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嵐のち温泉
一応続き。
ぼやっとしているけれど、どうしても書きたくなったふわふわした嫌な気持ちを消化します。
「あんたの一言でこうなったんだからね!」
現在、絶賛大嵐が我が家のリビングを荒らしている。癇癪を起こした母は、この家の誰よりも強い。父は完全に尻に敷かれているので、ただペコペコと平謝りするだけであり、妹はおろおろと2人を見比べるだけだ。
うるさい。宿題が出来ない。
きっと言ったところで今の母には逆効果であるので、私は大人しくシャープペンシルを回していた。
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事が起こったのは一昨日のお昼時であった。
久しぶりの三連休。父も友人と釣りに行くはずだったが、向こう側の急用によって行けなくなってしまったので、テレビを見ながら人を駄目にするクッションに転がっている。
妹はひたすらスマートフォンの画面をスワイプしており、母は食器を洗っている。それから、私は来週が提出期限である課題に向き合っていた。三者三様ならぬ四者四様である。
「本日は温泉ですよ!中でも行ってみたい温泉第一位、海原温泉で楽しいひとときを……」
「良いなあ、温泉。そのうちまた行きたいなあ」
「温泉?」
母が反応した。父の顔からテレビの画面へと視線が移動し、そのままロケビデオを眺めている。机にただ座って、課題を消化するふりをしている私もつられてテレビの方へ顔を向ける。
「行ってみる?海原温泉。そんなに遠くないしさ、お父さんも釣り行かないんでしょ?せっかくだし、準備しましょうよ」
皿洗いがちょうど終わったのか、母は手を叩いてキッチンから父の前まで移動した。
「え、温泉?今から?」
思わずつぶやいた。
課題の進みは芳しくない。シャープペンシルはいつのまにかペン回しの道具へと成り下がっていて、視線はドリルに向いていたようで向いていない。相変わらず解答欄は空欄ばかりだ。
「海原温泉!ねえねえ、ここも行きたい!」
「あ、プリン屋?いいわねここ、可愛いじゃない」
妹が母から借りたスマートフォンを取り出して見せている。いつのまにかブログの写真を見せていて、より母の機嫌が良くなったのが分かった。
「じゃあ、早速準備しましょっか」
展開が早すぎてついて行けない。私の服、バスタオル、小銭、モバイル充電器、その他諸々。山ほど荷物を抱えて、巨大なバッグに詰め始めた。
冗談じゃない。元々出不精ではあるし、進む気はしないが課題だってある。
「あんた歯ブラシ持ってく?」
ワンテンポ遅れて私は頷いた。母は返事を待たない。さっさと歯ブラシも袋に詰める。
とその時、特に質問もされていなかった父が、小さな声でぽつりとこぼした。
「別に、今日絶対行きたいってわけじゃなかったんだけどな」
空気が一瞬にして凍りついた。私が口を開こうとした瞬間、どんと誰かが足を鳴らしたのが聞こえた。見るまでもなく、誰だかは分かった。
あ、これ、まずいやつだ。
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「……で、なんでこうなったんだろう」
「あたしに聞かれても分かんないよ」
遠くの山々を眺めつつ、湯けむりの中で妹が物憂げに呟いた。ここまでテンションが低い妹は初めて見たな、と私も妹の横顔を眺めていた。妹も私が思っているよりは、成長しているようだ。夫婦喧嘩に振り回され、何も考えられない子供ではないということだ。
たとえ「今日近くのスーパー銭湯に行ったら機嫌を直してやる」という意味不明な命令だったとて、変に反抗せず大人しく従う。そんなスルースキルを2人とも得ているのだった。
だからこそ、鬼の居ぬ間に洗濯である。
「そっか」
雲はゆったりと空の中を泳いでいる。私たち子供の心情なんか知ったこっちゃありません、とでも言うように、のんびりとしたスピードで流れているのだった。
「そうだよ」
嵐の後は、またしても晴れている。
私の行き場のない気持ちを吐き出すのが馬鹿らしくなってくるくらいに、露天風呂、その真上の空は青く爽やかに澄み渡っている。
「綺麗」
「ね」
私の呟きを律儀に返した妹は、相変わらず山の端を見つめている。
「お母さん露天風呂来なくて良かったね。あたし、隣に座られたらちょっと嫌だな」
「私はちょっとどころじゃなくて、すごく嫌だけどね」
「宿題、終わってないんだよね?」
「うん」
「何、やってるんだっけ。お姉ちゃん」
妹がゆっくりお湯の中で足を動かすと、こちらにも温かい湯が流れてくる。それが今は、不思議と心地良かった。
「珍しいね。そっちから聞いてくるなんて」
「なんとなくだよ。お姉ちゃんとこうして話すのが、ちょっと久しぶりな気がして」
そう言われれば、そんな気がした。
私が熱を出して寝込んだ日。私以外の3人が、私を置いて遊園地に行ったその日から、私は彼らとの対話をやめた気がする。ある程度時間が経ってしまったので、もう妹は覚えていないかもしれないが。
「普段話してるけど、話してないみたいで」
正確に言えば、対話を試みることをやめた、ということになるのだろう。私が言ったって無駄だ。分かってもらえない。私の根元にあったものが少しずつ引っ張り出されて、温泉によって泥が落とされていくような、洗い出されるような。
「今は数学だよ。理科のノートまとめも終わってないけどね」
「あたし、何か手伝いたい気分なの」
「ポイント稼ぎとか要らないよ、別に」
少しだけ曇ったように見える妹の顔をしっかり見据えて、できるだけまっすぐ届くように、言葉を選ぶ。
「あ、迷惑ってわけじゃなくて。そっちはそっちで、やりたいこともあるだろうし。私の宿題だから、私がやらなきゃなあって。」
「お姉ちゃん、やっぱり変なところで真面目」
「どういうことなの、『変なところで』って。一言多いのよ」
一呼吸置いて、湯けむりが風に乗って飛んでいった、少しだけ晴れた姿を見て笑う。
「ありがと」
「どういたしまして」
「じゃ、今日はコーヒー牛乳でも奢ろうかな」
「やった!2人で飲もう!」
無理やり連れてこられたことなんて、もう綺麗さっぱり洗い流された。それの料金だと思えば、百十数円だって何も惜しくは無かった。