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生臭い夏
2025/08/14
「ママ、どこにいくの?」
スーツを着たママは返事をしなかった。ただ、ちらっと私に視線をやっただけだった。あの瞳に滲んでいたものは、多分、哀れみだった。
私のママは、私が3歳の頃に家、というかアパートの部屋を出ていった。ママって呼んでるけど、私が2歳になるちょっと前に家に来たから、本当のママではない。パパが突然いなくなって、しばらく私と暮らしていたけど、結局捨てた。今考えれば、耐えきれなくなったんだろうとわかる。自分がお腹を痛めて生んだわけでもない子を世話するのは、精神的にも肉体的にも大変だったはずだ。
でも当時3歳の私に、そんなことが理解できるはずもない。パパもママもいなくなって、アパートの一室で、蒸し暑い8月、暑いけどどうしたら良いのかすら分からなくて、ただ汗を垂れ流すだけ。お水が飲みたくても、身長が足りないせいで蛇口を捻ることすらできない。生臭い部屋で、私は生きるために自分の唾を飲み込んで、汗を舐めた。汗は塩辛かった。涙が出てきた。それも舐めた、やっぱり、塩辛かった。そんなふうにしていてもやがて視界がぼやぼやしてきて、意識も薄くなってきて、死ぬのかもなと思った。
そんな時、急にドアが開いて、年老いた女の人が入ってきた。私を見つけると焦ったように何か言ってたけど、よく分からなかった。
意識が途切れた。
1番に目に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。年老いた女の人がそばに座っていた。私と目が合うと、一瞬驚いた顔をして、すぐにどこかに行った。しばらくすると真っ白な服を着た大人が数人やってきた。
ここは病院だと知った。病院というのもが何か私には分からなかった。「体の悪いところを治す場所」だと教えてもらった。私は熱中症でここに運ばれてきたと言われた。
年老いた女の人は私が住んでいるアパートの大家さんで、大きな荷物を持ってアパートを出て行った私のママの姿を見て違和感を抱き、様子を見にきたらしい。大家さんっていう言葉は知ってる。よくママとパパが言っていた。「大家がまた金取りに来る。」って。だから、大家さんは私たちから大事なものを奪い取る悪い人だと思ってたけど、それはどうやら違うかったみたいだ。
私はそのまま、1週間ほど病院で過ごした。病院のみんなは優しかったし、ご飯もたくさん食べれたし、楽しかった。退院したあと、大家さんと暮らすことになった。大家さんはシワだらけの顔をしていて、ママみたいに綺麗じゃなかったけど、ママよりずっと優しかった。
幼稚園にも通えた。5歳になった時、小学校で使うためのランドセルを買ってもらった。真っ赤なランドセル。今の私には大きかった。
中学生になった。勉強に、部活に、人間関係に。一気に忙しくなって家に帰るのが遅くなった。だからそれに気づくのが遅れた。その日は記録的な猛暑日だった。夜7時でも暑くてたまらなかった。制服が背中に張り付いているのが分かった。早く帰ってお風呂に入ろうと、自然と歩く足が早くなっていた。
やっとアパートについて、ふぅとため息をつきながら部屋のドアを開けた。異様に暑い空気が私を包み込んだ。生臭い匂いが鼻を刺激した。唐突に思い出した、あの日のことを。ママが出て行って、蒸し暑くて、変な匂いがしていた。乱雑に靴を脱いだ。重いカバンを放り投げた。悪い予感がした。
リビングに人が倒れていた。大家さんだった。
声をかけても、返事はなかった。動くことすらなかった。その指先は冷たかった。部屋はこんなに暑いのに。
汗が、私の体中に浮き上がっていた。私の目から塩辛い汗が落ちた。
暑くて、暑くて、暑くて、暑くて。
とにかく暑くてたまらない日のことだった。