時間を吸う悪魔

　何かのきっかけで「推し論」を検索した。 　今では誰もが推しを所有しているものだ。起き抜けにSNS、昼は同担仲間とリポスト合戦、夜はYouTube配信。土日は昼夜逆転、ひとひねり。 　休まる私はいない。不眠不休の週明けで、遅刻覚悟の家を出て、独りぼっちの教室に着いて、うっかり忘れのドジを踏む。それでSNSに釘付けになっても、日常をモノクロにしても、やなことがあっても。 「おはよう、今日も頑張ろうね。いつも一緒だよ」 　推しの言葉だけで生きていける。でも……。 　 「起床、食事、通学、学校、塾、就寝。どこでも会えるからって推しそのものを道具にしてる。心の慰めの道具にしてる。私の日常はどこ？　スマホに映った私は、鏡の中に取り残された」 　 　今ではこのように、学生用タブレットを私的利用して、お気持ち表明をする世の中だ。推しの正体は小中学生をたぶらかすVTuberのようだ。 　過去の投稿を漁ってみる。授業中に学タブを使用して「先生にバレてないw」。推しのカラーを宣言して、「早く私の心を特定して！」などと挑発していた時期もあったようだ。 　 　警鐘を鳴らすために紹介しておく。例えば、「XXX　郵便番号」のように郵便番号の上三桁を検索してほしい。やって見ればわかるが、たった３桁の数字で「○○県のこの辺り」まで絞れてしまうものだ。 　学タブ使用者は肝に銘じるべきだ。学区内特定は、数字何桁の漏洩。 　特に心の特定は儚いものだ。承認欲に操られ、プライベートを誰かに「モノクロ」にされる。すでに特定済みで、出会ったことのない誰かの「モノ」にされる。 　「私の推し論」という甘ったれた文章をスクロールの滝で流していく。断片的に読み取ると、恋焦がれる推しが炎上したようだ。暴露配信で隠されたプライベートがすっぱ抜かれ、推すか・推さないか、真剣に悩んでいる。悩んで悩んで、感情の濁流だ。 　そこに、時期が重なった。定期テストの試験範囲はもう一週間前に公開されている。勉強しなきゃ、時間がない。でもSNSを見てしまう。見なくていいものを見て、一喜一憂。 　そのように感情が｜混淆《こんこう》されて、文字が止まらない。頭と指が直結して、火消し中の推しよりも乱文乱筆、誤字脱字多め。これでは、解答用紙も燃やされ、成績にも飛び火するだろう。 　鏡の中に取り残された学生も、鏡に映らない何かの影響を受けている。既に何者かに、首筋を噛まれている。ドラキュラ城に幽閉されたら、自分ではどうすることもできない。 　 --- 　 「100分de名著」を読みこんだ。 　ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』から、「二項対立を疑い、乗り越え」たいらしい。帰りの通勤電車に、これの読解に取り組んだ。 　ペンを取り、線を引き。余白にペンを走らせると｜蝙蝠《コウモリ》が密集して、念じると立派な考察を描いてくれる。良い働きをする眷属だ。 　 　だが、揺れ動く車体の上だ。 　線路の大きな波を受けて文字がゆがむ。文字とアンダーラインがオーバーパス。カーブ、ブレーキ、横揺れの発生。ガチャンガチャンとつり革が軋み、足元もぐらついて不安定だ。それでも乗客はみな息を揃えたように、スマホにしがみつく。 　 　彼らは数年前より「時間を吸う悪魔」に使役されている。耳には眷属の証であるワイヤレスイヤホンをつけ、日常音を｜亡《な》くし、顔もスーツも生気がない。一方僕は、ポケットの中にしまい込み、今は改札を通る時だけ顔を出す。最近の夜はこの悪魔に吸われっぱなしだ。 　 　タイトルにあるドラキュラ伯爵だが、吸血鬼ということで鏡に映らないらしい。対面では認識できるが、鏡越しでは太刀打ちできない。 　当時はロンドンより退けたが、現代では、とうに侵略済みではないだろうか。 　今や怪物は、イギリス中にばら撒いた木箱のように、スマホを配った。そこに隠れひそみ、夜中に起きだし、時間を吸って生きている。人間の首筋に二つの噛み跡をつけ、濡れた唾をつけ、それで彼らはストレートネックになっている。 　 「私たち近代人は、つい二元論でジャッジしてしまいがちですが、どちらかを選ばなければならないということはないのかもしれません」 　 　やけに冗長な解説をする。一文〃がクドい。マサカこの解説者、すでに噛まれてるんじゃないのか？ 　文明VS野蛮、善VS悪、科学VS迷信、男性VS女性……乱立する二項対立の背後にそびえる「怪物VS他者」。 　考えることはたくさんある。ペン先がずれ、文字が削れる。インクの破片が紙の上にて寝転がる。はたして乗り越えられるのか、この難題に。 　 　近くの優先席に座っていた女性から着信音がした。乗客は耳に押し付け、いくらか応答する。今は電車内に居りますので、とマナー良く電話を切るかと思ったが、予想に反して比較的な中距離電話。 　世の中、諦めが肝心ってことがある。どちらかを選ばず、留保する。足場が不安定な時に、しなくていい判断、余計な判断をするな。思考が狭まってしまう。 　夕飯の話、家族の話、保険の話と橋渡しをして、電話を切った。その指でTikTokを開き、弾く。一方僕は、二項対立をどう乗り越えるか向き合った。 『名著』に線を引けば、不快なマナー違反とかどうでもいいな、と気にしない自分に気づき、それすら気にしない没頭量。 　対立や分断を意味する「！」から留保を表す「？」に。 　 「！⇔！」→「？」 　 　記号を使ってシンプルに。ネガティブ・ケイパビリティは、これであっているか。