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(上)四
「お、はるか。久しぶり。元気にしてた? 来てくれてよかった」
会場に来た私の姿を認めるなり、玲は安心したように顔を綻ばせた。
「———……」
相変わらずの整った微笑み。何も返せなかった。
何も言わない私に、玲は少し不思議そうな顔をする。
「……やっぱ、なんかどっか悪いの?」
「ううん、悪くない。大丈夫」
心配されることに 気まずさと気持ち悪さを感じて、私はすぐに否定した。
何か黒い靄のようなものが、心臓の周りをぐるぐる回って、今にも吐きそうになる。ぎゅっと喉の奥を閉じて、必死にそれを留めた。
「早くまわろ。あっという間に人で埋まっちゃうぜ」
私の状態も知らず、玲は私の手を引いて軽快に歩き始めた。
五時を過ぎて、辺りはまだ明るい。日がどんどん長くなっているのを、肌で感じた。
祭りの提灯があちこちに飾られ、まだ日も暮れないうちに灯りはじめていた。時折吹く風に靡かれ、揺れている。
同じく風にあおられ、木々の枝葉がザワザワと揺れた。
言いようもない懐かしさを感じる。何も飲み食いしていないのに、口の中に苦い味が広がった。
———もう元には戻らない。
屋台の前に玲は席を取り、私を座らせた。
「じゃ、ちょっくら何か買ってくるから、待っててな」
そう言って右手を上げ、屋台のほうへ行った。
スマホの画面に、目を落とした。スリープ状態のその画面は、真っ暗だ。
私の顔が映っている。瞳の空虚さが、暗い画面越しにでも分かった。外出のために整えた、サラサラと舞う前髪に全く似合わない。
「———川口?」
不意に誰かに話しかけられ、ビクッと肩が震えた。
振り向くと、クラスメイトの誰かだった。えっと、なんて名前だったっけ。
「ここで何してんの? ……ああ、酒井だよ」
名前をど忘れしていたのを察されたのか、小さく付け足してくれた。
酒井。———玲の遊び仲間の一人だった気がする。
「何してるの、って……祭りに来たんだけど」
警戒しながら答えると、「一人で?」と聞かれた。
口を噤んだ。ざらざらするような屈辱感に襲われる。玲と、なんて言えなかった。
ここで そうだと嘘をついても、早晩見破られるだろう。玲はここにいるのだから。
「……一人で来たのって聞いて、」
そう言いかけて、不自然に言葉を切った。顔を上げると、彼は後ろの方向に目を向けている。
「……玲と来たのか。」
つられて私も視線を動かすと、玲の姿があった。何を買ったのか、両手を袋だかなんかで埋めている。私たちの姿に気づいたのか、にっと口角を上げた。
「そうか、お前たち、幼馴染だもんな」
そう言って、再び私を見た。研ぎすまされたナイフみたいだ。突き刺すような視線だった。
よいしょ、と彼はその場を離れて、足早に玲の元に向かった。
玲の袖をつかまえて、何か話しかけている。玲が立ち止まり、何か返した。それに不愉快そうに眉根を寄せて、酒井さんは畳み掛けるように さらに何かを言っている。玲が曖昧な笑みを浮かべた。
やがて二人は別れて、玲は私の座っているテーブルに来て、腰を下ろした。
「あー、面倒だった。」
開口一番、そう言った。はい買ってきたよ、と私に袋を差し出してくる。中を見ると、たこ焼きが入っていた。
「あ、うん」
曖昧に返事をして、袋から取り出して蓋を開いた。爪楊枝を見つけ、それをたこ焼きに突き刺す。
口に放り込むと、甘くないのに甘ったるい味がした。熱いはずなのに、冷めているようにも感じる。
「どう?」
一口食べて動きが止まった私に、玲が話しかけてくる。
「うん、まあ」
浮かない返事しかしないのを怪訝に思ったのか、玲が口を閉ざした。
何か考えているように視線を一周に動かして、小声でつぶやく。
「……酒井に何か言われた?」
「え?」
思いも寄らなかった。いや、少し考えたら、そんな結論になるのは不思議ではない。
「いや、何も……」
首を横に振ると、玲は再び口を閉ざした。その目が「絶対嘘だろ」と言っている。
幼馴染だもんな、と言ったときの突き刺すような視線を思い出して、なんとなく気まずくなった。
誤魔化すように、二口目のたこ焼きを口に押し込む。先ほどと違って、苦いような酸っぱいような、腐ったような味がした。
「……念のため、言っとくけど、」
玲の声がして、思わず顔を上げた。
「俺、はるかがやったなんて、思ってないから。あの事。」
「……え、」
突然その話を話題に出され、鼓動が縮み上がった。
「酒井は言ってた。関わんないほうがいいって。酒井だけじゃなくて、他の奴らも。でも、はるかはやってないって思ってるから、俺は、……」
そこまで言って、また何かを言いかけて、玲はそこで止まる。
呼吸が速くなった。止めようとして、横隔膜を意識で支配する。
何とも言えない沈黙が流れた。
何が、なんで、とも言えない。違う、とも否定できない。
吐きそうになるほどの恐怖と罪悪感が、血液の中に染み込んでいく。頸動脈で運ばれて、脳に付着する。
手足が急速に温度を失っていく。
ぐるぐると視界が回った。|眩暈《めまい》。
しばらくして、ガタッと音がした。
「ちょっくら何か買ってくるね。ほら、はるかが昔から好きだって言ってたやつ」
そう言って、玲は にかっと笑って軽く右手を上げた。
テーブルの下で、そっと手を開いた。
手のひらに残る微かな痺れだけが、私の存在を証明している。