公開中
2-8「侵食」
前も後ろも右も左も、上と下さえもない。そんなあやふやな空間を、僕たちは動いているのか静止しているのかすら定かでない状態で漂っていた。
やがて、僕たちの足元に地面が生まれた。
先ほど空間が崩れたのを逆再生するように、地面が、空が、草が、森が、生き物が生まれる。
変化はそこで終わらず、ファンタジーの領域へ踏み込む。
風も何も吹いていないのに、木が揺れた。
地面から湧き上がるように、白い光の玉が生まれた。
空を飛ぶドラゴンのような生物が現れた。
「……すごい」
天津さんが思わずといった様子で呟いた。
同感だ。
僕も、天津さんが先に言っていなかったら言っていたかもしれない。
「動く」
渡辺さんが、足を上げたり下ろしたり、体をひねったりしながら言った。
確かに、さっきまではとても体を動かせるような状態ではなかった。そう考えれば、当たり前のことだが感動するのも当然だろう。
「綺麗だ」
ひとしきり感動するのを終えたところで、改めて周りの風景を見渡すと、やはり「綺麗」の一言に尽きる。
「気をつけろ。何か……変だ」
「ん、確かに」
千羽の忠告に、辺りの様子を入念に見てみる。
この中で唯一、渡辺さんだけは分かっているようだが、僕は全く分からない。
「《《黒く》》なってってる」
黒く……?
今、僕の目の前を横切った兎は確かに黒かったが、それに何の関係が?
空を黒いドラゴンが飛んでいる。
黒い花が咲いた。
黒く輝く蛇がこちらの様子を窺っている。
真っ黒な熊が僕たちを見て逃げ出した。
黒い鳥の群れが慌ただしく空の彼方へ消えていく。
小さな黒いトカゲが蛇に食われた。
辺りの風景がどんどん黒くなっていく。
偶然、これらの生物が黒かったのかもしれない。だが、それでもこんなに偶然が重なることがあるだろうか。
黒く侵食されていく森。変わらず幻想的な白い光の玉が辺りを漂う。
それが不気味に感じられてくるのは、僕だけだろうか。
青い鳥がいた。
その鳥は不思議そうに白い光の玉を見つめ、|嘴《くちばし》でつつく。
白い光の玉は消え、代わりに|嘴《くちばし》が黒く染まった。
その「黒」は|嘴《くちばし》から頭へ、胴体へ、羽へ、足へ広がっていく。
瞬きをした後には、その鳥は周囲に増えつつある黒い生き物の一員となり、飛び去っていった。
「全員、光の玉に触れないで」
目に入った光の玉は全て避けようとするが、なにぶん数が多い。
体をどう動かしても、必ずどこかしらの光の玉に当たる。
避けきれない。
「触れないでって言われても……これじゃあ無理だよ、どれかに当たっちゃう」
天津さんの言葉の通りだ。
「なあ」
光の玉を避けようと悪戦苦闘する僕たちに、十五が言った。
「この光はここに来た時からあった。俺たちはそれに触れている。なら、そこまで慌てる必要はないんじゃないか?」
「うーん、確かに」
一番慌てふためいていた天津さんが納得する。
「言われてみれば」
もちろん、僕も納得した。
「確かに。なら、ここから出る方法を探す」
渡辺さんがそう宣言した直後、何かが僕たちに突っ込んできた。
「ブモオオオ!」
そう吠えたのは、猪のような黒い獣だった。
|蹄《ひづめ》で地を蹴り、僕たちに突進してくる。
全員で避けたが、黒猪は方向転換し、千羽の方へ突っ込んだ。
千羽は軽やかに動き、黒猪の体に一撃を入れる。人体から鳴って良い音ではない音が鳴ったが、本人が平気そうな顔をしているあたり大丈夫なのだろう。拳は誰のものか分からない血に濡れているが。
「鬱陶しい」
渡辺さんが煩わしそうにそう呟いた後、雷が閃いた。
目にも留まらぬ速度で黒猪に肉薄し、黒猪にそっと手を触れる。
「この程度で十分」
渡辺さんの掌から雷が迸り、黒猪を焼き焦がす。
黒猪だったものはぷすぷすと黒い煙を上げ、どさりと倒れ込んだ。
明らかにオーバーキルなその光景を目にした僕は、顔が引きつっているのを自覚した。
「これ、食べられるかな」
煙を上げる黒猪に近づいてしゃがみ込んだ天津さんは、そんなことを口にした。
「やめておくべき。この黒く変貌する現象にどんな性質があるのか分からない以上、体内に入れるのは危険」
渡辺さんは全く動じず、天津さんの疑問に答えた。
「そっかー。殺しちゃったから、せめて私たちの糧にしてあげたいと思ってたんだけど」
食べるため以外に殺すって自然の摂理に反してるから、と天津さんは言った。
「確かにそうだが、野生動物だって自分の命が危なければ襲ってきた相手を返り討ちにすることもあるさ」
「そうだね。ならいっか」
ちなみに、こうしている間も黒く変貌した生物が僕たちに襲いかかっている。それらは、渡辺さんと千羽が対処していた。
「ちっ、数が多いぞ、渡辺!」
「知ってる。でも、私は七割倒している。千羽はもっと本気で戦うべき」
「何を言って……!?」
「千羽はもっと強い。異能を使えば」
二人がそんな会話の応酬を繰り広げている間に、状況は動いた。
「シャアアアアァ……」
黒い蛇が鎌首をもたげる。
この状況下だ、その意識は僕たちに向けられているのだと思ってしまうが、実際は違う。
蛇の目は僕たちではなく――森の中を飛んで僕たちへ襲いかかる黒い鳥に向けられていた。
ある一羽の鳥が仲間から少し離れたところを飛んでいる。
蛇は、その鳥が通りそうなところで鳥を待ち伏せた。
枝に尾を巻きつけ、タイミングを見計らう。
そして、その鳥が蛇のいる枝の真下を通った瞬間――蛇の口が大きく開き、鳥を丸呑みにした。
自然界でよく見る弱肉強食の一幕。
しかし、その後起きた出来事は「よく見る」とは言えないものだった。
真っ黒な蛇の全身がうごめく。
背中の部分が盛り上がり、蛇にはないはずの器官を作り上げていく。
十秒ほど経った頃には蛇の変化は完了し、その背中の翼をはためかせていた。
「キシャアァァッ!」
対峙するは、変異した蛇と僕たち五人。
戦いの火蓋が切られた。