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第10話:パパバカの予兆、笑い声の響く家
温泉旅行から戻った禪院家の門をくぐった瞬間から、空気は一変していた。
車から降りる際、直哉様が当たり前のように私の腰を抱き寄せ、段差では「危ないやろ、どんくさいねんから」と毒づきながらも、まるでお姫様を扱うように過保護にエスコートする。
「……あら、直哉様。もう手が離れても大丈夫ですよ?」
「やかましい。自分、またふらふらして消えたら困るやろ。……俺の側におれ」
屋敷の廊下を進む私たちの姿を見て、庭を掃いていた使用人たちが一斉に動きを止めた。そして、口元を隠して「ふふっ」とさざ波のように笑い声が広がる。
「……おい、お前ら。何笑うとんねん! 掃除せんかい!」
「いえいえ、直哉様。あまりに紬様を大事になさるもので……。温泉で、何か『良いこと』でもあったのかしらねぇ」
「……っ、変なこと勘ぐんな! どいつもこいつも……!」
直哉様は顔を真っ赤にして怒鳴るけれど、私の肩を抱く手には力がこもったままだ。
そこへ、縁側で酒を煽っていた直毘人様が、意地悪そうな笑みを浮かべて声をかけてきた。
「ガハハ! 直哉、お前その顔……。温泉で紬ちゃんに完敗してきたようやな。……酒が美味いわ!」
「親父! 黙れ言うとるやろ! 俺はただ、こいつが危なっかしいから見とるだけや!」
「ほう。じゃあ、紬ちゃんを少しこっちへ寄こせ。扇と茶でも――」
「アカン!! 誰にも渡さへん言うたやろ!!」
直哉様の叫び声が屋敷中に響き渡る。
その瞬間、廊下の陰から現れた扇様が、呆れたように溜息をついた。
「直哉。……貴様のその声、近所迷惑だ。……紬、また腹が痛いなら私のところへ来い。このアホよりはマシな薬があるぞ」
「扇様、ありがとうございます。……でも、今は大丈夫です。直哉様が、ずっと温めてくださったので……」
「……。…………そうか」
扇様は一瞬だけ、耳を赤くして視線を逸らした。
そしてポツリと、「……直哉。……大事にせねば、私が斬るぞ」とだけ言い残して去っていった。
「……ったく、どいつもこいつも紬に甘すぎんねん。……自分、俺以外に懐くなよ。分かっとるな?」
直哉様は、私の黄金色の髪に顔を埋めるようにして囁いた。
その姿は、傲慢な次期当主というより、大切なおもちゃを独り占めしたい子供のようで。
(……ふふ。直哉様、本当に『パパバカ』の初期症状が出ていらっしゃいますね)
私は幸せな気持ちで、直哉様の背中にそっと手を回した。
禪院家の冷たい空気は、いつの間にか、黄金色の光に包まれるように温かくなっていた。