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か
アビス・マーティン
アイリスが窓から飛び降り、驚愕のあまり開いた口が塞がらないシエルの前に、静かに、そして完璧なタイミングで防音の扉が開いた。「お呼びでしょうか、坊ちゃん」銀のトレイを片手に、何事もなかったかのように入ってきたのは執事のセバスチャン・ミカエリスだった。その端正な顔には、すべてを察していながらもあえて白々しく尋ねる、いつもの意地悪な微笑が浮かんでいる。「セバスチャン……! お前、外に居て気づかなかったのか!? あの女……いや、あいつが、いきなり窓から……!」シエルは激昂したまま、未だに風が吹き込む開け放たれた窓を指差した。「ええ、もちろん気づいておりましたよ。素晴らしい跳躍力でしたね。外で待機していた彼女のメイドが見事な手際で受け止めて、そのまま馬車へと消えていきました」セバスチャンは窓辺へ歩み寄ると、パタパタと衣服の埃を払うようにして、アイリスが残していったストックの香りを、わざとらしく手のひらで追い払う。「知っていたなら、なぜ止めなかった!」「まさか。悪魔の庭に、別の悪魔がこれほど堂々と足を踏み入れてくるとは思いませんでしたから。私としても、少々観察したくなりましてね」セバスチャンの目が、一瞬だけ妖しく紅く光る。「……あいつのメイドも、お前と同じなのか」シエルが声を潜めて問う。セバスチャンはトレイをテーブルに置くと、アイリスが触れたシエルの衣服の紐を、まるで行儀の悪い子供の乱れを直すように手際よく整えた。「ええ。とても一途で、そして酷く飢えた、上質な同胞です。コーラルウェル伯爵を包むあの匂い……。あれはただの香水の類ではありません。あの悪魔が、自身の契約者を他の害虫から隠すために、文字通り『マーキング』している濃厚な魔の気配です。坊ちゃんが先ほど触れられそうになったのは、あの悪魔の『一番の宝物』の核心ですよ。突き飛ばして正解でしたね。さもなければ、外のメイドが壁を突き破って、貴方の喉笛を噛み千切りに来ていたでしょう」セバスチャンの言葉に、シエルは不快そうに顔をしかめ、アイリスが座っていたチェス盤の向かい側の椅子を睨みつけた。「……ジェーン・ドゥ、と言っていた」「おや」「あいつは、自分の一族の恥晒しで、存在しない名無しの異形だと言った。僕と同じだ、とも。僕を見て、幸せになってほしいと……」シエルはそこまで言って、自嘲気味に鼻で笑った。「馬鹿馬鹿しい。あんな得体の知れない奴に同情される筋合いは無い。だが……あの目は、本物だ」偽物ではない、本物の地獄を見てきた者の目。それを思い出し、シエルは無意識に、自身の右目に宿る契約の紋章に触れる。「傲慢で、聡明で、そして酷く歪んでいる。ファントムハイヴの情報を探りに来たただの有象無象かと思ったが……どうやら、ただの商談相手では済まされそうにないな」シエルの瞳に、冷徹な当主としての、そして「番犬」としての鋭い光が戻る。「セバスチャン、命令だ。コーラルウェル伯爵家の過去、そして『アイリス・コーラルウェル』のすべてを調べ上げろ。あいつが次にここへ来るまでに、すべてを暴く」主人の確固たる意思がこもった命令を受け、セバスチャンは胸に手を当て、深く、優雅に頭を下げた。「イエス、マイロード。……フフ、同じような傷を持ちながら、あちらのお嬢様は随分と悪魔に愛され、甘やかされているご様子。我が主人の負けず嫌いに、また火がついてしまいましたね」「うるさい。紅茶を淹れ直せ、セバスチャン。あいつの残した花の匂いが、鼻について苛々する」「御意。すぐに、最高級のダージリンをご用意いたしましょう」ガチャン、とシエルがチェスのキングの駒を乱暴に盤上に転がす。ファントムハイヴ邸の客間に、再び静寂が戻る。しかしその空気は、コーラルウェル伯爵という強烈な存在によって、二度と元には戻らないほど深くかき乱されていた。