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🌙1話 『焦げたパンと焦げた心』
駅から少し外れた坂道の先、街灯とまばらになった住宅街のはずれに、それはあった。
まるで最初からそこに存在していたかのように静かに佇む、古びた木造の建物。入口の小さな提灯に、墨で書かれた「月影亭」という文字が揺れている。けれど、そのレストランの存在を知る者はほとんどいない。看板もなければ、地図にも載っていない。偶然見つけた者しか、そこに辿り着くことはできないのだという。
千晶は、まさにそんな「偶然」に導かれた一人だった。
中学二年生の彼女は、体育館の裏でひとり膝を抱えていた。今日の部活でもうまくいかなかった。パスは味方に通らず、シュートは何本打ってもリングをかすりもしない。以前の彼女なら、ミスの一つや二つで動揺することはなかった。だが、あの日以来、何かが狂い始めた。
三週間前の試合。大事な場面で彼女がボールを奪われ、逆転を許した。そこから周囲の視線が変わったのを、彼女は敏感に感じ取った。
「千晶、またミスかよ」
「エースって言われてたの、昔の話だよな」
直接言われたわけではない。でも、視線の温度は冷たくなり、声をかけてくれる子も減った。気がつけば、コートの上でも、教室でも、自分の立ち位置がわからなくなっていた。
「私、何やってるんだろ……」
気がつけば、制服のまま駅を出て、いつの間にか知らない道を歩いていた。そして、この奇妙なレストランに辿り着いた。
中に入ると、重たい引戸がきしむような音を立てた。内装は和風とも洋風ともつかず、古時計がコチコチと時を刻む音が心地よい静けさの中に響いていた。カウンターの奥には、白いシャツにエプロン姿の女性が立っていた。年の頃は四十代くらいだろうか。背筋をまっすぐに伸ばし、無駄のない所作で小さなグラスに水を注いで差し出した。
「いらっしゃい。夜道をずいぶん歩いたでしょう?」
女性の声は柔らかく、しかしどこか凛とした響きを持っていた。千晶は言葉を返す前に、ただコクリと頷いた。
「メニューは……特にないの。でもその人に一番合うものを、お出ししているのよ」
そう言って、女性は奥の厨房へと姿を消した。数分の静寂。空腹だったはずなのに、なぜか千晶は緊張で胃が重くなっているのを感じた。
やがて芳ばしい香りとともに、一皿の料理が運ばれてきた。
「焦げパンのミルク煮。ちょっと変わった名前でしょ?」
皿の上には、カリッと焼き目がついたパンが数切れ。白いミルクスープに浸され、上からほんの少し黒胡椒とハーブが散らされている。素朴なのに、どこか気品がある料理だった。
「焦げてますよ……?」
つい本音がこぼれた千晶に、女性はふっと微笑んだ。
「焦げたところも、大事なのよ。人の心と同じ。焦げた部分を、いきなり切り落とさないで、優しく包んであげると、味が出るの」
その言葉の意味を理解する前に、千晶は一口、パンを口に運んだ。
カリッとした食感のあとに、しっとりとした甘みとミルクの優しい風味が広がった。焦げ目の香ばしさと、ほのかに染み込んだスープの温かさが、口の中だけでなく、胸の奥まで染み渡っていくようだった。
気づけば千晶は、静かに泣いていた。涙がこぼれても、誰も何も言わなかった。ただ、皿の上の焦げパンが、まるで何かを代わりに抱えてくれるように、そこにあった。
「焦げたのは、きっと私だったんだと思います……」
ぽつりと呟く千晶に、女性はただ「うん」と頷いた。
「焦げたっていいのよ。焦げるのは、一生懸命だから。無理して焼き続けなくていい。ゆっくり、ふわっと焼き直せばいいの」
料理を食べ終えたとき、千晶の心には不思議な安堵が広がっていた。状況が変わったわけではない。部活のことも、友達のことも、何一つ解決していない。でも、自分の中に小さな灯がともったような、そんな気がした。
レストランを出ると、いつの間にか夜の霧が晴れ、遠くに自宅の灯りが見えた。まるで霧の中の出来事だったように、『月影亭』の看板も、建物も、振り返った先にはもう見当たらなかった。
だけど、ポケットの中には、白い紙片が一枚残されていた。
焦げた心は、ミルクで包めばまだ温かい。
その言葉を胸に、千晶は歩き出した。焦げたって、焼き直せばいい――それが、あの一皿が教えてくれたことだった。
はじめまして。ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
この物語『月影亭』は、「もし悩みや迷いにそっと寄り添ってくれるレストランがあったなら」という思いから生まれた連作短編集です。
誰にも言えない気持ちを抱えた夜。自分のことが少しだけ嫌いになったとき。
そんな心の隙間に、ほんのり温かい一皿が届いたらいいな……そんな気持ちで、第一話を書きました。
千晶のように「焦げてしまった心」を抱えている人が、もしこの物語のどこかに共鳴してくださったなら、とても嬉しいです。
次回もまた、違う誰かがこの店を訪れます。
どうか、その一皿と出会いに、少しだけお付き合いください。
それでは、また深夜のレストランでお会いしましょう。