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祈り
晴瀬です。
単語シリーズのいつものより重くない、はず。
死にたいという友達を生かしてほしいと祈る少年の話です。
病室のドアを開ける。
「チヒロ」
自分の友達を呼ぶ声が、決して広くはない病室に響く。
その声を聴いて、チヒロ、と呼ばれた少年は微笑んだ。
その少年は1ヶ月前、持病で倒れそれから今までここで暮らしている。
自分が永くないことも、分かっていた。
今入ってきた少年はルイトといった。
ルイトは一人で病室に入る。
いつものことだった。
「おう、チヒロ元気か?」
笑顔でそう聞かれたチヒロは「元気だよ」とそれは嬉しそうに笑った。
元気なわけないと、チヒロも、ルイトすらも理解していた。
それでも受け入れたくなかったのは2人とも同じだったのだろう。
「いつ、げん―、帰ってこれそ?」
少年は「いつ元気になれる?」という問いを呑み込みいつ学校に戻れるか聞いた。
「元気?」「元気だよ」
そんな会話をしたばかりだったから。
ベットの上に座るチヒロを見て、ルイトは笑った。
優しい、笑顔だった。
「そうだなぁ、また戻れるよ」
チヒロは感情に|塗《まみ》れてしまわぬよう無理矢理にでも笑って答えた。
ルイトに、ルイトにはトレードマークの笑顔を絶やさないでほしかった。
「そっかー。じゃあ戻ってきたら、また遊ぼうな!」
チヒロは笑った。
泣き笑いにも見える笑顔だった。
幾つか会話を交わした。
何事もない、毎日を語り合った。
突然、黙ってチヒロがルイトの目を見た。
ルイトもその目を見つめ返した。
「別に僕は、嫌じゃない」
暫く見つめ合っているとチヒロが突然言った。
「何を、何が?」
ルイトは困惑したように顔を顰めた。
何が言いたいのか、分かっているのに見たくなかった。
「死ぬの」
さらりとチヒロは笑った。
「僕死ぬの嫌じゃない」
ルイトは眉を歪めた。
何を言い出す、と声に出そうとするもチヒロの声に咎められる。
「でも不安なんだ」
ルイトは黙っていた。
「ルイトが、皆をまとめられるかさ」
ルイトはこの春からクラスで学級委員長を務めていた。
チヒロは副学級委員長だった。
「それよりお前はお前の心配をしろ…」
「ルイトは、心配すると僕のことをお前と呼ぶ。
ルイトは嘘を吐くのが下手。
優しくて正直だから。
1ヶ月前に僕の病気がまた暴れだした。」
ルイトの口を塞ぐようにチヒロの口から言葉が飛び出ていく。
開いた窓から風が吹き込んだ。
2人の髪が揺れる。
その風につられるようにチヒロは小さく笑った。
「僕、すっごい幸せだった」
「だった、って――」
「もういい」
「もういいんだ。全部分かってるし、無駄な抵抗、する気もない」
チヒロは笑顔を崩さない。
その笑顔は、強い意思を表していた。
「これからも、ぜってえ幸せにしてやるから。
黙って治してろよ」
チヒロは静かに笑った。
家に帰ると、ルイトはすぐさま布団に飛び込んだ。
眠くて堪らなかった。
その日は夕方までチヒロのもとにいて喋り尽くしたのである。
その話をチヒロは嬉しそうに、そしてどこか寂しそうに聞いていた。
最後にルイトは躊躇いがちに言った。
「音楽会、絶対来いよ」
「……何日だっけ?」
少し間が空いて、チヒロはルイトの顔をベットから見上げた。
「……2ヶ月後」
またルイトも少し間が空いてから口を開いた。
「そっ、か」
チヒロは小さく呟いてからルイトの方へ向き直る。
「行けると思う。僕、頑張るから」
「こっちも頑張る。お前は、うん、とにかく頑張れ」
ルイトはその夜夢を見た。
真っ暗な空間で、真赤な瞳が2つこちらを覗き込んでいた。
ルイトはその雰囲気に圧され膝から崩れ落ちる。
恐怖。
「嫌だ」
辺りが少しだけ明るくなり真赤な目の主の全貌が露わになる。
悪魔だと思った。
よく映画やドラマや本などで見る悪魔そのまま。
大きくそして真赤な口を裂けるばかりに釣り上げて愉快そうに悪魔は言った。
「お前の願いを1つだけ叶えてやろう」
「え?」
「但し、代償はある。解るだろう?」
辺りは静寂に包まれていた。
あまりの音のなさに耳が痛んだ。
「俺、友達の病気を治してほしい。
友達、|茅洋《ちひろ》っていうんだ。
病気、治らないかもしれない。だから、俺の命を犠牲にしていいから、そいつの病気治してほしい。お願い。
お願いです。」
饒舌に口が動いた。
真っ暗な空間に、ルイトの声が大きく|鼓弾《こだま》した。
「祈るんだ。毎日、祈るんだ。願いが叶うように」
息の音がしない、悪魔の声が少年の耳に響いた。
「祈る…」
ルイトはその言葉を復唱した。
何度も。
寝返りを打った拍子に壁にぶつけた頭の痛みで目が覚めた。
夢だった。
すべて夢だった。
それでもやけに、あの血のように真赤な目を、真赤な口を鮮明に覚えていた。
ルイトはその朝から毎日、朝起きて、昼ご飯を食べる前、夜ご飯を食べる前、夜寝る前、祈るようになった。
あの悪魔を、疑うくらいなら信じて僅かな可能性に賭けてみたかった。
神でも仏でも悪魔でもいい。
チヒロの病気が治るならそれでよかったのだ。
そんな夢を見てから1週間、ルイトの学校では音楽会の練習が本格的に始まる頃だった。
「な、なんででしょう」
チヒロの主治医がパソコンの画面を見ながら驚きの声を上げる。ここは病院。
医師は、だいぶ噛み砕いてチヒロの母親と父親に言った。
病巣が少し、小さくなっていると。
チヒロはまた病室に遊びに来たルイトに言った。
「僕の病気、ちょっとずつ治ってきたんだって」
ルイトの脳裏にあの赤が浮かぶ。
眩しいほどの鮮やかな赤。
悪魔の瞳だった。
悪魔の、言う通りだ。
祈ったから。きっと、祈ったから。
ルイトはとても喜んだ。
本気で、叶ったと思った。信じてよかった。
良かった、と安堵した。
もっと祈れば、きっと病気が完治する、今日のチヒロの笑顔を思い浮かべながら考える。
俺が死んだって、チヒロが生きるならそれでいいと。
そして祈った。
時は過ぎ、それから3週間後。
「ルイト?」
チヒロがルイトの名を呼んだ。
今ルイトは、昼ご飯前の祈りの真っ最中だった。
今日は2人でお昼を食べようとルイトはお弁当を持ってきていた。
ルイトが組み合わせていた手を解き態勢を楽にしたところでチヒロはまた呼んだ。
「ルイト?何してたの?」
「んー」
「この前、夢見てさ。悪魔、出てきて。
願い叶えてやるって言うからチヒロの病気が治るようにお願いしたんだ。
その代わりに俺が死んでもいいからって…」
ルイトは途中で口を|噤《つぐ》む。
要らないことを言ってしまった。
「………、」
チヒロは長く黙り、そして息を吸った。
『その代わりに俺が死んでもいいからって』
自分を犠牲にして、自分を生かそうとしていたことに気付いたから。
複雑な心境だった。
「…や、でも夢でしょ?悪魔でしょ?そんな、嘘だよ。
それに僕を生かすためにルイトが死ぬ必要ない。
僕も死ぬ覚悟できてっし」
焦り、そして怖かった。自分ではなくルイトが死んでしまうのが怖かった。
強がり、チヒロはそう言った。
チヒロは笑って、しっかりしろ、とルイトの背中を叩く。
その力は、悲しいほど弱かった。
悪魔だ。悪魔なら裏切りどちらも死んでしまうかもしれない。
チヒロはそう思う。
「でも…」
ルイトがチヒロの顔を再び見る。
「でも、万一のことを考えてそれはやめて。
もし本当に僕が治ってルイトが…なんてことになったら絶対駄目。
僕は死ぬの。死んでしまうから」
ルイトはベットの上の弱ったチヒロを見て顔を顰めた。
出来るなら、自分も、チヒロの病気も治ってほしかった。
自分と友達、大事な順番がつけられるものではない。
「だからもう、祈るのはやめてね」
「なんで、」
とルイトから言葉が口を憑いて出た。
「俺だって死んだっていい。チヒロが生きるならさ。
それに皆をまとめられるってチヒロの方が上手いし」
「そういう問題じゃなくて。だってちょっと治ってきてるって、言ったじゃん」
「それは、俺が、祈ったからでしょ?」
ハッ、とチヒロは口を閉じた。
祈ってたから?祈ってたから、僕の病気が治りかけた?
「…チヒロ、チヒロは生きるべきだから」
ルイトは苦しげに言葉を絞り出した。
ルイトが、もしこのまま祈り続けたら本当に願い通りになる。
ルイトは死んで自分は生きることができる。
そう思う。
嫌だと思う。
凄く、|途轍《とてつ》もなく、嫌だ。
僕はもう、死んでしまいたい。
苦しい。苦しい。苦しいのだ。
苦い薬も、味がしない食事も、簡単には動けないこの生活も、友達とも遊べない時間も、すべてが嫌だ。
もう、死んでしまいたい。
楽になりたい。
死んでしまいたいんだ、|瘰飛《るいと》
分かってくれ。
チヒロは黙って微笑んだ。薄く、小さく、微笑んだ。
「ルイト、ルイトは死んじゃいけない。ルイトこそ必要とされてるし、僕はもういいから」
死にたい、とチヒロは一言も言わない。
ルイトに知られたくない。
ルイトには、いつも落ち着いた静かな子だと認識されていたい。
「ねえ、チヒロ」
ああ、やっと分かってくれるか、瘰飛。
「チヒロ、何隠してる?」
え……、と声が漏れる。
「チヒロなんか隠してるよね?」
初めてだった。ルイトが鋭いこと言うなんて。
鈍かったじゃないか。鈍感だったじゃないか。
なんで、そんな。
「隠、してない、よ」
息を吸うのが、不自然になった。
少し目が乾いて、赤くなっている気がする。
ドライアイで、目が潤んでいる気がする。
「チヒロ、泣いてる?」
やっぱりルイトはこれだ。
これが一番なんだ。
本当に、"察し"ができない奴なんだから。
「でも絶対、隠してるよね?何か。何考えてるの?何を思ってんの?
教えてよ。分かんないから。隠し事されて死ぬのはさすがの俺でもやだ」
ルイトは一息で勢いよくそう言った。
チヒロの目を見る。
はあ、と溜息を吐いた。
「死んでもいい、じゃなくて、死にたい。
薬も苦いし、ご飯も不味い。簡単には動けないし誰とも遊べない。話し相手って言ったら時々体温測りに来る看護師さんとか、親とか、ルイトとか」
ルイトは黙っている。
考えるように瞳孔が動いている。
「楽しく、ないよ。元気にならないよ。
元気になってね、そう言われるたび苦しいんだよ。元気になりたくないって、このまま死にたいって思う自分がいて。
やだよ。もう、しにたい。しなせてくれよ」
最後は、言葉を、声を絞り出していた。
チヒロの口から嗚咽が漏れる。
治りたい、と願う時期があった。
元気になりたい、と祈る時期があった。
でもそれも、すべて幻想だ。幻だ。
「ルイトは、違うんだよ。僕とはさ、境遇も性格も、個性も、出来ることも、全部、全部。
体の強さだって違う、顔も違う、ねえ、運動できるのはどっち?皆を笑わせられるのは?
ルイトだろ。
ルイトなんだよ。神様はさ、僕じゃなくてルイトを選んだんだよ。
神は僕を見捨てたんだよ。
ねえ、お願い、分かってよ。このまま死んじゃいたいんだ。
楽に、なりたい」
何度拭えど頬に流れる涙を堪えながら途切れながら言う。
「神様は、ルイトを選んだ?」
ルイトがチヒロの言葉を繰り返した。
チヒロが俯いていた顔をあげる。
ルイトが、チヒロの瞳を見ていた。
「…………」
チヒロは黙っていた。
親指の付け根辺りで頬を拭う。
「悪魔はお前を選ぶかもしれない」
チヒロのすべての動きが止まる。
ルイトは、やる気だ。まだ、祈る気だ。
「神が見捨てても、悪魔は見捨てないかもしれない。
悪魔も、見捨てるかもしれない。
でも俺はさ、お前を見捨てたくないんだよ」
自分の、目に溜まった涙が落ちた。
真っ白で清潔なシーツにシミを作る。
「俺は、見捨てたくない。
俺は、見捨てない」
「もし、俺が…そうなっても恨まないで。
茅洋には、笑っててほしいから」
ルイトの目の端に浮かぶ涙が見えた。
「……瘰飛」
そう名前を呼ぶ声は掠れていた。
「ごめん」
ルイトは最後まで優しい声だった。
優しい顔だった。
優しい言葉だった。
優しい口調だった。
死にたいと言うチヒロに何も言わず、ただ見捨てたくないと言った。
感極まって、色んな感情が|綯《な》い交ぜになって、ルイトがいなくなった部屋でただ独りで泣いた。
声が漏れる口を白い布団に押し当て音を殺した。
いつの間にか、朝になっていた。
目が腫れているのを感じて、小さく溜息を吐く。
なんて、言い訳をしようかと考える。
はあ、とまた先程より大きく溜息を吐いた。
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あれから、5ヶ月だった。
ルイトは毎日病室に訪れた。
あの日に触れるような会話を避けていた。
「音楽会…残念だったな」
ルイトは時々そうチヒロに言う。
音楽会に参加、見れなかったことをチヒロよりもルイトが悲しんでいた。
ルイトはいつも笑顔だった。
トレードマークの笑顔を崩さずにチヒロに笑い掛ける。
チヒロもまた微笑みながら笑い返す。
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それから、1ヶ月。
「瘰飛?」
茅洋は小さな声で呟く。
その声に、応える者はもういない。
「瘰飛?」
式場は騒然とする。
茅洋は呼ばれていなかった。
パニックになってしまう、とあの会話をこっそりと聞いていた茅洋の母親が考慮したためだった。
まさか、誰も本当だとは思わなかっただろう。
茅洋は椅子と椅子の間を歩く。
「瘰飛」
|譫言《うわごと》のように何度も彼の名を呟きながら近付く。
彼は静かだった。
寝ている、と茅洋は思う。
彼の遠い親族が茅洋に対し「この子は誰だ」と叫ぶ。
茅洋を知る者も、誰も声を上げない。
茅洋の行動を見詰めていた。
息が詰まる想いだった。
「瘰飛、起きて」
静かな、この部屋に茅洋の少し高い声が響く。
顔元の小さな窓を開けて、茅洋はその中に手を入れ瘰飛の頬を触る。
まるで小さな子供のように動いていた茅洋は小さく息を吐いた。
「ふ…」
少年の息の音が、飛ぶ。
「ばか」
「瘰飛、ばかだ。」
途切れながら続く言葉に部屋中の人が耳を傾けた。
時折|洟《はな》を啜る音が聞こえた。
「僕さ、歩ける足、いらない。
命、いらない。
美味しい料理、いらない。
みんなと遊べる、時間、いらない。
苦い薬、飲む。
だから、だからさ、瘰飛、戻ってきてよ。
僕のために、もう、何もしないで。
瘰飛、なんで死んだんだよ」
真黒い棺桶の前で崩れた茅洋を誰も咎めない。
茅洋は叫ぶ。
そして知る。
瘰飛の想いを、考えを。
そして気付く。
自分が、これからどうすべきか。
「瘰飛、瘰飛…」
茅洋の声に力はない。
「なんで、祈った、んだよ」
ばか、と声に出そうとするも声にならない。
『死にたい人に、生きてほしいって言っちゃダメだと思ってた。
でも時折茅洋は窓見てるんだよ。
病院の中庭を。
そこではさ、小さい子が元気に走り回ってるんだよ。
楽しそうに。
それを茅洋はいつも羨ましそうに見てた。
いつか、いつか、自分もって、思ってたでしょ。
一緒に遊ぶ約束したのに…ごめん。
茅洋にはいつも笑っててほしいから。
トレードマークの笑顔を、絶やさずに生きてほしいから。
これは俺の、最期のお願いだからさ』
茅洋は空を仰ぐ。
そこには何もない。空間が、広がっているだけだった。
瘰飛みたいな友達がいたという事実だけで生きていけるような気がした。
生活にハンデもない。
今、幸せなのだと思う。
今、幸せだと思えない自分がいることも、分かっていた。
ポケットから小さな封筒を出す。
そこには手紙が入っていた。
棺桶に入れると、茅洋は頬を拭った。
あの日のように、零れる涙を堪えた。
「瘰飛、大好きだった。今まで、ありがとう。
あっちで、読んでね。手紙書いたから。
あと、60年くらいしたら僕もいくから、待っててよ。
瘰飛の分も生きてみるから」
泣いて赤くなった目を、少し手で覆いそれから茅洋は笑った。
引き攣った笑いではあった。
それでもあの日のように、優しく笑顔を作った。
瘰飛が笑う、気配がした。
中途半端なハッピーエンド