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5-33「或る兄弟の過去」
いつもの七倍ぐらいの文章量です
No side
20年以上前。
〇〇に或る兄弟がいた。
兄は年齢からは想像できないほど身体能力が高く、弟は年齢からは想像できないほど頭脳明晰だった。
その街では知らない者はいないほど裕福な家庭に生まれ、兄弟は両親と四人で平和に過ごしていた。
???「あ・に・さ・ま!」
???「うわっ、と!?」
庭で剣士ごっこをしようとしていた兄の背中に飛び乗った弟。
全く予想していなかった背後からの飛び付きに兄は驚いたが、弟が怪我をしないように綺麗な受け身を取った。
???「ヴィル! 急に飛びついたら危ないだろ!?」
ヴィル「えへへっ、ヤーコプ兄様なら大丈夫なの分かってますから!」
ヤーコプ「……全く」
可愛い奴め、とヤーコプはヴィルの頭をワシャワシャと撫でる。
嫌がっているが本気ではなく、二人は楽しそうに庭に寝転ぶ。
ヴィル「ねぇ、ヤーコプ兄様」
ヤーコプ「何だー?」
ヴィル「兄様は、大人たちの言う通りに国の代表として世界へ旅立つんですか?」
ヤーコプ「……誰だよ、そんなこと言ったやつ」
ヴィル「大人たちです」
よっ、とヤーコプは起き上がる。
ヤーコプ「確かに俺は身体能力が高いし、大人たちの言う通り世界で活躍できるスポーツ選手になれるだろうな」
ヴィル「……。」
ヤーコプ「でも俺はならない!」
ヴィル「……へ?」
ヤーコプ「スポーツ選手ってサッカーとかバスケとか、1種目しか出来ないだろ? トライアスロンとかも興味はあるが……。うん、別に俺はスポーツ選手になりたいわけじゃない!」
ヴィル「え、えぇ……!?」
ヤーコプ「俺は父さんの仕事を継ぐ。長男だからな。お前の方が頭はいいが、家に縛られる必要はない」
ヴィル「……なんかもうツッコミ疲れちゃったよ」
ヴィルも立ち上がり、ガーデンチェアへ腰掛ける。
ヤーコプも向かいに座った。
ヴィル「別に僕の自由とか考えなくていいんだけど」
ヤーコプ「いいや、俺は考えるぞ。お前は綺麗なお嫁さんと結婚して、この街を出ていってもいいんだ。会社のことを背負うのは長男である俺だけで十分」
ヴィル「だーかーら! 僕にも背負わせてって云ってるの分からないかなぁ!? 兄様は莫迦だもんね!?」
ヤーコプ「はぁ!? 俺が莫迦なこと全く関係なかっただろ今!?」
ヴィル「ばーかばーか! 兄様のばーか!」
ヤーコプ「はぁ!? うるせぇよバーカ!」
そんな言い争いをしている二人の背後に忍び寄る影。
彼女はゴツン、と二人の頭へ拳を落とした。
「「いったぁ!?」」
ヤーコプとヴィルの声が重なる。
二人が同時に振り向くと、そこには彼らの母親がいた。
両手を腰に当て、光のない笑みを浮かべている。
「「あ、ごめんなさい」」
思わず二人は声を揃えて謝罪した。
まだ齢10ほどの子供たちが将来について語り、最終的には喧嘩になる。
ヤーコプがどれほど自身のことを想っているのか、ヴィルは理解している。
そしてヴィルがどれほど優しいのかを、ヤーコプは知っている。
それでも喧嘩になってしまうので、いつも仲裁を務めるのは兄弟の母の役割だった。
幼い子供達が将来について語り合う姿は素敵だが、母としては言い争いはあまりして欲しくはないのだろう。
たった2人の兄弟。
仲の良い方がいいに決まっている。
母親「パイが焼けましたよ。2人とも焼きたてが好きでしょう?」
大好きっ、と二人はガーデンチェアから立ち上がって家の中へ入る。
扉を開いた瞬間、パイのいい匂いが二人を包み込む。
「「アップルパイだ!」」
ヴィルは急いでテーブルを拭いて、冷蔵庫から兄弟2人が好きなジュースを取り出す。
ヤーコプは食器棚へ向かい、近くに置いてある紅いブランケットを手に取った。
そして棚扉を開き、三人分のお皿とコップを用意する。
紅いブランケットが食器を持ち、テーブルまで運んだ頃には母親がパイと共にナイフを準備していた。
「「早く♪早く♪」」
ニコニコ笑顔の兄弟を見て、母親も笑みを浮かべる。
パイを切り分け、ヴィルはジュースを注ぐ。
ヤーコプは用意しておいた紅茶をティーカップに入れて母親のパイの隣へ置く。
母親「それじゃあ食べましょうか」
ヴィル「いただきます」
ヤーコプ「母さん、スカーレットにもあげていい?」
母親「勿論いいわよ」
やった、とヤーコプはまた紅いブランケットを手に取る。
ブランケットは形を変え、獣のような姿になった。
そしてパイを一切れ、口元へ持っていくとモグモグと美味しそうに食べている。
母親「どうかしら、スカーレット」
ヤーコプ「母さんのパイが美味しくないわけないだろ!」
ヴィル「そうだそうだ!」
母親「あらあら……全く、この子達ったら……」
少し照れながらも、母親は嬉しそうに笑った。
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20年以上前。
〇〇に或る兄弟がいた。
弟は年齢からは想像できないほど頭脳明晰だった。
兄は高い身体能力と《《不思議な力》》を持っていた。
それは、ずっと共に過ごしてきた赤色のブランケットを変化させる力。
高いところにあるものを取ったり、ハンモックの代わりにしたりと実に子供らしい使い方。
両親も初めてこの力を見た時は驚いたが、怖がりはしなかった。
しかし、隠すようには云う。
息子が差別の対象にされないよう、そして研究者に目をつけられないよう──。
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時は数年経ち、ヴィルが大学を卒業して父親の会社で働き始めた。
先に働き始めていたヤーコプは世代交代の為か、最近は父親に付きっきりで働き詰め。
家族四人が揃うことは、徐々に減っていった。
そんな或る日のこと。
父親の会社は倒産した。
原因は不明だが多額の借金を背負うことに。
しかし返済はすぐに終わった。
ヤーコプ「……ただいま」
父親とは一度別行動することになり、久しぶりに帰宅した。
出迎える声はなく、異常なまでに静かな家。
何かあったのか、と心配になったヤーコプは家を見て回ることに。
そしてリビングのテーブルに置かれた何かを見つけた。
まさか母親が出て行ってしまったのではないかと、冷や汗が流れる。
しかし、それは杞憂に終わる。
別に母親の書き置きではなかったのだ。
だが、それ以上の衝撃を受けることになる。
ヤーコプ「何だよ、これ……ッ」
人工異能の研究資料。
そして、母親と弟が実験台として人身売買されたことを記す資料。
ヤーコプ「嘘、だよな……?」
父親「嘘ではない」
ヒュッ、とヤーコプの喉から音が漏れる。
父親「私達のために母さんとヴィルは、文字通り身体を売って金にしてくれたのだ」
ヤーコプ「な、に云って……」
父親「おかげで借金は消え、余分な金とこの家を売ればまた会社を始められる」
早く荷物をまとめろ。
そう告げた父親の瞳は異常なまでに冷徹だった。
ヤーコプ「……__つき__」
社会では子供の頃のように純粋なままではいられない。
騙し、騙され。
そんな世の中ということをヤーコプは父親の隣で見ていた。
「私達のために母さんとヴィルは、文字通り身体を売って金にしてくれたのだ」
嘘が見える。
社会に出たヤーコプが身につけた中でも一番の力。
ヤーコプ「父さんの嘘つき! 母さんたちがこんな生死が安定していない実験に自分を売るわけがない!」
父親「何を云っているんだ。母さんとヴィルは自分達の意思で──」
ヤーコプ「文字が紅く《嘘をついて》見えるんだよ……! 父さん、俺に嘘が通用しないのは分かってんだろ!!」
平然と嘘を付く父親に、
平然と家族を売るこの男に、
平然と人の命を切り捨てる最低野郎に、ヤーコプはキレた。
父親「──は?」
同時に父親の右腕も飛んだ。
父親「ヤーコプ……! 父親に向かって何をして──!」
ヤーコプ「お前みたいな最低野郎、俺は知らない」
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ある裕福な家庭が住んでいた一軒家。
そこから異臭がすると近所の住人から通報が入り、警察が捜査に。
玄関は空いており、容易に侵入できた警官たちは臭いの強い方へ足を進めた。
辿り着いた先はリビング。
壁も床も天井も真っ赤に染まったリビングだった。
異臭の正体は骨ごと切断された人間だったものであり、鑑定の結果からこの家の主人であり元〇〇会社代表取締役社長であると後に判明した。
──或る調査報告書より
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雨の中、ヤーコプは走っていた。
兎に角ただただひたすらに走り続けた。
赤いブランケットを持ち、スーツのまま傘も差さずに走り続けた。
向かう場所は決まっている。
リビングに置かれていた資料にあった人工異能の研究施設。
そこに母親とヴィルがいる筈だ。
ヤーコプ「ハァ……ハァ……」
父親を斬って、斬って、斬り刻んだというのに罪悪感はない。
そもそも、ヤーコプはあの悪魔のような男をもう“父親”とは認識していなかった。
最低野郎。
死んで当然。
生きていてはいけない。
本人が思っているよりも罪は重いが、全くその意識はなかった。
ヤーコプ「着いた……ッ」
表向きには医薬製品を取り扱っている会社だ。
この地下に人工異能の研究施設はある。
ヤーコプ「待っていてくれ……母さん、ヴィル……」
ジャケットは脱ぎ捨て、赤いブランケットを宙に浮かせる。
まるでドリルのように回転し、研究施設への扉をこじ開けた。
サイレンが鳴り響くも関係ない。
ヤーコプの目的は母と弟。
実験台が必要ということは犠牲者が出ている。
しかも実験に何度も使用され、生きていないことだろう。
その状態になっていないことを願いながら、ヤーコプは全て斬り捨てながらたった2人の家族を探した。
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母親と共に売られ、どれだけの日時が経ったのかヴィルは分からなかった。
ただ、この真っ白な部屋に閉じ込められてから60時間以上は経過している。
その天才的な頭脳で1秒ずつ数えていき、1時間ごとに爪で腕に傷をつけていったのだ。
因みに同室内に母親の姿はある。
現在は眠っているが、目覚めてもブツブツと何かを呟いているだけ。
父親に裏切られたショックからなのか、まともな会話は出来なかった。
ヴィル「──3.2.1.」
カウントダウンをすると、母親の色が消えた。
正確にはモノクロになり、呼吸をしなくなるのだ。
《《コレ》》が自身に与えられた異能と気づくまで、そう時間は掛からなかった。
もしも母親が同室にいなければ気づくことは不可能だった。
“1日に1度、1時間だけ時を止められる能力”。
もしも使用しなければ24時になった瞬間、異能が自動で発動してしまう。
この効果のおかげでヴィルは現在時刻が把握できていた。
時は流れ、22:30になる数秒前。
まだ異能は使用していないので、1時間半すれば時が止まるはず。
ヴィル「……!?」
グラッ、と揺れたかと思えば警告音が鳴り響く。
部屋が紅白に点滅し、少々目が痛い。
ヴィル「兄さんが助けに来た──わけ、ないよな」
無駄な期待はしない。
そうして時を数えながらヴィルは目を閉じた。
???「ヴィル!」
何かが切り刻まれる音と、自身の名前を呼ぶ声が聞こえた。
ヴィルはゆっくりと目を開き、紅白に点滅する部屋の中で瞳がその姿を捉えた。
ヴィル「に、ぃさん……?」
ぶわっ、と涙腺が熱くなるを感じた。
溢れそうになる涙をこらえ、立ち上がろうとするもふらついて床へ倒れ込む。
そんなヴィルを支えたのはヤーコプだった。
ヤーコプ「母さんは……」
ヴィル「其処に──」
母親の場所をヴィルが指差そうとした瞬間、紅い布に視界が遮られた。
布を挟んだ反対側には黒い獣の姿。
???「ガ..エ"ジ.デ....!!」
ノイズが混ざっているような声だったが兄弟は理解した。
これは母の声だ。
咄嗟にヤーコプは守備体制を取ったが、この黒い獣は母なのだ。
母親「ヴィル"ヘルム"....ダケ"..デモ.マモ"ラ"ナ"....イ"ト...!」
ヴィル「母さん! 兄さんが助けに来てくれたんだよ!」
母親「アンダナン...ガ..ニ.ヴィ...ルベルム....バ......ワダザナ..ィ.....!!」
ヤーコプ「……。」
ヴィル「何云ってるんだ母さん!」
ヤーコプ「──いや、もう駄目だ」
気がついてしまったヤーコプは、赤いブランケットで母親を包み込んだ。
母には自身が父に見えている。
容姿が似ているのは、血が繋がっているのたから仕方がない。
放送『自爆装置ガ起動シマシタ。自爆装置ガ起動シマシタ。後10分デ当施設ハ完全ニ破壊サレマス』
そんなアナウンスと共に警告音はさらに騒がしくなった。
ヤーコプは出会った全員を殺してきた。
ここに研究員はもういない。
残っているのはヤーコプにヴィルに、母親のみ。
死ぬつもりはないが、この状態の母親を連れての脱出は困難極まりない。
ヴィル「僕が異能で兄さんも母さんも外に運ぶ。だから──!」
ヤーコプ「……よく見ろ、ヴィル」
ヴィル「見るって何…を……!」
ヴィルは気がついていなかった。
母親に繋がっている無数の管。
普通に考えて外していいわけがない。
ヴィル「そ、んな……」
ヤーコプ「ヴィル、恨んでくれ。俺はお前だけでも助けたいんだ」
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政府もこの人工異能研究所には関わっていたらしく、研究自体は揉み消された。
たくさん上がった死体は全てヤーコプ・グリムの被害者とされ、彼の名は大量殺人犯として世界に名を轟かせることになった。
異能力者であることが伏せられたせいか、ナイフ一本で骨まで綺麗に切断したり研究所にロケランをぶっ込んだなど根拠もない噂ばかりが大きくなっていく。
実験台の中でもヴィルヘルム・グリムの死体だけは上がっておらず、行方不明者として国で扱われることになった。
──或る調査報告書より
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囚人1「知ってるか? この国、戦争で英国に降参したらしいぜ」
囚人2「マジかよぉ。英国とかミスを一つでもしたら死刑執行してきそうじゃね?」
囚人1「それな。こんなことなら万引きなんてしなけりゃ良かった」
囚人2「俺も痴漢なんてしなきゃ良かった」
囚人1「お前とか死刑判決でてるし、英国がこの国を取り込んだ瞬間に死刑執行されそうだよな」
???「そうかもしれないな」
囚人2「お前冷静だなぁ」
???「泣き喚いたほうがよかったか?」
囚人2「いや、お前らしいからそのままでいてくれ」
囚人1「逆に泣き喚いたりしたほうが反応に困るっつーの」
???「そうか」
囚人2「そういやずっと気になってたんだけどさ、お前って本当に大量殺人犯なのか?」
???「……唐突だな」
囚人2「死刑を受け入れてるし、弁護士とかつけなかったんだろ? 大量殺人する奴にも見えねぇし」
囚人1「お前の方が人殺しみてぇな顔してるよな」
囚人2「お? 喧嘩か?」
囚人1「キャーコワーイ」
囚人2「たくっ……手前の女子のマネとか下手すぎんだよ!」
囚人1「テヘペロ」
囚人2「キッツ……」
囚人1「あ゛?」
囚人2「いや、中年男性が『テヘペロ』なんてやるもんじゃねぇよ。なぁ、ヤーコプ」
ヤーコプ「……あぁ、そうだな」
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???「──ということでこの戦争は異能力が大切になってくると思います」
老人「しかし囚人を牢から出すのは……」
???「今必要なのは異能者です。欧州各国で超越者と呼ばれている異能者も出てきています。英国が、欧州が勝つためには使えるものは全て使うべきです」
老人「……最年少でこの地位まで上がってきた頭脳明晰な君がそこまで云うなら、どうにか話を通してみよう」
???「っ、ありがとうございます!」
老人「あぁ、そうだ。先日〇〇という国が降参して英国になることになったのだが──」
???「私情を挟んでいないと云えば、嘘になります。ですが私は貴方に拾って頂いた恩を仇で返すつもりはありません」
老人「……君のそういう所が私は好きなんだ。これからも頑張り給え、ヴィルヘルム君」
ヴィルヘルム「──はい」
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研究所爆破から数分後。
遠くからサイレンの音が近づいてくる。
ヴィル「……ッ…」
爆発に少し巻き込まれたものの、ヴィルは軽傷で済んでいた。
対してヤーコプは弟を守ることを優先したからか、身体のあちこちから血が流れている。
すぐに死にはしないが、駆けつけた警察が救急を呼んだりと対応してくれなければ中々厳しい状態だ。
ヴィル「っ、兄さん!」
ヤーコプ「頭に響くから大声を出さないでくれ……」
ふぅ、とヤーコプは深く息を吐いた。
ヤーコプ「人工異能が成功した例は、まだない。お前の存在がバレればこの国はまた秘密裏に同じような研究所を作って、異能者だらけになる」
だから、と震える手で優しくヤーコプは抱きしめた。
唐突なことにヴィルは反応できない。
ヤーコプ「ヴィル……いや、ヴィルヘルム。俺とお前はここでお別れだ。生きて、必死に生きて、年寄りになってから天国に行け」
ヴィルヘルム「ヤーコプ兄さん、嫌だよ、僕、貴方を置いてなんか、っ」
ヤーコプ「お前は頭が良いから大丈夫だ。英国にでも逃げて、軍人に拾われて上手くやれ。お前は見た目がガキだから、戦争孤児として誤魔化せる」
その時、ヴィルヘルムは思いついた。
英国でヤーコプの言う通りに軍人になる。
そして上手くではなく、上を目指して戦果を上げていく。
そのままこの国を英国にできれば──。
ヴィルヘルム「……死んだら許さないから」
ヤーコプ「……。」
ヴィルヘルム「またね、ヤーコプ兄さん」
雨のせいか、体温が下がるのが早い。
ヴィルヘルムは異能を使い、走った。
1時間で何処まで行けるかなんて分からない。
ただ、自分が思いついた普通なら夢物語で終わるこの考えを現実にするため、彼は走り続けた。
国境を越え、
数多もの戦場を越え、
屍の山を越え、
辿り着いたのは今も座っている英国軍上層部の席。
自らの意思で異能を使うことは英国に辿り着いたその日から一度もなかった。
あの日を思い出してしまうから──。