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優等生は橋を渡らない
2025/09/16
私は優等生である。
「そういうの好きじゃない。優等生とか、考えただけで虫唾が走るね。」クラスメイトの綾凪さんは、進級したてのころに私に向かってそう言い放ってきたけれど、少なくとも綾凪さんみたいな劣等生(と言っても彼女の成績は知らないが)、不良、校則違反ばかりの人間よりかはずっといいだろう。品行方正、努力家でテストでは基本いつも学年5位以内、かと言って孤立しているわけでもない。そんな私のどこをみて、綾凪さんは「好きじゃない」と言ったのかなんて考えてもわからない。所詮は努力も知らない人間の言うことなのだ。そこに労力を費やしても無駄でしかないのだろう。今日も私は学校に行って、優等生として生きる。
教室で友人と談笑していると、教室のドアが乱暴な音を立て開いた。私が反射的にそちらを見ると、クラスメイトの綾凪さんが不機嫌そうな表情で教室に入ってきて、ずかずかと自身の席に歩いていた。友人の口からため息にも似た声がこぼれた。「綾凪さんっていつも不機嫌だよねー…。」「ね。でも物に当たるのはやめてほしいよ本当。」小声で言葉を交わす。どかっと椅子に腰を下ろしスマホをいじり出す綾凪さんの眉間には、深い皺が刻まれていた。ちなみに綾凪さんの席は真ん中の列の1番後ろだ。他の生徒の学習に影響を及ぼさないように、だが先生からはしっかりと彼女の様子が伺えるように、なんてことを考えてあの席にしたのだろうか。腫れ物を扱うように。
放課後、私が1人で家に向かって歩いていると、綾凪さんの姿を見かけた。思わず、うわっと顔をしかめる。彼女の方は私の存在に気づいていないようだ。土手に架けられた橋で、ぼうっと下を流れる川を眺めていた。黄昏てるのか、あんな自然や生命の輝きなんて微塵も感じてなさそうな彼女が?なんとなく、歩く速度が落ちていた。ちらちらと綾凪さんの様子を伺っていると、突然、川に落ちた。綾凪さんがだ。通学カバンを放り投げて橋から飛び降りた。この橋と川は自殺に使えるほどの高さも深さもない。それに綾凪さんが自ら死を選ぶなんて想像ができなかった。無論、私は彼女のことなど何も知らないけれど。困惑しつつ、橋から下をのぞいた。水は透き通っていて、綾凪さんの姿が容易に見えた。泳いでいるようで、溺れているわけではなさそうだ。やがて彼女は土手に上がった。何かを抱えながら。びしょ濡れになって、通学カバンの回収のためだろう、こちらにやってくる綾凪さんに、私は思わず声をかけた。
「なにやってるの。」綾凪さんは重そうな前髪をかきあげ、私を睨むように見た。
「見たらわかるでしょ?この猫が溺れてたんだよ。」
彼女は小さな黒い猫を抱えていた。意外だと思った。「なに?意外なわけ?」顔に出てしまっていたようだ。私は慌てて首を横に振った。「いや、そんなんじゃ。」なんだか気まずくなってしまったので、話題を変えようと口を開いた。
「猫、どうするの。綾凪さんもびしょ濡れだし。」
「……。」
「このまま猫を置いていったら凍えちゃうんじゃない。」今は11月だ。ひんやりと肌寒くなってきた頃。弱々しく、水に濡れた子猫を置いておくのは良心が痛む。綾凪さんもどうやら同じことを考えているらしく、水の滴る子猫をじっと見つめる。
「うち来る。」
思わずそう言っていた。疑問系のはずなのに、文字にすれば疑問符がつかなくなるような言い方だった。綾凪さんは目を見開いた。「すぐ近くにあるし。」
そういうわけで、綾凪さんがうちに来た。親は共働きで夜になるまで帰らないのでちょうどいい。猫はタオルで拭き、綾凪さんはシャワーを浴びている真っ最中である。制服も同じくびしょ濡れだが、それは適当にハンガーにかけてもらって乾かしている。数分して、綾凪さんが私の中学時代のジャージを着てリビングにやってきた。紙は濡れたままで、タオルを肩にかけていた。「借りた。ありがと。」やはり不機嫌そうな顔をして、いや、バツが悪そうな顔、というべきか。そんな顔で彼女は言った。私の膝の上に乗っている猫を見て、少しだけ目を細めた。
「猫は?」
「まだ湿ってるけど、だいぶ乾いた方。」
綾凪さんはこちらに近寄ってきて腰を下ろした。一瞬躊躇ったように見えたが、猫の頭に触れ、優しい指使いで撫でた。「猫、好きなの。」私が訊くと、彼女は別にとだけ答えた。けれども、猫を撫でる指先はやはり優しく、どこまでも深い愛情に満ちているように思えた。猫が私の膝からずり落ちそうになると、彼女はすぐに直す。その手つきはやけに慣れていた。
「飼ってるの?猫。」
「いや。」
「その割には慣れてるね。」
「前飼ってた。」綾凪さんは自嘲気味に笑った。「でも母親に捨てられたよ。」その言葉に、数秒息が止まった。沈黙が場を支配して、私はどうにかこの空気を変えようと口を開いた。
「この猫、どうするの?」
綾凪さんは自身の頭をかいた。どうするつもりなのかは考えていないようだった。今の話の限り、綾凪さんの家で飼うのは難しそうだが、その上で、彼女が始めた物語なのである。彼女が責任を取るべきだろう。そこまで思考を巡らせて、ハッと思い出す。うちの両親、特に母親は大の猫好きであったと。私自身はそれほどでもないが、母親なら猫大歓迎というところだろう。もちろん、猫の寿命は長いし飼い主としての責任も伴う。相談してダメなら里親探ししかない。「うちで飼えるかも。ダメなら里親。」綾凪さんは目を瞬かせた後、ぶっきらぼうな口調でありがとうと言った。
しばらく無言で猫を撫で続けていた綾凪さんは、やがてヨッコラセと立ち上がった。「帰るわ。制服に着替えてくる。」「え、まだ乾いてないだろうし、制服は袋に入れて、その服着て帰ったら?あげるよ。」「いやいらんよ。」微妙な気持ちになりながら、綾凪さんが自身の肩にかけてあるタオルを畳むのを眺めた。タオルの端がきちんと整うように、丁寧に折っていた。
制服に着替え、玄関で靴を履く綾凪さんに私は訊ねた。「そういえば、なんで綾凪さんは優等生が嫌いなの。」ずっと気になっていたけれど、訊いて気まずい空気になったり、私自身が傷ついたりするのが怖くて口に出せなかったことだった。綾凪さんは立ち上がってこちらを見た。そして言った。
「大人の言いなりになってばっかだったら、いつか自分を見失うでしょ。」
彼女は鍵を外し、ドアを開けた。「じゃーね。色々ありがと。」バタンと、以外にも大きな音を立ててそれは閉まった。綾凪さんが帰ってしまったことに対してなのか、猫がにゃーと鳴いた。