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眼宙
正午。
何となしに眠気を誘う抜けるような青空の下、風景は気味の悪いほど静止していた。
薄く砂埃が覆った黄色い地面、
雄大でありながらどこか恐ろしいような入道雲、
じりじりと陽に焼かれる屋根瓦、
その全てが沈黙し、ひたすらに静止していた。
そしてまた路地にも、竹藪にも、小路にも、不気味に誰も居なかった。
子猫の一匹も鳴かず、犬の吠え声も聞こえない。
すべてが写真の中に、ぴたりと貼り付けられたようだった。
一瞬間助走のような間を置いて、
空に大量の眼球が出現した。
眼球はてらてらとぬめり、滑らかに陽射しを反射する。瞬きの間に増えていく。
入道雲を見下ろす眼球、また眼球。
晴天にみっちりと眼球が浮かび上がったその風景は異様だった。
しかし、目撃した者は誰も居なかった。
「…ーー様、ー寧様」
「心寧様、心寧様!」
「…あ…はい、何でしょう?」
語気を強めて呼ばれた自分の名前に、本を読んでいた少女は顔を上げた。
「何度もお呼びしましたよ。昼餉のご用意が出来ましたからと」
「ああ…すいません、つい読書に夢中になっていて」
少女が微笑むと、端正な顔立ちにふわりと瑞々しい色香が漂った。艶やかな黒髪が着物に垂れ、繊細な指は開いた本を軽く押さえている。
大層美しい少女である。
少女の笑みを見た中年の女性は、やれやれと言うようにいからせていた肩を落とした。彼女は少女の世話役のはるで、少女が赤ん坊の頃からこの家に、そしてこの少女に仕えている。
少女の名は羽二重心寧。
この辺り一帯に広く土地を持つ金満家である羽二重の長女で、十八という若さでありながら当主を務めていた。
「じゃあ、お昼にしましょうか。お腹空いちゃった」
当主という重い肩書きはあるものの、彼女自身は、読書好きでおっとりしたごく普通の少女である。はるはそれをよく知っていた。
羽二重家では、食事は炊事場に近い和室でとることになっている。
心寧が和室への道のりを長い廊下づたいに歩いていると、奥の炊事場からひそひそと声が漏れてきた。下女たちの話し声だ。
「ーー」
「ーーー」
「ーー…そもそも何で心寧様だったのよ。女のくせしてさ」
「女がそんなこというもんじゃないわよ」
「まぁ、そこは色々あったみたいだから。仕方ない」
「でも珍しいわよね、ふつう長男が継ぐものなのに」
「ねぇ、私てっきり蘭世様が継ぐものと…」
ああ、またか、と心寧は僅かに眉を下げた。
こういった話を聞いてしまうのは今回が初めてではない。家に居れば、聞きたくなくても耳に入ってきてしまうことだった。
それに彼女たちの言うことも真っ当だしな、と彼女は考える。
心寧にはふたつ年上の蘭世という兄が居て、誰もが彼が跡を継ぐのだと信じて疑わなかった。
ところが蘭世はその穏やかな性格からーーあえて言葉を選ばないのなら気弱とも言える性質から、跡取りになることを控えめに辞退した。
子供たちをよく見ていた先代、即ち心寧たちの父には先見の明があったのか、彼は予め遺言を残していた。もしも蘭世が跡を継がなければ、心寧に継がせよと。
そういうわけで心寧に役が回ってきたのである。
(私だって兄様が継ぐものだと思っていたのよ)
内心そう主張しながら、心寧は歩調を早めた。
聞きたくない噂話に態々耳を傾けているほど暇ではない。言いたい者には言わせておけ、と父も言っていた。
それより今日の昼餉は何か知らん、と考えながら、若き当主は廊下を歩いていった。