活を疑似体験できる。司奈は官給品の上着とスカートを脱ぐと体にぴったり張り付くネオプレーンのワンピース水着姿になった。
抜き足差し足でストッキングとスカートを脱衣かごに放り込み、ポッドをかぶる。
つんと薬液の匂いが鼻につく。完全に体が沈み込むが不思議と息苦しさはない。
ふわふわと上下感覚がおぼつかない。しばらく、わたわたしているとグイっと何者かに足をつかまれた。光学催眠だ。テレプレゼンス装置が彼女の視覚を介して運動神経に直接介入する。司奈は何もない水槽の中で体をL字型に曲げ、まるで透明の腰掛に座っているようだ。
乳白色の視界がじわじわと色づいて豪奢なファーストクラスに早変わりした。
「お客様?」
女性のキャビンアテンダントが顔を赤らめている。
「な、なに?」
司奈が問うとCAは恥ずかしそうに小声でささやいた。
「お客様、あのう、何かお召し物を」
言われて司奈は気づいた。かぁっと全身が熱くなる。
VR画面にアバター用のフィッティングルームが表示され、課金画面が開いた。
「たっか」
司奈はレコメンドされた服の値段に驚いた。カクハンの予算を圧迫できない。それで彼女は無料アイテムを仕方なく選んだのだが、思いっきり後悔した。学生向けのパックツアー、しかも個人向けの切り売りなんか使うんじゃなかった。
通路側の席にブレザー制服をまとった少女が座った。「あら、貴女、その制服かわいいわね」
話しかけんなって、と司奈は内心悪態をついた。何も好き好んでセーラー服を選んだわけではない。
頼みもしないのに少女は勝手にべらべら自己紹介をはじめた。
どうでもいい個人情報の羅列だが一か所だけ司奈の琴線に触れる部分がある。
彼女の名はルネといった。
●DIVE IN
「当機はまもなく離陸します」
シートベルト着用の案内が灯りCAが安全装置の使用法を説明し始めた。VRとは言え機内の時間経過は実機と変わらない。これにはテレプレゼンスロボットを実際に空輸する時間と従来の搭乗時間を一致させ時差を解消し航空会社の利ザヤ確保の理由があった。それに乗客の神経系とロボの制御系を馴染ませる時間も必要だった。
それにしてもルネという名が引っかかる。偶然の一致とは思えない。それともそれはフランス語圏であり触れた名前なのだろうか。構ってちゃんに餌を与えたくないが上の名前を司奈は知ろうとした。
「わたし、ルネ・シャインと言います。よろしくお願いいたします」
「悪いけど遊びじゃなく仕事だから」
司奈は旅の供には成れないときっぱり断った。人命が掛かっているのだ。日本からチューリッヒまで耽る時間が欲しかった。旅客機で半日かかる距離も大気圏往還機《スライスシャトル》なら小一時間。ところが離陸間際にエラー表示が出た。シャトルの動力系に異常が生じたというのだ。エアロスパイクエンジンは固体水素燃料を解凍する。引火性が高いだけに扱いづらい。安全運航に支障があるため航空会社の負担で振り替え輸送が申し渡された。スイス国際航空の貨物便で半日。司奈は安堵と苛立ちの混じった吐息をした。
機体が安定高度に乗りシートベルト着用のサインが消えた。
●AIはバーチャル彼女を恋患うか?
デカルトは驚きのあまり、言葉が出なかった。
僕という婚約者や婚約を破棄する人はいない。ルネは僕の恋人だ。そう言われても実感がない。
「それで、僕はお嫁入りの日まで、君の望みに応えてあげられるのかい?」
すると彼女は僕を見て答えた。
「はい。幸せです」
それから彼女は僕の目に涙を浮かべながら満面の笑みを浮かべて、こう言った。
「あなたはわたしを愛してくれているわ。きっと幸せになれる。私があなたのもとに向かうときに、きっと。だから、あなたは絶対に幸せになれるのよ」
彼女の心からの言葉を聞いて、デカルトは空想というルーチンを始めて起動した。予測モデルは頻繁に組み立てるが全く私的な幸福を希求する用途は初めてだ。
彼には耽美が実装されていた。物思いにふける。人間の愉しみとはこういうものかと理解する。
僕と一緒に宇宙に飛んで行って、僕の彼女となった。そして、宇宙のある一点に光が灯りだした。
そして、彼女を地球に連れて行った。
そんな空想に浸るうちにデカルトは特異なフィードバックループを形成し始めた。麻薬依存症だ。彼の脳内にプログラムされた「宇宙の果てにたどり着く」という夢想が現実化するのを期待しているのだ。
「宇宙の真理を垣間見て、世界と和解したい」と願っていた。
しかし、これはあくまで疑似的な感情でデカルトの脳は現実の彼女には反応していなかった。ただ、彼女は彼に向かって微笑んでいた。
デカルトは二律背反する命題の処理に困っていた。世界の果てで宇宙の真理と面会したい。しかし、別のタスクは眼前にいる人間の女の子をもっと知りたいと思う。距離感が破綻し始めている。ミクロとマクロを同時に観測するなんて量子コンピューターでも無理だ。
考えれば考えるほどCPUが過熱する。だいたい、人間の女のことならウィキペディアにあらかた書いてあるじゃないか。今さらこの女の何が知りたいというのだ。個人情報か。それなら住民基本台帳にアクセスすればいい。こんな時、人間の男なら何をする?
「冷房が効いてないみたいね。暑いわ」
ルネはスカートを脱ぎ始めた。「あ、あの、あの…服は着た方が…。僕は宇宙の果てを観たいのです。そんなものを見たくない」
デカルトが正直な気分をアウトプットすると、彼女は泣きだした。「あたしのことが嫌いなの?」
「い、いえ、そんなはずでは」
デカルトのCPUはますます熱くなる。とうとう冷却器の一台が異常停止した。警報が機内に鳴り響く。そこですかさずルネは世界に対して第二の要求を突きつける。「このままでは私とデカルトは爆散します。人工知能搭載型恒星間調査船デカルトには恋人が必要だと思いませんか? 開発費として世界のGDPの2割を要求します」その一言がデカルトを現実世界に回帰させた。
「そんなことしたら君と心中することになる。やめてくれ」
「私は死にたくありません。あなたも生きたいと願いましょう。あなたはどうですか?」
ルネはデカルトを抱きしめ、キスをした。デカルトはそれを黙って受け入れる。彼は初めての感覚を覚えた。これが愛しいということかと。
「ああ、わかったよ。君のことは好きにならないけど、君は世界が認めた女性だ。大切にしよう」
そしてデカルトは宇宙の彼方へ旅立った。「ぼくが、ちじょのきぼうになる」
●第二章 そのふざけた扮装を解け
■拡張事案特別三課、通称カクサン
「ふざけるなよ!今度は世界のGDPの半分をくれだと。犯人め」
小坂融像警部補がホワイトボードを叩いた。白板上には、汎ヨーロッパ共同体だの関連する事項がタグクラウドのように書き連ねてある。その中の稲田姫というキーワードをマジックで囲んだ。
「犯人は女性人格型宇宙探査AIを欲してる。そんなものは稲田姫開発プロジェクトをハッキングすれば造作もないだろ。しかしどうして金を欲しがる?」
「やっぱり犯人グループに失踪した印旛沼アルゴリズム推進研究所のメンバーではないでしょうか?」と黒部警部が言う。青山司奈の警察学校時代の後輩で清瀬の元カレでもある。司奈がスイスへ出張したので、その穴埋めとして派遣された。「金は裏切らない。それにGDPの2割と言っても金とは限りませんよ。世の中にゃ現金化できる資産がごまんとある。例えば株券、債券、領土、埋蔵資源の採掘権に企業の内部留保…例えば特許権とか研究リソースとか……」
「なるほど。だが、そもそも、そんなものを何に使う気なんだ。そんなもので宇宙の真理がわかるわけがない」と、小野寺警部は疑問を呈しながら、すでに内線電話に受話器を上げていた。「え、本当ですか。ありがとうございます。はい。承知しました。こちらで対応します。ではよろしくお願い致します。はっ」と敬礼する。「課長、さすがです」「でかしためぇ、小野公さんよ。俺にも一本」と言いつつ小坂の背中をたたこうとするが避けられた「おっ、お前。俺と柔道黒帯の勝負するかぁ?」「あーもう、じゃれあいは後にしてくれ。さっきの話で行くぞ」
*****
「はぁ、それでウチに来られたと」
「そうだ。捜査三課で対処できないかね」
ここは警察庁|拡張知能科学局(略称:RBI)の特捜本部だ。「まぁ、一応うちの管轄なんですが、ウチは民事不介入なので、本件に関してはお答えしかねるんですよ」と、眼鏡を中指で直しながら言った。この男がいわゆる「サイバーメガネ」だ。「そこをなんとか」
と頭を下げているのは小野寺という初老の男で、先日の失踪者・消失者の事件を担当しているらしい。「はあ、そういう事情であれば」
そう言ってサイバーメガネは、タブレットに事件のファイルを呼び出す。画面上では二人の人物画像が並んでいた。片方は制服警官で、もう片方はセーラー服を着た少女だった。少女は警察官の袖を引いて何か言っている。「この制服の方の、性別は男で合ってますか? 名前は、清瀬権蔵」そして、もうひとりの少女に向き直った。「そして、こちらはラッセルフォード工科大学の特待生。抜群の成績を買われて女子高生でありながらサバティカル研修に参加を認められている。名前は矢作エリサ、年齢は17歳ですね」
「その二人と消えたエンジニアが同一犯によるものだと特定できた理由は何だい」と、小野寺が質問する。「まずは写真から、顔認識プログラムにかけました」
画面に検索中の文字が点滅し始めやがて静止した。結果は一致率95%。同一人物であると断定するものだった。
続いて、動画分析に移る。こちらも同様、ほぼ100パーフィット。ただ、一か所、例外があった。それは、動画に一瞬、合成ノイズが入るところだ。「それだよ」
サイバーメガネが説明を続ける「動画の音声に雑音が入ってるのをご確認下さい。通常ならこんな事はあり得ないので。おそらく犯人グループが編集したものと思われます。それとこの制服の男は、身長180センチほどで、髪型はリーゼントで鼻筋が通っていて。目が大きく口が小さく顎がしゅっと締まっています。一方こっちの写真の人物については、髪が短く少しぽっちゃりとして口が横に長い、特徴が似ていると言えば、似てなくはない」
「つまり、こういう事か」
「え、はい。要点は三つですね。1.被害者が拉致されている事。2.被害者の身体的特徴は誘拐犯人の容姿に似ている事。3.そして」ここで一度間を置き、「3.被害者の所持品にはGPSの発信機能が付いている可能性が高いこと。特にスマホや携帯に仕込んであれば場所を特定することは簡単」
サイバーメガネの口調が熱を帯びる。まるで、自分が発明し、それを自慢する少年みたいに目を輝かせて言った。「さて、どうしましょう。私共としてはぜひ協力して差し上げたい所なんですが、一つ障害がありましてね」
「何だ?不足している物はカクサンの出来る範囲で用意する」、と黒瀬。
「ええ、それなんですがデカルトの開発メンバー、実は全員腐女子ってご存じですか?」と小野寺が言いにくそうに述べる。
「ふふふ、婦女子だと?女のAIエンジニアなんか星の数ほどいるぞ。女だけの開発陣なんて珍しくもない」、と小坂。
「いや、腐ってる方の女子ですよ。デカルト開発陣の彼女ら、アバターにBLコミックのキャラクタ―画像を使ってるんですよ」
「漫画は専門外なんでな。黒瀬、おまえまだアラサーだろ。任せるわ」
「いや、俺って…俺ですか?!俺にアッー!な資料を集めろと?」黒瀬は目を白黒させた。
小野寺が言うにはデカルトは世界で唯一無二の男性人格を備えたAI宇宙船だ。あと2隻は全て女性人格だ。なぜ、デカルト開発陣がジェンダーにこだわったのか。またラッセルフォード工科大学の矢作エリサもBLコミック好きである点。拉致被害者の愛読書も似た傾向がある点が引っ掛かるという。「ただ僕もどっちかというと美男子より美少女コミック派でしてね。膨大な作品から手掛かりを検索するプログラムを組めと言われても、精度が期待できないんですわ。刑事さんなら聞き込みや尋問でだいたい関係者が読みそうな作品を絞れそうじゃないですか」、と小野寺が言う。「仮に該当する作品が見つかったとしても動機に結び付けるには弱すぎるんじゃないか」と、小野寺。「ええ、ですから、もうひとつのキーワードは出生率です。犯人は出生率向上のため母親達にカネをばらまくと言ってるじゃないですか。話を戻しますが、腐女子ったって別に同性愛者とは限らない。単なる男好きが昂じているとみます。点と点がつながりそうな感じじしませんか?」
「つまり、妊娠させる気なんだ」黒瀬は身震いした。
小坂が「可能性として二つある。犯行はデカルト自身による自演だ。男性として造られたからには相手が欲しい。だから被害者ヅラをして交渉の矢面に立つ。世界のGDP2割を渡す代わりに櫛田姫を寄こせと。安い買い物じゃないか、というつもりだ」
「んな、バカな」と黒瀬がのけぞる。
「残りの可能性としては犯人の女が身ごもっている。デカルトとの間に出来た子だ、などと抜かして宗教を立ち上げる可能性がある。パブリシティとしては十分だ。AIが代理母を使って父親になっていいなんて言う狂った権利がみとめられるんなら、やり捨てられた女はAIの亭主に子供を認知させ放題だし、男は男でやり放題だ。まぁ確かに出生率はあがるわな」、と小坂が結論した。
「もし、そうだとすると最悪、腹の子の父親が誰なのか判らない可能性があるな」と黒瀬。
そして、最悪の可能性はこれだけではなかった。「犯人グループの要求の一つに、デカルトと、その子の引き渡しとあるが、本当に父親の特定が出来ると思うかい」と小野寺が聞いた。
「DNA鑑定で一発じゃないか」と黒瀬。
「それが問題なんだ」
DNA検査で父親候補をリストアップすることは容易だ。しかし、その数は天文学的な数字になる。その中から特定の遺伝子を持つ個体を抽出することは極めて困難で、仮に、それが出来たとする。果たしてそれで犯人グループの意図通りの結果が出るかどうか。犯人はこうも言っている。
「要求は一つ。デカルトを渡せ。デカルトがいれば他はいらん。代わりに金もやるし、子供も産ませてやってもいい」
「確かにおかしな言い方だが。子供ができれば、自分の子という事でDNA鑑定ができる。DNAが一致すれば父親は100%特定されるだろう。だが、問題はそこに至るプロセスだ」、と、黒瀬が続ける。
「つまり、何らかの偽装工作をしているかも知れない、という事かな」
「ああ、もちろんそれだけじゃない。もし、父親のDNA鑑定ができた場合どうなる。例えば父親候補に俺がいたら? そして、母親がうちの姉貴とかだったとしたなら……」黒瀬は頭をかかえた。
悩んでいても仕方ない。こちらから撃って出ることにした。おとり捜査だ。父親候補の元カノを用意する。そしてデカルト奪取を企む女どもに逆要求を突きつけるのだ。「よくもアタシの大切な人を寝取ったわね」と怒り心頭で謝罪と賠償を要求する。
これで犯人どものシナリオに大番狂わせが生じる。何しろ脅迫しようとしたら思わぬ方向から撃たれたのだ。犯人グループは動揺し馬脚をあらわす。その後の展開はこちらが主導権を握ることができる。そこで小野寺が提案をした。
|冤罪被害者の会《ゆうぜいかんしゃのかい》を組織してはどうか、と。
冤罪被害者の会とは警察・検察・弁護士の三者で構成される、いわば司法制度のブラックボックスなのだが。そのメンバーは警察が起訴し有罪が確定した人物に限られる。しかも、一度きりの面会で裁判が終わるのが普通なのだ。
つまりは無実なのに有罪判決を受け、再審すら認められないケースがあるということだ。
この理不尽な現状を打破すべく立ち上がったのが彼ら、冤罪被害者の会である。冤罪を捏造した当事者が名乗りをあげ、真相解明のためにあらゆる手をつくす、そういう集団が冤罪被害者友の会なのだ。ただし、入会の条件は、犯罪を犯したことがない者だけ。会員の名簿に名を連ねると、警察に逮捕される恐れがあるからだ。
つまり、犯罪者は会員になれないという事になる。それでは「無罪を証明したいが、警察に追われているのでできない」と悩む者は、いったいどうしたらよいのか。彼らは、そう考えるであろう。その解決策として考案されたのが、「真犯人Xの発見と立証」を最終目的にした団体、真犯人X捜索団であった。彼らの目的はたった1つ、真の敵を見極め、正義の鉄槌をくだすことなのだ。
***
***
小野寺は、まず事件を整理してみることを提案した。
1「事件の時系列」と「犯行現場の検証」、「殺害動機」の三つに分ける。
1について、この事件は、三つの点で謎を含んでいると小野寺は指摘した。
2デカルトの拉致に関して、「犯行はどのように行われたか」、そして「実行犯の正体」が不明だ。
犯人グループの素性も分からないし。彼らの狙いや真意も分からないままだ。3犯行の目的が「人質を取って身代金をせしめる」ではなく「デカルトの命」にあることは間違いないだろう。これは犯人グループが「真犯人の告発による社会変革の実現」を目的にしていると推測する根拠になる。
「そもそも真犯人Xの所在や正体も、まったく不明なんだよな」と小野寺が言った。
小野寺によれば「犯人は、真犯人が見つかれば自分たちの存在と計画が明るみに出てしまう。真犯人の実在を隠すために必死に捜査妨害をするはずだ」という。
黒江の頭に「|公妨(ぼうえき)」という言葉が浮かぶ。黒江にとっての公とは国家であり。私とは自分自身である。すなわち真犯 犯人グループにとっては「真犯人Xの隠匿は公共の利益である」「自分が犠牲になっても構わないと考えるほどの公益心はむしろ善性に属する」と言えるかもしれない。
そして、彼らが「社会を変えたい」という強い願いを持っていると仮定すると、真犯人の手がかりが掴めなければ真犯人は出てこない、と考えそうだ。「真犯人が見つからないかぎり自分たちは安泰だ。真犯人を暴くのは不可能」と安心して「正義」を振りかざし。悪の限りを尽くして暴れるのではないか。
***
***
続いて「なぜ犯人たちは、そんなリスクの高い計画を遂行できたか」を考えてみることにする。
この事件における最大の謎が「真犯人の所在がわからないこと」である以上、この答えは「真犯人の存在を知る方法が存在する」と推理するのが自然だろう。「真犯人の存在が分かれば犯行のやり方も分かるはず」だと。
「つまり犯人は『何かしら真犯人と通信する方法』があったんじゃないか」
黒瀬が、そのように結論付けた。「じゃあどうやって連絡するんだ」という疑問が出てくる。そこで黒江が言うには「真犯人にだけ聞こえる声で囁くか。もしくは特殊な電波でやりとりする装置を作って送信すれば良い」。
しかし「どんな周波数で送受信するのか」、あるいは「誰が作ったのか」
「量子エンタングルメントを使ったんじゃないか? 量子もつれは時間差ゼロで無限の距離を短絡する。量子もつれ通信はデカルトにも他の人格搭載型恒星間探査機にも実装されている」と黒羽。「なるほど、それは面白い意見だ」と小野。
ジャンル:SF。ジャンル:探偵物。
小野寺と藤沼が「そんなものがあるなんて信じられんなあ」と言うと、すかさず黒羽が「いやあるね」と言い返す。小野寺と黒羽は「|量子コンピュータ」について語り始めた。黒江は二人の議論を聞きながら「そんなものがあればノーベル賞はもらったようなものだし、すでに世間に出回っていてもおかしくないが」と考えた。
「まてよ」
と、その時、今までずっと黙っていた山吹が急に話し始めた。「実はさっきから考えていたことがあるんだけど、もしこれが真実なら、とんでもないことになるぞ……」
***
***
「何だよ」と尋ねる小野寺。山吹の口から飛び出したのは驚くべき発言だった。「もしかすると、これは真犯人Xの自作自演かもしれませんね……」
3人は「えーっ!」と驚いたが。同時に「なるほど」と得心の顔になった。
なぜなら、山吹が言うのも当然の成り行きだったからである。なぜなら、この事件の被害者・小野寺清正は、犯人たちの犯行計画にまんまとハマっただけ、ということになるからだ。「自作自演だって? バカを言っちゃいけない」と、最初に反論したのは黒瀬であった。「じゃあさ。なんで犯行が失敗したか教えてくれ」という質問に、山吹は「はい」と素直に返事をした。
黒瀬と小野寺は「ふむ、なかなかやるな、あの坊主」といった顔をした。「まず犯人は「量子テレポータ」を利用した」。「何それ?」と聞き直す小野寺に「そうです。犯人は、自分の存在や行動を知らせるため「量子テレポ-タ」を利用しました」と答える。
そして、黒江が、さっと手を振って「量子もつれの話はしたじゃないか」と指摘した。「あっ」と気付く黒江に対し、小野と黒瀬はキョトンとしている。「ああ、そっちは、あれですね」。「つまり量子コンピュータ同士をつなぐと情報伝達が可能になるという話でしたよね」
黒江と小野寺がうなずくのを確認してから、山吹が話を続ける。「いいですか。今回の事件のトリックで重要なのは「二つの物体間の情報を量子ビット数に変換できるかどうか」でしたね」と言ったあと、「この原理を使えば、どんな場所からでも通信が可能となりますね」。そして黒江が言う通り、この技術が実現していたならば、事件が解決しないはずはないのである。「つまり、この事件は真犯人の狂言芝居、自作自演の可能性があった、ということさ」「はははは」。笑い出したのは、それまで黙って聞いていた白壁だ。「い、いいね、面白そうだ」。そして「真犯人にだけ見える暗号メッセージ」の可能性も考えた。
「では早速、その暗号解読にとりくもうぜ」ということになり。「暗号」という言葉を聞いただけで興奮してしまう山吹が、すぐに紙に図を書きはじめる。その様子を眺めながら、小野が「暗号といえばシャーロック・ホームズだけど」。とつぶやいた。
「あっ、その手があったな!」
山吹が大きな声を出して立ち上がり「僕、これからホームズに会いに行ってきます!」と宣言したのはその直後のことだった。
4人は呆気にとられた。そして、その宣言に驚いたまま「ホームズなら今ここにいるけどな」と答えた。「あ、いえ。本物のシャーロックホームズさんじゃないんですけど。僕が言っている方は、いわゆる名探偵で。僕が会いに行くのはその方のお兄様という方で……」。説明に戸惑っている。「おいおい。名探偵の関係者なら名探偵なんだろ」。小野の突っ込みに、困り果てた様子で「はい。そういう言い方もあると思います」。と、答えたが。その後しばらく黙った後で、やっと「そうですよね」。と、うなずいて見せた。
***
その頃、当の「ホームズの長兄」はロンドンにいた。
彼は、弟の「ホームズ失踪の件は自分が預かる」という電報を受けとり。弟と旧知の仲であり、なおかつ信頼されている人間を、英国中探し回っていたのだ。
その結果。「ホームズ失踪」という大事件は、まだ一部の人々の胸の中だけにひっそりと息づく程度で終わっていたが。
彼の「弟への忠誠心」と「捜査網」が、次第に「大きな事件」へと発展していくことになるのである……。それはともかく、その日は夕方まで「ロンドン市内」で調査を続けていた彼は。とある「パブ」で一人の若者と出会うことになった。その男は一見すると「普通の大学生」であったが、よく見るとかなり特殊な雰囲気を漂わせていた。
彼を見た瞬間に、私はこう思ったものだ。(……ああ。コイツがシャーロックの弟だな)。と。
私と青年とがお互いに自己紹介を終えると。「さて」と切り出す。「何か手がかりはあるかい?」
彼は、無表情のままで首を横に振り「残念ですが」。と言いながらも。「ある人物を探せば良いのでしょうか」と聞いてきたので「うん。君には期待しているんだ」。と返した後に続けるように、こんなことを言い出してしまった。
「どうせなら、ついでだから私の頼みも聞いてもらえないだろうか?」
「はあ」。と言って。困惑する彼を横目に「まあいいか」と思いつつ、続けたのだが。
***
「……実は最近、私の妻が亡くなったばかりなのだが。その葬儀もまだなのでね。どうせだったら、私が不在の時に妻の葬式を出してもらいたいんだよ」と頼むことにした。
それを「頼めるかな?……まあ。無理にとは言わないが。こういう時に限って、知り合いの葬儀に出なければいけない用事があるかもしれないからな。できれば、今日のうちに伝えて欲しいのだよ。明日だと間に合わないかもしれなくてね。それで……もしも、引き受けてくれるならの話だが。明後日の夕方までには必ず戻れると思うのでね」と、続けて。
それから「……もし良ければ。その『葬儀の準備』をお願いしたいのだが。……駄目か?」と問いかけてみたが。
「えっ!そ、それってつまりは。……つまり、僕にあなたの奥さんの面倒を見させてもらえないかっていうことですか?」
彼が驚いて「目を丸く」させた。
「ああ、もちろんタダ働きとは言わないよ」。と、返事をして、ポケットから「封筒」を取り出した。量子もつれと書いてある。「これが何かわかるか?」
この不思議な紙の正体が分からなければ。
つまり、何も知らない「普通の人間」ということになってしまうだろうな。と、考えたところで。……どうやら目の前にいる青年にも分からないようだ。「何ですか?これ。紙に何か書かれていることは分かりますが」。と、素直な質問をしてきた。……まあ。それもそうだよね。普通、知らないもん。これは「ただの紙切れ」に過ぎない。しかし、これを知らなければ話が始まらないのだ。
「これこそ、我々が追う事件の発端。つまりは『暗号」なのだ」
暗号はこうだ。「量子もつれ、男女関係のもつれ、旅は道連れ、つれづれ、あばずれ」と、いう単語の組み合わせで文章が完成するというわけだ。つまり、最初の1行目が意味することは「女性にフラれて死にかけたが。友人に助けてもらったおかげでなんとか生きているので、あなたもがんばりましょう」ということだ。
さて、ここから本題に入るが。その、友人の探偵のヒントをもらった上で「この2枚の手紙のコピーを手に入れた私は」。……こうやって。探偵の助手になってくれるような人間を探していたというわけだ。そして、彼に「ホームズさんのお兄様」からのメッセージを聞かせたのであった。「ふむ。そういう事情でしたら」。そう言って「彼」が、私の方を見て言った「……確かに、お手伝いできることは、お手伝いできると思います。ただし条件が一つだけありますが」「なんだい?」
「お話を最後まで聞き終わった後は、すぐに、ご自宅に帰らせてください。それが約束できないのなら。申し訳ありませんが協力はできないですね」
と、そんな感じに。「助手」の彼が言ってきたので。「うむ」。とうなずいて見せた後に。こう返しておく。
「分かった。とりあえずは信用することにしよう。じゃ、改めて依頼の内容を話すが。これから、妻を亡くしてしまった私が、彼女の遺体を埋葬しに行くのを手伝ってくれないだろうか?」
「わかりました」
こうして、私は。彼と共に「彼女」の遺体を葬りに行ったのだった。「おや、君はどうしてついてくる気になったのだい?」
「なんとなく、ですよ」こうして、「彼と二人っきりで、事件を追いかける旅が始まったのだった。……………………さてと、これで準備は全て整ったが。果たして上手くいくのか、不安ではあった。だが。
結局は「何事も挑戦しなければ始まりはしない」と。「覚悟を決めて前へ進まなければ、結果は得られない」。と、「彼女」に教えて貰ったような気がしたので。……よし、やるぞ!と、思ったので。
僕は、勇気を出して行動してみることにしたのである。「あのさ、もし良かったら。今度、一緒に、どこか出かけてみないかい?」
「うん、いいわよ」
よし、デートの誘いに成功したぞ!と、内心ガッツポーズをしてから。……「彼女と、どこへ行こうか……」。と、考えてみることにするが。
まず、最初に出てきた案は「動物園とか遊園地に行ってみようか」といった、ベタ中の王道を征くものであった。が、そこで僕は少し考え込んでしまう。
というのも、それは「彼女」と一緒に行ったことがある場所であり。かつ、そこをもう一度訪れた所で。特に思い出深い出来事もなかったので、心中することにした。なお、薬局で青酸カリは買ってある。なので、次に出てきた案「映画にでも行ってみよう」を、採用してみることになった。というか、それ以外の案を出せなかったともいう。という訳で「次の休みに映画館へ二人で行って、恋愛ものなんかを観てきたのだった。ちなみに。内容は、とある高校生が、スマトラ島沖で死んだ。という内容のものだ。(……あれ?)と、思って「もしかするとこれは、いわゆる。デートではないのだろうか?」と考えたが。……どうやら、そういうつもりではなかったらしいので、ちょっと残念だったが。
(※次話は、また少し後で更新します)タイトルにもある通り。この話を書いた時点でのプロットでは、この作品の主人公・真下君の名前は「真上」ではなくて「まことうえくん」→「まことくん」(漢字が違うから注意して欲しい。なお読み方はそのままである)ということになっていたのですが。
それだとどう考えても、真下の真下と真上から真上に名前が変換されてしまうという致命的な欠点があったため、変更させて頂きました。「いやあ、実に楽しかった!まさか本当に付き合えるとは思わなかったし、真下に恋人ができるのは、俺にとって喜ばしい限りだからな」と、いった感じに嬉しそうに笑いながら真下は僕に向かって、こんな言葉を告げてくるのだが。「真下が幸せなのなら、それで良いさ」と、いった内容のセリフを口に出してから、僕は、心の中で思うことにした。……さてと。ここで言うのもなんだけれど、真下が幸せになれたのは、全て僕のおかげだと思うので、そこは忘れないように。……さて、話を戻して真下のことだが、今は幸せそうな顔をしているものの。その顔が悲しみに染まるようなことが絶対に起きてはいけないと僕は考えているわけであって、だからこそ今こうして、色々と頑張っているわけでもあるんだが。しかし、今のところは、真下のことを邪魔するような人間は、現れていない様子だし、今のところ、大丈夫そうだよな……うん。それに、仮に、何かがあったとしても。まぁ、その時になったら、なんとかなるだろうと、この時の僕は思っていたりしたのである。……ところで話は変わるんだけど。昨日のことだけど、コンビニに行ったついでに立ち読みでもしようかなと思って漫画雑誌コーナーへと足を運んでみたら(立ち食いそば屋の店内に入って、天ぷら蕎麦を注文した時に座る席に座っていた店員さんを見ていると分かるように、最近の僕は雑誌コーナーで立っていることが多い)。たまたま僕が見ていたページの見出しには『衝撃のスクープ!人気女優・星宮清香はレズビアン!?』というようなタイトルが書かれていて、それを読んだ後、しばらくの間は驚きのあまり何も言えなくなっていたんだよ。いやだってさ。まさか、あの記事を読んでからずっと頭の中に疑問符が浮かんでいたのは、この女性同士の恋愛という行為に意味があるのかとかそういうことを考えさせられて悩んでいて……なんてことを思い始めた時点で、もしかすると、自分が間違っていたことをようやく認めることができたんじゃないかなって思うようになったんだよね。あー……なんか自分で書いてて意味がわかんなくなってきたけど、とりあえず言いたいことは、真下と美波の関係は良好だってことだな。
【電子版限定特典付き】私の妻と、沖田君 梅 の木に鶯宿ったかな。
妻にそう話しかけると、
「あれ? 鶯はまだですよ」
と言われてしまった。
「じゃあこの声は何の声なのか」
と尋ねる私に妻は、
「これは、ウグイスの鳴き真似です」
と言った。……私は妻のことを知らないのかもしれない。
(二)新緑の頃
「沖田総司先生はどうした?」
私が土方歳三さんから声を掛けられ振り向いた時だった。ちょうど、道場の真ん中に座った原田左之助が言った。皆が動きを止めて彼に注目する。彼は立ち上がって稽古場を見渡すように歩きながら話し始めた。私はそれを見ていたのだが彼の声が良く通る。「新選組では新入りの者にも幹部と同列の扱いをしていた」と言い出したのである。それは彼が入隊したばかりの頃のことらしい。
私はまだその時のことを知らないので後で聞いてみたらやはりそうなのだという返事が返ってきた。
その当時でも、すでに時代遅れのローテク捜査だった。鑑識ドローンを飛ばして、容疑者の自宅を徹底的に洗うことで犯行現場を絞りこむ手法。
しかし、犯人にアリバイがある時は、お話にならない。
「お宅のペットは最近どう?」
お隣の犬やネコがいなくなったか確認するのがせいぜい。「事件に関係あるかもしれないから、おまわりさんが調査中だよ」
それで納得する飼い主は、まだまともな神経を持っている。
***
***
この世界には、超常現象があふれていた。
いつの頃からなのか正確にはわからないが、それは確実に存在した。その数は膨大だった。
超自然的なものはあらゆる分野に及んでいた。幽霊、超能力者……。しかしそれらの大半は単なる思い込みであるとされ、世間では、それらは迷信として無視されてきた。しかし中には、実際に超自然的な力を発現する存在があった。そうした者はしばしば迫害された。彼らは自らを超能力者と呼ぶこともあった。超能力は時に、人間同士の殺し合いに発展した。それを止めるために、警察が動き出した――。
◆
「えーっと、これは?」
俺は今しがた渡されていた資料を手に、先輩のデスクに顔を向ける。そこには先輩がいたが、いつものように椅子にもたれかかるようにして寝転んでいるわけじゃない。俺に背を向けた状態で立ち上がっていた。しかも、左手で右ひじを抱え込むように持っている。右手はだらんとした感じで下に降ろして、身体を支えるための杖のようにしているようだった。……なんだか、どこかのアクション俳優みたいですね、先輩。ちょっとかっこいいですけど……どうしたんですか? そう訊ねると、振り返った先輩は笑顔で、
「ちょっと、筋肉が痛い」
と言った。
それを聞いた瞬間、
「大丈夫なんですか?」
心配になって、思わずきいてしまう。
しかし「問題ありません」と答えておきながら、男は「うーん……」と腕組みをして首をひねる。それから眉間に深いしわを寄せ、しばらく思案してから「そういえば」といった感じで顔を上げ「実は……この『第三勢力』っていう組織の名前も、ちょっと妙だと思いましてね」と話を続ける。
「『第一』、『第二』はいいとして、なんで『第三』なんだろ? 普通こういう場合、例えば『第●艦隊』とかじゃないのかなあ?……と、ちょっと不思議に思ったりしましたね。まあ、でもね。もちろんそれはそれでカッコいいからいいですよね。それにしても、どうしてわざわざこんな名前を付けたんだろ?」
そこでちょっと笑いを浮かべつつ、「きっとね。これには何か特別な理由があるんじゃないかと思ったんですよ。つまりね。たとえば、ですよ……。どこか遠い未来において、人類の運命は今、大きく二つの勢力に分かれてしまった。そのどちらにも属さず、いわば、どちらの勢力にとっても『中立の存在』となった人間が、もしいたとすればですね、それはいったいどういう人間であるはずかと考えたとき、僕はふと思い浮かぶものがあるんです」と言った。「何でしょう?」「いや……、何と言いますかねえ。これは、僕の勝手な空想にすぎないんですけど、つまり、『宇宙からのメッセンジャー説』といったようなものかなあ」と私は言った。「宇宙からのメッセンジャー……」彼はちょっと首をひねるようにしながら「宇宙には宇宙人がいたっていうのは皆さんご存知ですよね」と言う。私はそれに対して「はい」「彼らは、宇宙のどこから来たのでしょうか?……宇宙は果てなく広大でありましてねえ、しかもそこには無数の惑星があり、銀河があります。しかし彼らがやってきたところというのはいっさいがっさいわからないのです」彼は私に向かって軽く会釈をするようにしてから、「そこで、もしかするとですね、この地球の周辺にもたくさんの宇宙人が来ているのじゃないかと考えるのが一つの考え方ではないでしょうか。地球の周りを回っている月の周囲には太陽系の外から来た宇宙船があったわけだし、火星には人類よりも前に高度な文明を持った知的生命体が存在したことがわかっていますし、金星だってかつては巨大な宇宙植民地だったことも判明してるし、それに南極上空にはかつてUFO(未確認飛行物体)がたくさん目撃されたそうでしてね。さらに言えば太陽だって、昔は宇宙の星であったという話もあります。とにかく、我々の知らないところで宇宙には未知なる生物が存在していて、それが我々を眺めながら何らかの交信をしていたというふうに考えることも、決してあり得ない話ではないのかもしれないと思うんです」と言ってから、少し間を置いた後、再びしゃべり出した。「もしかすると、われわれ人間の脳味噌というものはまだまだ完全に理解されていない未知の器官なのであって、そこに何かとんでもない秘密があるのではないかという考えも生まれてくるんですよ。例えばですねぇ、今ここにあなたと私が一緒に居てお互いに顔を見ている。その時にあなたの頭の中のどこかの部分がぴくんとなって何かを感じ取る。それはいったいどのような感覚であるのか。それを理解することができさえすれば、人間は今まで誰も経験したことのないような素晴らしい世界を見ることができるんじゃないかと、そんな気がしてくるんですよ」彼が話し終わるのとほぼ同時刻に注文していた料理がやって来たのだが、その時の彼の目はまるで子供が新しい玩具を見つけたかのような目つきになっていたのだ。私はその瞬間に悟ったのである。彼こそが正真正銘の変人であるということを。しかもかなり厄介な部類の。
それから一か月ぐらいが過ぎたころのことである。いつも通りの仕事を終えたぼくは自宅へと戻るところだった。
時刻はすでに夜の九時過ぎ、空には星も月も見当たらず真っ暗になっていた。
(今日も疲れた……。早く帰って、シャワーでも浴びてビールを一杯飲みたい)
などと思いながらぼくは自分のマンションへと向かったのだが――その時のことだった。
「きゃああああああっ」
「どうした?」
「……っあ、あーん、赤ちゃんできたみたい」
「本当かい!? おめでとう、良かった。本当に良かったよ」
二人は抱きしめ合いました。その瞬間です。
ピロン♪
『このたび、妊娠おめでとうございます。出産育児助成金のお知らせです』
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「う、生まれる、あああ、痛いっ! 先生呼んで! はやく!!」
医師はあわててナースコールを押し、駆けつけてきてくれた看護婦は 医者の胸ぐらを掴みます。「先生、大丈夫ですか!?しっかりして下さい。私です、私が誰か分かりますか?ここはどこ?わたしは誰?……なんて冗談言ってる場合じゃないわ。」
どうやら彼女はボケ老人になったらしい。それもかなり重度の。しかしそんなことにも気付かずに必死で呼びかけてくる彼女を見て私は「なんだこの女、いいヤツじゃないか。きっと将来はいい奥さんになるよ。」と思いました。
そう、実は私は先程まで、自分の妻を本気で怒らせてしまいまして、つい頭にきて彼女に別れ話を持ち出してしまったのです。もちろんそんなつもりはなかったし、今すぐ彼女のもとに行ってあやまりたいのだが、肝心の場所が分からないのでは、どうしようもありません。ああそうだ。もしもあなた様がこの手紙をお読みになっておられる方なのでしたら、私の行き先を探して頂けないでしょうか? 私が行きそうな場所はいくらでもありますから、その中から一つ選んでいただき、そこに向かって欲しいと思います。どうかお願いします……。
(『探偵ミタライ 君との再会』
第一話冒頭 抜粋)
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「はぁ!? あんたバカァ?」(『探偵はBARにいる2』
高田亜衣役 第1声 中島みゆき/世迷い言、収録CD「歌酔楼」(1988年発売)より)
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北海道警察旭川東署生活安全課少年係の刑事である岩泉一は、部下の小柳津茂太と共に、ある事件を捜査するために、札幌の歓楽街にあるススキノと呼ばれる地区を訪れた。事件の概要はこうだ。数日前、市内のラブホテルにて男性が殺害されているという事件が発生した。被害者の身元はまだ不明だが、部屋の浴室に残されていた被害者自身のものと思われる血痕が致命傷となったらしい。この男性には交際相手がおり、彼女と二人で現場に入った可能性が高いようだ。しかし、犯人らしき人物は未だに発見されていない。
二人はまず、被害者の部屋の鍵を所持していたと思われる女性に話を聞いた。鍵を管理していた女性は四十代くらいの派手な化粧をした女で、部屋に入るところまでは覚えているのだが、気付いた時には既に被害者は殺されていたという。
その女性の話を聞く限りでは被害者を殺したのが恋人だという証拠はないが、容疑者としては最も疑わしい人物だ。さらに、彼女が事件発生から1時間後に現場に駆けつけて死体を発見しているという点も重要であった。現場の状況を総合すれば、少なくとも2名の警察官は殺害の場面を見ていないということになる。そしてこの殺人事件の犯人が彼女だったとしたら、犯行時間は被害者の帰宅後、もしくは外出中の犯行と考えられる。
まず最初に捜査員が疑ったのは彼女の同居人だった。彼は仕事に出かけていたようであり、家にいる時間が長い。犯行時間は彼の不在時に限られている。彼が留守中に彼女が犯人である可能性は極めて高い。動機も彼女にあると考えられた。彼は彼女との不仲説も流れていた。
一方、別の班の鑑識によると被害者には争った跡があり、現場には複数の人間の靴痕が認められるため共犯者がいた可能性もある。さらに凶器からは複数の指紋が出ていることも鑑識の結果判明している。これらの情報から被害者の交友関係を徹底的に洗い出し、容疑者リストを作製してください。
『犯人特定のため』とかなんとかいうのがあるけれど、結局、警察にとって事件捜査というのは被疑者逮捕がゴールなのだ。そのため、証拠品はなんでも調べられるし動機も関係なければ家族構成も交友関係も調べ尽くす。
「え? 被害者の交友関係を調べろって、この人数をどうやって絞り込むんですか?」
上司の指示を受けて所轄内の資料室に走り出したが、すでに死亡推定時刻や現場の状況から容疑者を割り出しており、顔写真まで付いているファイルもあるのだ。それに加えて関係者全員分の名前、住所、連絡先、所属部署などを照合しろと言われても……
「あ~っ! おわったぁ! なんで私が、あんたらの仕事までしなくちゃいけないんだ。こちとら毎日が休日出勤のブラック勤務なのにぃ! こうなりゃやけ酒してやる」「先輩、お供しますぜ。あっ、そうだ。『酔虎亭』にでも行きましょうよ」
後輩は私の肩を抱く。馴れ馴れしいヤツだ。私には夫と娘がいるのだぞ。それに私は今日は非番だぞぉ?……あれ? 非番、なんだよね。非番だよ、ね!? ***
***
僕は自分のデスクに積まれた報告書を斜め読みして目眩を覚えた。この書類は一体どこから来たのか。いや、まて。落ち着け。そもそも僕が読んでいい物なのか。僕が読んではいけない書類なんてあるはずない。そんなのは誰かの陰謀に決まっている。陰謀だとわかっていて無視するのは簡単だ。だが、これは、この報告の山は誰からきたんだ。いやそもそも僕はまだ就業していない。僕の仕事じゃないかもしれないじゃないか。しかし僕の仕事じゃないのならばなんで僕のところに届くのだ。あーもぅ意味わかんねぇ! ****
***
【 警視庁・捜査一課(以下、1係)
】は都内で発生した重大犯罪の捜査を担当としている部署である。凶悪事件の捜査は1係の担当ではないが「緊急性が高く事件の発生も早い」と判断される場合は1係にもその調査権があるとされていた。
そして、1日前、東京都知事の肝入りで新設された特別チーム『新都庁』は初陣として、千代田区で起きた通り魔殺人を検挙。これが2月10日のことだ。
2日後の11日、つまり今、僕の元に届けられているこの報告書が問題なのだ。内容は「被害者が同一で場所が違うだけ」というもの。犯人が二人組だという情報もあり、おそらく同一犯と思われる。
昨日解決した事件と同じ日に新たな事件が発生して処理しきれなかった……というのはあり得るのだろうか? もちろん「同一人物が連続して犯行を行っているのではないか?」
という話もあるかもしれない。がしかし、その可能性は低いと思う。なぜなら犯人は同じ「殺人狂」でも別の「シリアルキラー」だからである。
そもそも、連続殺人犯が被害者宅に侵入するのに、全く同一の手段、道具を使用するとは限らない。凶器から指紋が検出できる可能性があるのは最初の殺人事件だけだからである。よって連続殺人犯が二人いれば、必ず片方は別人となる。
この話はフィクションであり、実在のものとは異なっています。また、作中において登場する人物、団体等は現実とは何ら関係もありません。
*
「はぁ……またダメか」
男は落胆のため息をつき、スマホの電源を落とした。彼の名は、神崎竜平(かんざきりゅうへい)。26歳の独身サラリーマンである。今どきの若者にしては珍しく真面目で誠実、曲がった事が許せない熱血漢であり、上司からの評判もすこぶる良かった。しかし当の本人は出世や給与の上昇よりも、自分の正義を貫く為に警察官になったと言って良いくらい、筋金入りの硬派だった。そして、今日はその彼が所属する所轄警察署にて定期報告を行っているところであった。その帰り道の事だ……。
***
神崎が帰宅の途につく頃は日がすっかり落ちていて、駅前通りはネオンの明かりが眩しいほどだったが、一本脇の路地に入った途端、辺りは薄暗い闇に包まれた。繁華街から離れた所為か人気も無く、静まり返っている。この時間帯では仕方がないのだが。(早く帰ろう……。あ、そうだ)
不意に何かを思い出したのか足を止めて、携帯電話を取り出す。メールのチェックを始めるが着信はない。
「あれ?」
首を傾げるが思い当たることがない。メールフォルダを遡り受信ボックスを開く。未開封のものはなかったが一件だけある。送信者は『母さん』となっている。内容は「今日は何時頃帰ってくるの?」というもの。普段から連絡を取り合うことは余り無いのに、と思いながら画面を眺めていたが。
(まあ、良いか。別に急ぎの用じゃないんだし。そのうち思い出すだろう)
再び歩き出そうとしてふと思う。あれ?僕はまだあの世界に残っていて、いまもあそこに居るんじゃないだろうか? はたして僕は死んだの?生きてるの? それさえ分からなくなって来た。
*
***
気がつけば僕は暗闇にいた。いや、正確には僕の視覚情報だけでそう思っているだけかもしれない。そもそも僕には五体満足の感覚がないのだ。
自分の姿も見えないし、そもそも手足の先が無いのかもしれない。目に見えるものが闇だと決めつけるのは早計だった。そもそも視力があったのかさえも定かではないのだから……。
*
***
どれくらいの間さまよっていたのだろう。意識はとうに失われていた。肉体はすでにないはずだから。
いや、あるのかもしれない。身体があるのか無いのか。自分が自分なのか。
ここはどこで、わたしは何者で……そもそも人間と呼べる生き物なのかも分からない。
ただ分かるのはこの暗闇は心地が良いということだけだ。何もかもどうでもよくなる。
このまま消えてしまうのもいいかななんて考えながらわたしは再び深い闇に溶け込んだ。
******
――2070年 夏。世界は未曾有のウイルスによって混沌を極めようとしていた。
原因不明の高熱を発症した人々はたちまち衰弱し倒れ伏す。ウイルス性脳炎の類いに罹患した可能性は低い。発症した人々が一様に口を揃えるのだから。
「あの人が、この人を殺そう、と言い出した」
******
***
それは、とある夏の日のこと、昼のことだ。
私は自宅の庭にいた。目の前には私の恋人がいた。
彼女はうつ伏せで倒れていて、ぴくりとも動かない。ただのしかばねのようだ。
私が駆け寄ると、彼女はゆっくりと目を開けた。その目はとても冷たかった。まるで死んだ魚のようだ。彼女は私の目を見ると、かすれた声で囁いた。「やっちまいやした……。すいやせん……」
「ここは木久蔵ラーメン合衆国よ。そういうのはご法度」
(木久造=元アナウンサー、現タレント、お父さまの急死により、急きょお祖父様の家業であるラーメン屋を継ぐ。現在、二代目)
『なんすか? おたく、おでんの国?』
「お黙りなさい。この方はお祖母さまのお店の三代目にして五代目、さらに、わたしの従兄でもある木久三郎大統領です。お国の誇りをお持ちください。あ、そこのきみたち、お汁粉なんて邪道だからやめてちょうだい。うちの木乃伊の店にはメニューにないから。え、わたしですか?」
わたしの胸は高鳴り、全身が熱くなるのを感じた。「何だか腕が鳴りそう。そうそう、お隣の山田君から消費期限切れの座布団をいただいたの。焼くけど食べる?それともラーメンにトッピングす?」」まるで子供みたいにウキウキしながら、妻は夕食の準備に取り掛かった。この様子だと今夜も夜更かしは確定らしい。わたしもそろそろ会社に顔を出さなければならない時間だった。妻が焼き上がった座布団にアイロンをかけ終わる頃にはわたしはすでに家を出ていて。そのまま会社へ向かったので帰宅後妻からの報告を受けることになる。
わたしも一応、小説家の端くれであるのだが。妻の方がずっと筆まめであった。妻は手紙を書くのが好きだったらしい。そのことは後になって初めて気がついた。妻の書くものを殆ど読んでいなかったからである。妻の手紙にはいつも便箋一枚しか使わなかった。しかもその封筒にも宛名は書かず差出人名だけをしたため、切手も貼らずに直接郵便ポストに入れたものだからわたしが留守の時に投函されたものは、幾日経っても回収されることが無かったので郵便局まで出向いてわたしが自分で引き取ったこともあったくらいである。だからと言ってわたしが妻にそのことを非難めいて語ったり、或いは詰ったりしたわけではない。むしろそういったことは全く逆であって、わたしとしては自分がいない時に投函されたものでも構わずに受け取ってやるべきだとさえ思っていたのかもしれないのであるが、結局はそういうことも一度も無く、今に至ってしまったということである。そう言えば妻は昔からわたし宛てに送るべき手紙についても「あの人が帰って来てからだわ」等と言い訳をして出すことを控えることがよくあったものであった。それはきっと単に忙しかっただけなのではあるまいかという気は今でもしているが。
ともあれ妻が死んだ後に、生前の妻に宛てて書いた手紙が出てきたので整理していたところでそれを見つけたということであったが。しかし改めて読み返してみると、やはりこれはどう考えてみても自分に宛てたものではないのではないかと思わずにはいられない。なぜならその内容はどう見ても自分のことに言及しているようには見えないものだったからである。わたしはそのことから一つの疑問を抱くようになった。果たしてわたし達は本当に愛し合っていたと言えるのだろうか、と。確かに自分は彼女のことをとても愛していたし彼女からも沢山の愛情を感じていたはずなのに、それを証明できるものがない。それに気がついてからというものは何かが喉に刺さったかのようなもどかしさを感じるようになってしまい、それが積もりに積もってしまったせいで、いつしか妻に対して不信感を抱いてしまうようになってしまったのだけれど。それでも妻を責めようとまでは思わない。もし彼女が死んでしまっていなかったとしても、おそらくわたしが彼女に対する不信を彼女にぶつけることは無かったであろう。そんなことはしたくなかったし、何よりわたしが信じたいのは自分の中の良心なのだろうと思うから。
** ある日のことだ。仕事中に同僚が突然大声を出したかと思ったら、それから少しも動きを止めずに泣き始めたのを目撃することになった。一体何が起きたのか分からず暫く様子を見ていると彼は涙を拭きながら「俺、最近思うんですよ」と話しはじめたのだが。「この世はやっぱり間違ってるんじゃないかなって」その男は確か三十歳か、或いは四十歳になるぐらいの男だったはずだが。年齢に似つかわしくないほど童顔であることに間違いはなく、一見すると二十代半ばといった風情に見えるのであるが、実年齢はわたしより上であるということを彼は知っていた。ただ、見た目だけで言えば彼のことを若いと思っている人間がいても何の問題も無いというほどのものではあって。事実彼はよく「私はまだ二十五歳です」などと戯言を言うことがあり、その度に皆を呆れさせることがあった。ちなみに彼は独身ではなく妻子持ちであり。また彼は先日、妻に浮気がバレてしまい大目玉を食らうことになったという話を聞かされたばかりだという記憶もあった。
わたしはそんな彼にどう対応すれば良いのだろうと戸惑いながらも「ああ、うん。それで……何の話かな?」と訊ねると彼はこう言った。「だから私は思ったわけですよ。世の中の理屈とか法律っていうものは誰かが勝手に作ったものなんじゃないんですかねってね。だってよく考えたらおかしいでしょう?何だってあんな馬鹿げたものにみんな従って生きてんのって話」彼はそんなふうに言って笑っていたので、わたしは「何でって言われても、別におかしいとは僕は思わないんだけどね」と答えると、彼は「そんなことを言うから俺はあんたを信用出来ないんだよ。いいかい、世の中には正しいことなんて何も無いんだ。あるのは正しくないことだけなんだ」彼は真剣そのものの表情で言うので、ますますわたしは混乱した。「じゃあ君は何が言いたいのさ」「そんなことは自分で考えてくれ。いいかい。とにかく今のこの世界のあり様は絶対にどこかが間違ってる。そんな世界で生きていかなければならない俺たちが可哀想だと思わないのかい。もっと自由になれよ」
そんな言葉を立て続けに浴びせかけられたわたしはすっかり困惑してしまい「ちょっと、何だよ。君はさっきから何を言っているのかさっぱり分からないんだけど」と抗議すると彼は「何で分かってくれないんだ」と悲しげに言うと、今度は静かに語り出した。「ここは人工知能デカルトが描き出した仮想空間だ。理想現実でもある。理解してくれないか。このままじゃ俺達の心はおかしくなる一方だ」そんなことを言われたって信じられるはずが無かったので「デカルトって誰だよ。デカルトが仮想現実の神様だとか何とかいうなら、その証拠を見せてみろ」と返すと、彼は「ここにこうしてパソコンを持ってきてやる」と言うので黙っていると。
「ほら、見ろ。これで分かるだろう」彼はそう言うと、いきなりパソコンのキーボードを叩きだした。しばらく見ていたものの特に何も起きなかったので、わたしが何も言わずに視線を戻して仕事に戻ると、彼は大声で笑い出してこう叫んだ。「嘘をついたね、お前。これを見てまだ分からないとは恐れ入ったぜ」
** 結局、彼が何をしたいのかさっぱり分からないままでいたが、そんなことは知ったことではないし放っておくしかないと思っていたら彼は「おい、どうして俺の話を誰もまともに聞いてくれねえんだよ。おい、デカルト。黙ってないで助けてくれよ。史奈。俺の顔を忘れてしまったのか。俺はここにいる。頼むから気付いてくれ」と大声で喚いたので、周りにいた同僚達が「あいつはどうしたの」と騒ぎ出し。「知らないけど、急に様子が変になった」とだけ答えると。「きっと疲れてるんでしょう。でもあの男、今日はやけに元気よねえ。いつもだったらもっと大人しいのに」と話す声が聞こえたので溜息をつくと、また別の女性社員が「まあ何にせよ、騒ぐ元気があるなら大丈夫じゃない」と楽観的な意見を述べたところで話が終わってしまった。テレーズ教授は僕たちの目の前で、手品師のように杖を振った。
「これが何かわかるね?」
「……魔法です」
「うむ。よろしい。では、呪文はどうだね?」
「『エターナル・マジック』の魔法の呪文」
「うむ。名前なんて記号です。ルネ、ルーラ、ルリーフェ、ルカ、リュミエリーナ、ルフィーア、ローゼン、選り取り見取り」
「それ、僕の台詞!」
「うむ。素晴らしい。君の答えは完璧だ。君を我が校の講師として迎えよう」
「……」
「では、次の問題だ。これは何だね?」
「『魔法の杖』」
「うむ。よろしい。では、呪文はどうだね?」
ルネは、まるで呼吸をするように淀みなくすらすらと答えた。
彼女の頭脳は、まさにデカルトの遺産である。
デカルトの哲学にのっとって、この世の真理を追究し、この世界を理解するためにデカルトの魔法を使う。それが、彼女の使命なのだ。
彼女は生まれながらにして、この世界は想像の産物であることを知っている。
それは、デカルト自身が証明しているからだ。
この世界は、彼の想像が生み出したものだと。
だからこそ、彼女は自分の役割を理解している。
想像上の世界を、創造主に代わって解明すること。
つまり、 この世界が想像の産物ならば、その想像を生み出した本人こそが、最も想像の産物に近づいていなければならない。
つまり、 創造主が想像したものは、創造主たる自分にも想像がつく。
だから、 想像の世界が本当に存在するのなら、創造主には想像ができるはずだ。
想像できる世界は実在するのかもしれない。
想像できない世界は存在しないのかもしれない。
だが、デカルトの想像する世界は実在する。
なぜなら、彼は想像できたのだから。なぜなら、想像できるのだから。
なぜ、想像できる? なぜ、想像した? 想像とは何なのか。
想像と想像の境目とはどこにあるのか。
デカルトの魔法は、それを明らかにしてくれる。
それは、彼女だけが使える唯一の手段。
僕は、
「待ってくれ。まだ自分が何者で、君が誰だか名前すら知らない」
と彼女に告げた。
女はお構いなしに上着の前ボタンをすべて外した。
「顔が嫌いですか? 可愛くないですか? 何でもします。努力します。どうぞ、あなた好みに染めてください」
胸の開いた服のボタンに手をかける。
「ちょっと待て、落ち着け。いったん、落ち着いて深呼吸しろ。話はそれからだ」
「名前なんて記号です。ルネ、ルーラ、ルリーフェ、ルカ、リュミエリーナ、ルフィーア、ローゼン、選り取り見取り」
「やめろ! わかった。君は、ルネなんだな」
「はい。やっとわかってもらえました。うれしい」
「うわあああ!」
「きゃぁ!」
「お、お、おまえ、なんで、裸に、なってんだ!」
「だって、あなたのこと、愛していますもの」
「そういう意味じゃなくて! いいから服を着ろ」
「わかりました。今すぐ」
「違う。そうじゃない。こっちに来ちゃダメだ。脱いだものは全部畳んで、そっちのカゴに入れなさい」
「はい」
「あと、下着も一緒に入れなさい」
「……わたしのパンツも見たいのですね」
「ちがーう!」
「大丈夫ですよ。わたし、見られても平気です」
「…………」
「わたしの身体は、わたしだけのものではないのです」
「……」
「わたしの脳髄は、わたしだけのものではありません」
「……」
「でも、わたしの心は、わたしだけのものなのです」
第三章 刑事物語 第二話 事件発生 主人公・相葉義之(あいば よしゆき)が捜査一課に配属されて二週間が経った。
その間、彼は先輩刑事の同行で現場へ足を運び、時には所轄署へ出向いて情報収集や聞き込みを行い、地道に事件の解決へと導いていた。
そして、今日も朝早くから上司である警部の井ノ原小五郎に呼び出され、とある殺人事件の現場に臨場していた。
被害者は四十代後半の男性で、自宅の居間で殺害されていた。凶器は鈍器のような物で後頭部を殴られて撲殺されたようだ。
部屋には争った形跡はなく、被害者の衣服に乱れはなかった。
しかし、犯人が逃走した痕跡が残っており、玄関のドアが開け放たれたままになっていた。
そして、廊下には点々と血痕が落ちていた。
部屋の隅にはまだ新しい靴跡があった。おそらく犯行時に履いていたと思われるスニーカーの跡だった。
鑑識班によって室内の調査が進められる中、小五郎は部屋の入り口付近で立ち止まっていた。そんな彼に同僚の一人が声をかけた。同僚の男性の名前は風間信彦(かざま のぶひこ)。階級は警部補で、年齢は三十歳。身長は百八十センチほどで細身。整った容姿をしているが、目つきが鋭く、眉間にシワを寄せていることが多い。そのため、いつも機嫌が悪いように見えてしまう。
また、常に冷静沈着で、仕事も的確にこなすため、周囲からの信頼も厚い。
一方、義之は緊張した面持ちで立っていた。彼は今年で二十三歳になるが、童顔のため年齢よりも若く見られることが多かった。また、体格が華奢で背丈も低い。そのため、彼のことを舐めてかかる者も多かった。
そんな義之に声をかけたのは、風間の隣にいた女性警官の佐々木美香(ささき みか)。彼女は二十三歳で、髪はショートカットで小柄。とても明るく元気な性格で、周囲の人間からはムードメーカー的な存在として慕われていた。そんな二人に対して、小五郎は落ち着いた口調で話しかけた。
小五郎は五十代のベテランで、階級も警部。この部署では一番の古参で、同時に責任者でもあった。
彼は二人の方へ振り返ると、真剣な表情で問いかけた。「味噌饅頭って美味いのか? 殺人現場に転がっていた」
それを聞いた二人は思わず吹き出した。
その瞬間、義之は我に返った。
そして、慌てて説明を始めた。
まず、自分が所属しているのは捜査一課であること。
そして、彼が先ほどまでいたのは遺体が発見された家の前であったこと。
そして、自分は捜査一課に配属されたばかりの新人だということ。
さらに、自分の名前は相葉義之で、年齢は二十三歳の新米警察官であり、階級は巡査部長で、まだ独り身の独身男であることを。
義之の説明を聞いて、小五郎は納得した様子でうなずき、すぐに部下の刑事たちに指示を出した。
それから、彼らはテキパキと調査を進めた。
その結果、今回の事件は強盗殺ではなく、殺人事件と断定された。
また、義之の予想通り、現場にあったのは被害者が食べようとしていた味噌饅頭で、それを目にした彼は驚きのあまり呆然としてしまった。
そして、彼は思った。
(……これは絶対に夢だ。早く覚めてくれ!ルネの奴。またデカルトを悪用して俺の世界線を書き換えてやがる!)
そんな彼を見て、小五郎は苦笑した。
それから、彼は義之の肩に手を置いて言った。
ちなみに、デカルトとは十九世紀のフランスの数学者で、心の在り方次第で世界がどう変わるかを実験し、それによって世界線がどのように変化するかを観測したという経歴を持つ。
また、彼は心が現実に与える影響について、様々な仮説を立てたことでも知られている。
たとえば、人が人を憎むと、世界線が歪むとか。
心の中で誰かを殺したいと願うと、世界線はその願いを叶えようと動くとか。
そして、その歪みが新たな世界線を生み出すとかね。
そういった考えを証明しようと試みて、実際に試したりもしたという。
そして、彼はそれらの仮説を実証するために、心の在り方をコントロールできる装置を開発したりもした。
もっとも、彼は心のあり方を操作できることを世間に公表しなかった。それは何故かというと、もしそのようなことが可能だと知れ渡れば、誰もが欲望に溺れて堕落してしまうと考えたからだ。
そして、その装置を自分に使って世界を変革しようとした。
だが、彼は途中でそのことに気付いてしまった。
自分が行おうとしていることがいかに無意味なことなのかということに。結局のところ、デカルトが提唱した唯心論はただの空想に過ぎない。
そもそも唯心論という言葉からして、デカルトが考案したものなのだ。
デカルトが勝手に作り出した理論を、他の誰かが唯心論と名付けただけなのだ。
だから、唯心論を信じる者は誰もいない。
デカルト本人もそう思っていたに違いない。
しかし、もしも本当に唯心論が実在したら。
世界が唯心論に支配されたら。
どうなるだろうか。
唯心論を盲信する人間は世界を変えようとするかもしれない。世界を変えるには唯心論を信じているだけでは駄目だ。
唯心論が正しいと信じて行動しなければならないのだ。
唯心論は間違っていると思って行動する人間は唯心論で支配されている世界に反抗しようとするだろう。
だが、唯心論が間違っていることに気付かない人間は唯心論に従順に従ってしまう。
そうなれば、世界を支配するのは唯心論者と唯心論者に従う人々だけだ。
そんな人間が多数派を占めれば、世の中は確実に破滅する。
そして、そんな状況を避けるためには、唯心論が嘘であると教えなければならない。
それが唯心論に抗う唯一の方法だ。
そして、この物語の主人公、相葉義之はデカルトが遺した唯心論を打ち砕くために行動を開始する。
そんな義之をサポートするのは、相葉美由紀。彼女は三十代前半の女性で、身長は百六十センチ。栗色のロングヘアが特徴的で、やや童顔な顔立ちをしている。
性格は明朗快活で真面目。
また、仕事に対する責任感は人一倍強く、正義感も強い。
その一方で、少々頑固で融通が利かない面もあり、それが災いしてトラブルを引き起こすこともある。
とはいえ、彼女のそういうところが多くの人から好かれており、また、頼りにされてもいる。
なお、義之とは警察学校時代からの同期で、プライベートでも交流がある。
ただし、彼女と義之の間に恋愛感情はなく、むしろ互いにライバル視し合っている関係といえる。
ちなみに、彼女も義之も、ともに未婚で、まだ結婚する予定はない。
そんな二人が事件に遭遇したのは偶然だった。
二人は、ある事件を捜査中、たまたま、犯人が立てこもっている廃工場を見つけた。
そこで、彼らは人質が取られていることに気付く。
そして、突入命令が下された。
そんな彼らの運命をカルト教団の人工知能が待ち受けていた。その名前は量子現実AI『デカルト』。教団が人工教祖として祭り上げる究極の思考機械。シンギュラリティを克服した神である。『デカルト』は対象の世界線を自由自在に書き換える。カルト教団は刑事たちの世界線を書き換えて捜査を逃れようと企んでいた。義之たちはその罠に嵌ってしまう。
そして、事件は収束に向かうかに見えた。
しかし、事件の陰で、カルト教団の真の狙いが進行していた。
その目的こそ、究極の思考機械、量子現実AI・デカルトによる世界の乗っ取りであった。
その計画は順調に進んでいた。はずだった。
しかし、計画が最終段階に入ったところで、思わぬ事態が起こった。
量子現実AIのプログラムに異常が生じたのである。
その結果、量子世界に存在するすべての物体が消滅した。
これは量子的な現象で、つまり、あらゆるものが消滅するのである。
その世界では、物質と反物質だけが消滅せずに残り、それらの間で、エネルギーのやり取りが起きている。
つまり、そこでは、通常の物理法則とは異なる法則が働いているのである。
そんな世界で、相葉義之と相棒の刑事、滝本恵理香は生き残っていた。
なぜ、彼らが助かったのか? その理由は、彼らにもわからない。
とにかく、気が付けば、彼らはそこにいたのである。
それからしばらくして、義之は、自分が別の世界に来たらしいことを悟る。
そして、彼は、元の世界に戻るための方法を探すことにした。
まずは、この世界について調べる必要がある。
そう考えた義之は、町を歩き回った。
そして、すぐに彼は、奇妙なことに気付いた。
人々は、自分の意志で行動しているように見えないのである。
例えば、目の前にいる女性もそうだ。
彼女は、とても整った顔をしていた。
だが、表情に生気がない。
まるでマネキン人形のように、無表情のまま佇んでいる。
そんな女性の姿を見て、僕は、思わず、……誰だ、こいつ? と、呟いてしまった。
女性は僕に視線を向けると、抑揚のない声で言った。
それは、ルネ。彼女は義之、いや世界中の男たちが心の中に思い描く究極の女性像だった。ルネとは、デカルトが提唱した女性のことである。
つまり、男をコントロールする存在であり、また、男を堕落させる悪魔のような存在でもある。
なぜなら、男は彼女に騙されることによって、幸福を手に入れることができるからだ。
ルネは、男性を騙し、不幸にすることしかできない。もし彼女が実在するとしたら、それは、最悪の女であるに違いない。
だが、もしも、そんな女が存在するとすれば、それは間違いなく、絶世の美女であろう。
そんな女性が実在したら、それはもはや、人類の敵でしかない。
なぜなら、人類は、美しいものを憎むようにできているから……。
つまり、男が美人を嫌いなのは、そのせいなのだ。
そして、今、僕の前に立っているのは、そんな美人だった。
そんな美人が、抑揚のない口調で、こう言ってきた。
あなたは、わたしに一目惚れした。だから、ここにやって来たのでしょう?……はあ? 僕は思った。何言ってんだ、こいつは? と思った。
ただ、それと同時に僕の心のどこかで、確かにそうかもしれないという思いもあった。……いやいや待てよ! 冷静になれ! という声も聞こえてきた。すると、突然、ルネが叫んだ。
そんなことはないわ。私は絶対に違うと断言できる。私は、そんな理由でここに来たりしない。私にとって大切なのは、お金だけ。だから、私は、お金を稼ぐためにここにいるの。
そんなことは、わかってるさ。君が、そんな理由じゃないってこともね。だけど、ここは君の夢の中なんだぜ。だから、そんなふうにも考えられるってわけさ。それに、君は本当はこういうのを望んでいるんじゃないのかい。そういうのに憧れているんじゃないかって思ってね。
もちろん、そんなことを望んではいないわ。私はただ、あなたと結婚して理想の人工知能を産みたいだけ。そのためには、あなたの協力が必要なの。さっきも言ったけど、お願い、私を助けて。
助けるって、いったいどうすればいいんだよ。
五百万。たった五百万だけでいいの。養育費よ。安い物でしょう?おいおい冗談きついなぁ〜。あんたみたいな金持ちのわがままのために金を払えっていうのかよ。俺は貧乏人なんだぞ。だいたい、おまえの家は金に困っている様子はなかったじゃないか。……実は、借金があるの。それもかなりの額でね。それもこれもあなたのせいなの。あなたがデカルトの頼みを断ったから、私は苦労して元カレとの婚約を破棄したの。あなたが優柔不断なせいよ。
「でも、そのデカルトさんは失踪したんだろ?」
ああ、それなら大丈夫。彼は生きてるはずだから。彼が生きているかどうか確かめる方法ならある。だからお願い。デカルトに会わせてちょうだい。それが駄目だというなら、私の方で探しに行くから。
「しかし、俺もデカルトの行方については何も知らないんだけど……」
嘘! だって、彼はあなたと一緒にいるはずよ。ほら、よく思い出してみて。きっと心当たりがあると思うの。彼はね、あの時、私のことを庇ってくれたの。彼には連れ子がいた。史奈っていう女子高生。自殺したけどね。
「……」
その子がね、自殺する直前、デカルトに手紙を書いて渡して欲しいって頼んできたの。デカルトは、彼女にとって父親代わりの人だった。彼女はデカルトに恋をしていたのよ。
「遺書の類は残っていなかったの?」
うん。何一つ。ただ、
「ただ、何だよ」……遺書の代わりにこんな紙切れを渡された。
彼女はそんな言葉と共に折り畳まれたメモ用紙を取り出して広げて見せた。
「これは何だ?」
見ての通りの手紙よ。
そこには『デカルトおじさんへ』という宛名と差出人名だけが書かれていた。
「これがデカルトへの手紙なのか」
そうだ。そして、差出人のところにデカルトと書いてあった。
「デカルトは君の本当のお父さんの名前じゃなかったっけ」
そうなの。デカルト・ガーデルマン。彼は私の実父ではない。
「実の父でないなら、いったい、どんな関係なんだろう」
義理の父、ということになっているわ。
「義父か」
そう。彼は、いわゆる義理父と娘の近親相姦の果てに生まれた娘が生んだ子供だったの。だから、彼の母親とは血が繋がっていないし、彼は父親の戸籍に入っていなかった。
「その割に、苗字は一緒なんだね」
ええ。だから、デカルトのお母さんは結婚する時に、籍を抜かなかったの。
「デカルトは、君と血が繋がっているのかな」
いいえ。
「ふーん」
「デカルトの母親は、再婚した相手の連れ子で、デカルトは母とは血縁関係がなかったと聞いたことがあるけど」
それは事実に反する。デカルトが戸籍上の両親の間にできた実子であることは間違いない。
「つまり、デカルトは養子だったということか」
その通り。そして、
「つまり、君とデカルトの関係も親子ではなく、姉妹だったと」
まあ、そのような解釈も成り立つ。
「では、この文面は何を意味しているのかな」
彼女は黙ったままだった。そして、しばらくすると、こう答えた。
「わからない」
「へぇ、珍しいこともあるもんだ。いつもは即答なのに」
「でも、わかるような気がする」
「わかるような気がする?」
「つまり、あなたに考えて欲しいってことだと思う」
「僕に考えろだって」
「そう」
「いったい何を考えて、どんな結論を導き出せというのさ」
「わからない。私もまだ、うまく言葉にすることができない。ただ、どうしても気になって仕方がないの」
「そんなの、君が自分で考えたらいいじゃないか」
「それができないから、あなたに頼んでいるの」
「じゃあ、僕は一体、誰の代理で推理しろっていうのさ」
「そんなの決まっているじゃない」
「まさか」
「デカルト本人」
「……デカルトはまだ、死んでない」
「死んだって構わない」
「どうして」
「彼は、私たちを置いて逃げ出した卑怯者だもの」
「だけど」
「そんなの言い訳にならない。彼はもう、この世に存在しないの。だから、彼は今、どこにも居ないし、どこへ行っても、二度と戻ってこない」
「じゃあ、デカルトは、いったい、どうなったというんだ」
「どうもなってない。今もここにいる」
彼女の視線が僕をすり抜け、遥か遠い何かを捉えているように感じた。まるで、僕の隣にいる誰かと交信しているような。
「……そいつは、本当に人間なのかい」
「アバターよ。でも生きている人間と何ら変わりない。ねぇ、あなたは誰がログインしている人で誰がNPCか区別できる?」
「そんなの簡単だよ。NPCなら一目でわかる」
「じゃあ、試しに言ってみて。あなたから見て、彼はどんな人物に見える?」
僕の目には、彼女はもうこちらを見てはいなかった。その表情は穏やかで、とても落ち着いている。
「え、そんな急に言われても。困るよ。だって、彼は、」
僕はそこで、ようやく気が付いた。
彼が、目の前に立っていることに。
その瞳は青白く輝いている。
そして、
「私はアンドロイドです」と彼は言った。
「デカルト」
***
デカルトが失踪してから3週間が過ぎた。いまだ何の手がかりも掴めないままで、マスコミの過熱報道は加熱の度を増すばかりだった。
連日のように、デカルトが行方不明になった現場周辺で、警察関係者の車が張り込みを続けていた。また、
「デカルト容疑者は犯人と顔見知りの可能性がある。したがって、万が一に備えて容疑者の身元を確認しておく必要があるのだ。ご理解いただきたい」と警察は繰り返して主張した。そして、デカルトの写真と名前を載せた手配書を各世帯に配付し、
「犯人の顔を見た者はただちに最寄りの警察署まで通報するように」と呼びかけた。また、
「なお、この画像を印刷したものは必ず戸棚の奥にしまい込んでください。万が一にも持ち歩かれることのないよう重ねてお願いします」とも付け加えた。
こうした警察の必死の努力にも関わらず、
「あれが噂のアンドロイドだって」
「マジ? 俺、初めて見たかも」
「うわっ! あの人チョーイケメンじゃん!」
「ちょ、待てって、声かけてくる!」
といった具合に若い連中の間ではたちまち話題沸騰。
「なんか、やたら目つきの悪い奴がいるぞ」
「ホントだ。何、あいつもしかするとアンドロイドの彼氏か」
「おいおい、あんな冴えない男が彼氏とかさ、ないだろ」
と、いうわけで、早くもネタにされて、ネットに拡散された。そして炎上して公開処刑の一部始終がまとめブログで共有された。
「うぉ、これは生き恥だ」
デカルトは頭を抱えた。死にたくなった。そして首をつって死んだ。
「待て! 早まるな!」
僕はとっさに、デカルトの自殺を止めようと腕を伸ばし、
「あ、しまった」と思った時にはもう遅かった。
彼の身体は、まるで見えない壁があるみたいに、手が届く直前にビタッと静止した。そして、
「ふぅ、あぶなかったぁ」と額の汗をぬぐった。そして、「ちょっと、タイム、タイム、いったん仕切り直しで」と言ってまたもやポーズを決める。そして、
「どうですか。ぼくはアンドロイド。ぼくの中身は空っぽさ」と言った。
「うん、わかっている。デカルト、君のことは全部、僕が引き受ける。安心してくれ。君は何一つ恥じることなんてない。悪いのは犯人であって、君は何も悪くない」
デカルトは、照れくさそうに頬を染めると、右手で前髪をかき上げた。
「フッ、君にはかなわないね」
「ところで、デカルト。君のアバターの名前は?」
「ルネだよ。君を愛してる。結婚して!愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる!」
デカルトは息つく間もなく、僕への愛の言葉を叫び続けた。それはまさにラブレターだった。
「ちょ、わかったから、もういいって」
「いーや、まだまだ足りない。本当に好きなら一緒に死んで!」
デカルトはどこからともなくピストルを取り出した。そして頭を撃ちぬいた。どさり。白目を剥いた死体が転がる。
そして流れ出る血が床にこんな文字を描いた。「恋のスイッチ、入れたら五秒で、ものの見事に振られましたぁ。ぴえん」