公開中
夏の終わり
1
「撤退!」
灰色の世界に、ゆっくりと色が戻ってゆく。
水の泡の向こうにあった世界が近づいてくる。
銃を抱えて、ひたすら前進。出会った相手は敵。撃ち殺せ。
銃は遠距離攻撃用の武器だろう。それを抱えて遮るものもない平原を進むなんて、馬鹿じゃないのか。
そう言った仲間は、上官に殴られた。
隣にいた仲間の肩から、血が溢れる。敵の攻撃を食らったようだった。
だが、怪我を負った仲間を誰も相手にしない。
誰もが、自分が生き延びようと必死だった。
かく言う俺も、その一人である。
発砲音が聞こえた。味方のものか、敵のものか。分からない。
味方のものであれば良し。敵のものであれば当たらぬことを祈れ。
乱射されたら、避けることも防ぐことも|能《あた》わない俺たちには祈ることしかできない。
目の前を走る男の姿が消えた。
つまずいたのか、撃たれたのか。分からないし、そのどちらでも良い。
今いちばん大切なのは、敵がいて、俺たちを追ってきているということだ。
走る。死にたくない。
後ろから発砲音が聞こえる。
当たるな、外れろと祈りながら。
ひたすら走る。
周りを走る味方の数も減ってきた。
ああ、どうしよう。俺の代わりになる人間が、どんどんいなくなる。
怖い。逃げなければ死ぬ。背中を見せれば敵の動きが分からなくなる。
「――ぁ」
最悪だ。前からも敵が来た。
――挟み撃ち。前からも後ろからも銃弾が飛んでくる。単純に考えて、死の可能性は二倍。
走って、走り続けた。銃を抱えたまま、ずっと。
「はっ、はっ……」
息が上がる。いや、息が上がるなんてものじゃない。
絶えず空気が肺を出入りして、その中継を行う喉はからからだ。
いつ倒れてもおかしくない。
だが、今倒れてはいけない。その一心で、足を動かし続けた。
「――――? ぁ」
何か、衝撃が体を貫いて。
次の瞬間、俺の体は宙を舞っていた。
「ぐ、がばごふっ」
灼熱だ。灼熱が体の中にある。
熱の出どころを探して、胸を掻きむしる。
赤く、ねっとりしたものが手にまとわりついた。
味。鉄の味がする。
思い出したように、口から血の泡が溢れた。
心臓か、肺か。分からないが、胸を撃たれたことだけは確か。
視界が霞んでくる。
「しに、たく……」
ない。
死にたくないと、必死に空に手を伸ばして。
――ああ、どうしてそんなに平等なんだ。
恐ろしい敵も無様な俺たちも等しく照らす太陽に、呪いの言葉を吐いた。
寒い。
胸から温かいものがこぼれ落ちていくのを感じる。
その喪失感は一秒ごとに強くなっていき――。
「かはっ」
最後に血を吐いて、俺の人生は幕を閉じた。
はずだった。
2
意識がゆるやかに浮上する。
目を開いて、ぼやけた焦点が合う。
「うっ……」
そう言って思わず目を閉じたのは、仕方ないと言って見逃してほしい。まあ、見ている人間なんてどこにもいないだろうが。
白。真っ白だ。
暴力的なまでの白が、俺の目を灼く。
「っ、生きてる……」
胸に手を当てて、俺は呟いた。
敵の攻撃を受けたはずだが、傷一つない。
「銃は!?」
あれだけ大事に抱えていたはずの銃が、ない。
落とした。その可能性が頭をよぎる。
バレたらまずい。早く、探さなければ。
「ここは、どこだ?」
しかし、探す前にここがどこだか分からない。
真っ白な部屋。出入り口は見当たらない。
敵軍に、ここまでの施設を作れるような技術力があるだろうか。
「解放された?」
ここは、戦地ではない。
辺りに自分以外の人間もいない。
もう自分の命を失う不安に震えることもなく、誰かの命を奪って恨まれる恐怖に怯えることもない。
誰かに害されることもなければ、誰かを害することもない天国。
それが、俺のこの場所への――邂逅の場への最初の評価だった。
「何だ、これ」
俺は目をこすって、目の前のモノの実在を確かめる。
先ほどまでは確かに存在しなかったはずの――空間の中央に|鎮《ちん》|座《ざ》する、黒い玉。
真っ黒な球体が黒い|靄《もや》をまとって、白い空間に存在している。
その正体を知るため、俺は迷わず球体の元へ歩み――触れた。
今考えれば、馬鹿な行動だ。
それが自分にどんな影響を与えるか分からない状況で、不用意に近づくとは。
それとも、敢えて近づいただろうか。
拾った命、望まぬ二度目の生。どうなっても良いと、半ば自暴自棄に。
俺の指が触れた瞬間、黒い玉が弾けた。
弾けて、欠片が空間全体に広がる――なんてことはなく、全てが一箇所――俺の指先へ集まり、吸い込まれていく。
それは、俺が慌てて距離を取っても変わらなかった。
「っ……」
頭痛。頭の中から存在を主張する痛み。
それと同時に、知らない知識が頭の中に増えていくのを感じた。
世界、願い、叶える、感情、虚無、管理人、不死、願い、役目、願い、叶える、叶える、叶える――。
「っ、はあっ!」
理解した。理解させられた。
ここは強い願いを持つ人間を招き、願いを聞いて、この黒い玉の力を使って叶える場所。
俺はそこの管理人。外界からの干渉は基本的に受けつけず、こちらも干渉できないが、観測はできる。
そして、決して死ぬことはない。
いつの間にか息を止めていたのだろうが、息をする度に体が喜び、心臓が脈動する。
深呼吸して呼吸を落ち着けると、心臓の鼓動も次第に落ち着いていった。
「む、ここは……」
知らない声。俺は舌打ちしたい衝動に襲われた。
ようやくこの場所について理解できたところで、感情の整理なんてついていないのに。
世界は俺に対して厳しすぎやしないか。
「おお、私以外にも人間がいたか」
来訪者がぱっと顔を明るくし、俺へ早足で寄ってくる。
「して、ここはどこか分かるか?」
「ここは願いを叶える場所。俺はここの管理人。お前の願いを聞こう」
来訪者の問いかけに対し、答えをまくし立てる。
一刻も早くお帰りいただき、この状況を整理して飲み込む必要があった。
「むむ、急ぎすぎはよくないぞ。それと服装。そんな格好では、みんな怖がる」
そう言われて、俺は自分を見下ろした。
死ぬ時まで着ていた軍服。胸のところにはべっとりと赤い血が付いている。
なるほど、これでは初対面の相手に警戒されてしまう。さっさと役目を終えるためにも、改善できるところは改善しなければ。
目の前の男をじっと見つめる。
男は、西洋風のゆったりした服を身にまとっていた。
遠目から見るだけでもその服の生地はさらさらで、相当高価なものなのだと思う。
俺はその男の服を細部まで眺めた。
「いきなりじろじろ見るな。恥ずかしいぞ」
と、そんな男の抗議も意に介さず、じっくりと。
どうせ、この男は俺が願いを叶えてやるまでここにいるし、願いを叶えたらすぐにいなくなる。
俺にとって都合の良い相手だった。何をしても気を悪くされるだけで、俺に直接の被害はないし、主導権を握っているのはこちらだから。
「こう、か?」
細部までじっくり観察した服を、俺の姿に反映させる。
「むむむ! 私と同じ服装!」
男が何やら声を上げるが、無視。
「どうだ?」
服装への感想を求める。男の服装をそのまま使ったのだから、反対意見など出るはずもないが。
「私と全く同じ服装というのに違和感はあるが、特段悪いところはあるまい」
予想通りの反応だった。
「さあ、願いを聞こうか」
気を取り直して、男の願いを聞く。男には、もうここにいてもらう必要はない。
「む、願いか。ありがたいが、私は私の願いを自分で叶えたい。心遣いだけは受け取っておこう」
まさか、一発目から願いを叶えられることを拒む相手がいるとは。
「ちなみに、願いは?」
「それはもちろん、私の会社を日本一大きくすることだが……」
願いを知ってどうする気だ? と男の顔に書いてあった。
別にどうもしないさ、と肩をすくめる。
「本当に良いのか? 機を見逃さない力や客を呼び込む力、競合他社の弱みを握る力まで、どんな力でもやれるが」
男は自分の手で願いを叶えることにこだわるが、別に手助けがあっても良いだろう。
「む……どれだけ言われても、私は自力で叶えたいのだ」
「じゃあ、こういうのはどうだ?」
尚も拒む男に対し、俺は言葉を重ねる。
「持っておく分には構わないだろう? お前は保険として力を持っておけば良い」
俺の言葉に、男の心が揺れているようだった。
顎に手を当て、しばし熟考。
「むむむむむ……確かに、そうしておくのも良い、か?」
「返したければもう一度来れば良いさ」
できるかどうか分からないが、そう言っておく。
今のところ、男にここから出て行ってもらうための方法としては、願いを叶えること以外に思いつかない。だから、多少嘘をついてでも願いを叶えたかった。
「分かった。それでは、『人が集まる力』をくれぬか? もちろん、力は任意で使えるように」
「承知した」
そう短く返し、俺の中にあるエネルギーに働きかける。
あの男に、『人が集まる力』を。
「ぬ? お?」
男の姿が光り輝き、薄らいでいく。
「よく分からぬが、ありがとう!」
男の姿が消える寸前に発せられた声が、俺の耳にしばらく残った。
「……見てみるか」
ここでただ過ごしているだけでは、暇すぎて心が死にそうだ。
干渉は禁じられていても、観測は禁じられていない。
先ほどの男を強く思い起こすと、目の中に男と男がいる部屋が映し出された。
どうやら、寝ているらしい。
男の中では、先ほどの出来事が夢の中のことだったということになるのだろうか。
何も面白いものはない。寝ているのだから当然だが。
視界の接続を切って、目の前を見る。
殺風景な空間が、俺に迫ってくるように感じられた。
これを見るよりかは、男の周りを見ていた方がマシだ。しかし、こちらを全く見ないというのは避けたい。
理想は、半分ずつに分けることか。片方の目で現実を見て、もう片方の目で男を見る。
しばらくは、何の動きもなかった。
3
近くの女と相談している。
これからの会社の経営方針と、仕入れる商品の種類と数。
近くに開店した大企業傘下の店に、客を取られているらしい。
取り扱う商品の種類も、店の規模も、サービスの質も同程度、もしくは上回られている。
何か対策をしよう、ということで始まった話し合いだった。
話し合いの内容には理解が及ばない。
しかし、雰囲気から分かることがある。
――議論が紛糾しているということだ。
女が大声で何か言い、男が静かに反論する。
建設的な対話が進んでいるようには見えなかった。
終いには、女が大股で部屋を出て行って、扉を勢いよく閉めてしまう。
部屋に一人で閉じ込められた男は、自分の机に座って頭を抱えた。
「客を増やす……客寄せ……人、集める……」
ぶつぶつ呟き、
「人を集める!」
何かが噛み合ったのか、そう言って立ち上がった。
勢いに負けて椅子が転倒したが、お構いなしだ。
「この力があった」
そう喜色満面に語る姿に、陰が差す。
「いや、私は彼と約束した……この力は使わないと」
そうして、一時間ほど葛藤したところで、
「いや、使おう」
そうして力の行使を決意した瞬間、俺は覗くのをやめた。
――つまらない。
4
「――ああ、かわいそうに」
「誰?」
いつもの台詞と共に現れた俺を、香織は胡乱げに見つめ、後ずさった。
「俺? 俺のことは気にしなくていいさ。ただ、君の願いを叶える存在だと思ってくれればいい」
「願い?」
「そう、願いだ。なんでも一つ、叶えよう」
香織の独り言に答えると、香織は目をしきりに|瞬《しばたた》かせた。
さて、これからどう出るか。
今までの経験上、死んだ後に俺に会った人間の行動パターンはいくつかに分かれる。
一、蘇生を望む。
二、復讐を望む。
三、転生を望む。
大抵はこれらのどれかか、その複合だ。
前のめりになった香織を、冷静に見つめる。
「なんでも?」
「そうだ。今なら、時間の巻き戻しもオマケに付けてあげよう」
「時間の、巻き戻し……」
香織が上の空といった様子で呟く。
よし、効いてきた。
「命を交換する力」
それを言った瞬間、香織が「しまった」という顔をする。
自分さえも気づいていない本音、それを引き出せた証だ。
「それは……ふふ、良いだろう」
自分に正直な人間は嫌いじゃない。
「待って!」
願いは叶えられた。香織が元の場所へ戻るのは止められない。
もう一つ、サービスするのも悪くない。死から逃れようとしている人間の姿は、嫌いじゃない。
「最後に一つ、教えよう。もしその力を手放したかったら、もう一度願うといい。さすれば道は、開かれる」
「は!?」
俺の言葉に、香織は余裕のない叫びを返してきた。
相手は全く未知の状況に|狼狽《うろた》える人間、多少は多目に見てやっても良い。
そうして消えていく香織を眺め、やがて邂逅の場が静かになった。
「ああ、かわいそうに」
「ここはどこ? 俺は渉」
面白い人間だが、少々うざったい。
「何でもいいから、願いを言え」
だから、少し冷たい口調になってしまったのも仕方がないことだ。
「遥己に会いたい」
家族か、友人か。親しい間柄の人間との再会を望む願いは、自身の欲望を叶える願いの次に多い。
ありきたりな願いに、俺は渉への興味を失った。
「願いはそれだけか?」
この手合いは、往々にして他の願いを抱えているものだ。
できれば一度で済ませて、何度も邂逅の場に来られるのは避けたい。
「それだけ……って」
渉は黙り込んだ。
考えている。つまり、心当たりがあるということ。
やはりそうだったか、と不思議な納得感を得た。
「……遥己とまた遊びたい。できれば、毎日」
「分かった。願いを叶えよう」
「え、ちょ、待っ」
渉は焦るが、もう遅い。
こういうのは、さっさと終わらせた方が楽だ。
「俺が与えるのは『望んだ場所に行く力』だ」
なるべく早く退去してもらうため、必要としている力を推測して渡す。
「グッドラック」
激励と軽い煽りを兼ねて、親指を立てた。
「――ああ、かわいそうに」
「かわいそうってなに? 自分の感情を押しつけないでくれる?」
初対面なのに初めから俺に噛みついてくるのは、これで百人と少し。
大抵の場合は自分に絶対の自信を持った阿呆だが、彼女はどうやら。
「それは失礼した。次からは気をつけよう」
できるだけ下手に出ておく。
「本題に入らせてもらおうか。願いを聞こう。何でも一つ、叶えられる」
「いらない」
智里の答えが出されるまでに、一秒もなかったか。
こうして願いを断ったのは、これで四十人弱。
そして、力を使わずに願いを叶えたのはゼロ人。
「なぜ? 叶えたいことがあるから、ここに呼ばれたんじゃないのか」
願いを断られた時にいつもしている質問を投げかける。
「あなたが誰かは知らない。けれど、私は自分だけの力で叶えたいから」
そう言って自分だけの力で叶えた人間は、どこにもいない。少なくとも、今は。
「夢ってそういうものじゃないの? あなたの力で叶えてもらったら、それは裏口入学と何が違うの?」
裏口入学。智里がその言葉を発した時、彼女の言葉を遮る勢いで笑い声が漏れ出た。
俺が与える力を、そんな不正と同一視するとは。俺が与える力はそれが本人に宿る以上、立派なその人だけの力であり、武器だ。
「遮って悪かった。続けて」
智里は一瞬むっとした顔を向けるも、すぐに話し始めた。
できるだけ怒らせないよう、下手に出ているのだが。
「あなたの力はいらない。自分だけの力で|勝利と合格《ゆめ》を勝ち取る。私があなたに願うのは、私が夢を叶えるのを見守ることよ!」
願いをそれにするのは問題ない。来訪者の願いが叶いさえすれば、来訪者はここから出られるのだから。
それでも、力の受け取りをここまで固辞する人間は初めて見た。どんな相手でも、最終的には力を受け取ってくれていたのだが。
希少な相手に初めての状況。俺の意図に反して、笑い声が漏れ出る。それは次第に大きくなり、
「ふ、くくく……あっははは!」
「何がそんなに面白いの?」
智里が低い声で怒りを表明するが、俺の笑いは止まらない。
「ふ、く……いや、本当にすまない」
これで三回目。仏の顔も三度まで、いくら怒るのを堪えている智里であっても、我慢の限界に達する可能性は否定できない。
靴の音を響かせて、智里に歩み寄る。
「初めて見た。こんなに与えられるのを拒否する人間は」
できるだけその顔を記憶しておくために、近寄って見る。
「やってみろ」
その言葉に対し、智里は強く睨みつけるだけだった。
目標に向かって全力な人間の顔。嫌いじゃない。
「良い顔だ。精々頑張れ」
智里が反発してよりやれるように。
敢えて、そういう顔と声で言う。
「もし必要になったら、また来い」
「来るわけないでしょ!」
最後まで反発してくる智里に、笑みを浮かべた。
智里には見えていないだろうが。
5
「――久しいな」
覗き見をやめて、目の前の智里を見る。
「来ると思っていた」
「来るつもりはなかった」
相反する言葉をぶつけ、正面から睨み合う。
「私、あなたの力を借りなくても勝てたから」
「そうだな。だが、次はどうする? その次は?」
智里の可能性を探る、問答が始まった。
「死にものぐるいで努力して、乗り越えるのか? それをずっと? 目の前に、より確実で楽な道があるのに?」
「そうよ。人生、ずっと成功してばっかりじゃつまらないじゃない」
「負け惜しみだ」
または、特別な力を持たないということへの誇り。しょうもないプライド。
使えるものは全部使ってこそだろうに。
「負け惜しみじゃないよ。たぶん、あなたには一生理解できない」
そうだろうな。俺は、自分が生き延びるために他人が犠牲になっても構わないと思っていたから。
それは口に出さない。それを口に出せば最後、俺と智里の関係は修復不能なレベルまで悪化するだろう。
「勝負する時は、相手と同じ条件でやらなきゃ。そうじゃないと、勝った時素直に喜べない」
「人はいつだって、それこそ生まれた瞬間から不平等だ」
生まれた瞬間から、家が金持ちか否かでその先の未来に差が生まれる。金持ちは金で経験を買える。幼少期の経験の差は、大人になっても響く。
だから、真に平等な条件など存在しない。
「自分と相手、それぞれが平等だって合意してたら良いんじゃない?」
「合意していても――」
と、俺が答えようとした瞬間。
「智里ねーちゃん!」
「智里」
渉と香織が入ってきた。
「渉か」
願いを持って入ってきたわけではない来訪者。正規の相手ではないから、追い出すこともできる。
「今は智里と話しているんだ。邪魔するな」
そう言って、二人を追い出そうとした。
だが、
「なぜ――?」
追い出せなかった。この空間が、二人を正規の来訪者と認識している。
願いがあるのか。ならば、さっさと叶えてご退去願おう。
「俺の願い。これで二回目か。二つも叶えてもらうなんて贅沢なんだけどさ、あんたと話がしたいんだ」
「話?」
「あんたはたぶん何でもできる。だけどさ」
――なんで幸せそうじゃないんだ?
まだ外でやりたいことがあった。
家族の無事を確認したかったし、おいしいものを腹いっぱい食べたかった。
「俺はここから出られない。何十年もここにいる。もう、こんな生活は終わりにしたい」
たぶん、ずっと見て見ぬふりしてきた、俺の本音。
ここから出たいのは変わらず、この不死の体も捨てたい。
「あなたは終わりたいの? ここから出たいの?」
香織が俺と渉の会話に割り込んできた。
普通なら無視するところだが、今は違う。
終わる――香織に与えた力か。あの力で俺の命を有限にしてもらえれば、俺はいつか終われる。その代わりに、誰かが無限の命の苦しみを背負うが。
ここから出る――渉に与えた力か。今なら、現世との距離も近い。この力を使えば、出るのも不可能ではないだろう。
しかし、どちらの場合でも不安要素は残る。俺という管理人を失ったここが、どうなるかだ。
役目を終えて消え去るならそれで良い。しかし、もし無人の状態で残ったとしたら。運悪くここに呼び寄せられて、一生出られなくなる人間がいるかもしれない。
熟考の末に、俺は口を開いた。
「両方だ。ここから出て普通の生活をしてみたいし、他の人間と同じように年老いて死にたい」
「どっちも……欲張りね」
「どちらかと言えば、ここから出ることの方が優先だ」
死ぬ方法については、無限にある時間の中で探せば良い。
「両方とも、叶えてあげても良いわよ」
「っ――!」
こぼれた吐息に込められた感情は、果たしてどちらだったか。
両方とも、という都合の良い話を純粋に喜ぶ気持ちと、どんな対価を要求されるのかと警戒する気持ち。
「まあ、片方は渉に頼るけ――」
「頼む」
香織が「ど」まで言い切る前に、俺は答えを出した。
香織が面食らった顔で、俺をまじまじと見る。
「本当に? 私まだ、あなたに何を要求するか言っていないのに」
「無限に願いを叶えろ、とか理不尽なもの以外だったら何でも叶える。だから」
「解放してほしい、と」
香織が渉と智里の目を見て、
「二人とも、こいつに何かやっておきたいことあるでしょ?」
「うん」
「俺はもう済んだ。こいつのことが終わったら帰るよ」
智里はうなずき、渉は手を横に振る。
「そういうことだから。智里と私の願い、聞いてくれる?」
「分かった」
即答した。この二人なら、理不尽な願いを告げることもあるまい。実績がある。
「じゃあ、私から。さっきの話の続き」
「さっき……どんな話だったか」
覚えていない、とは続かなかった。
智里の目の力に、言うのを許されなかった。
「人は生まれながらに不平等だって話」
「ああ、それか」
智里に軽く睨まれる。掠れるような小さな声でも、智里は聞き逃さなかったらしい。
「生まれた時のハンデを克服して、逆境を乗り越えて大成功した人っているじゃない? 努力だけが唯一、その不平等を覆せるものだと思うの」
「まあ、そうだな。必ず実るとは限らないが」
努力には正しい方向がある。
空を飛べない人間が空を飛ぼうとどれだけ羽ばたいても飛べるようにはならないが、空を飛ぶ乗り物を発明することはできる。
「だけど、初めからそう思ってたら何もできない」
「結論は?」
そろそろ邂逅の場での平均滞在時間を過ぎる。もう少しは大丈夫だろうが、長時間滞在すると現世との距離が開き、いずれは戻れなくなってしまう。
「私が全部ひっくり返す。ひっくり返して、あなたのその考えを否定する」
「できるものなら――」
「できるよ。現に、私は勝った」
それは元々勝てるだけの力を持つ素養があったからではないのか。そう言おうとしたが、やめた。
それを判断する絶対的な基準はなく、判断するのは個人の主観だ。俺や智里の考えも、同じ事実を違うように解釈したに過ぎない。
それを指摘すれば論理が瓦解し、この議論そのものが破綻しかねない。
「話はそれだけか?」
「うん。みんなの用事が終わったら帰る」
苦し紛れに話題を変えたように見えただろうか。
「じゃあ、最後は私ね。――一発、殴らせてくれる?」
そう言うや否や、香織は拳を握って踏み込んできた。
「良いとは言っていないが!」
反射的に避けようとした体をその場に押し止め、無防備な状態になる。
香織の拳が迫ってくるが、何もしない。それが願いと言うなら、受けるだけだ。
「……ぐっ」
口の中に広がる鉄の味に、歯を食いしばる。久しく感じていなかった痛みだ。
香織は反対の拳を振りかぶり、二発目を入れようとしている。
「一発だ」
その拳を受け止め、願いを確認する。
香織は苦々しげな顔をしながらも、素直に引き下がった。
「私の力を使う。それで良いかしら?」
「それで良いも何も、それしかないだろう」
「うん、分かった」
俺は意識を集中し、体にかかっている安全措置を外していく。これがあっては、香織の力を弾いてしまうからだ。
同質の力の無効化――解除。
攻撃を受けた時に相手の力を奪うカウンター――解除。
状態の不変化――一部解除。
香織が俺を力の対象にしたのが分かった。
ここまでは順調だ。
「おかしいわね。一瞬で完了しない……?」
「俺の体が抵抗している。これ以上抵抗値を下げるのは無理だから、その状態で頑張ってくれ」
「はあ!? 聞いてないんだけど!」
「言っていないからな」
香織で遊びながら、力の発動の完了を待つ。
九割方完了した頃だっただろうか。
「良かったのか?」
「何がよ」
やりすぎてしまったのか、香織の返事は少しぶっきらぼうだ。
「無限に生き続ける苦しみを、俺の代わりに背負うことはない」
「私が何を願ったのか忘れたの?」
香織が白い目で見てくる。
「生きることと復讐することだろう。忘れていないさ」
「それが分かるならもう分かるでしょう」
香織の願いは二つ。
生きることと復讐すること。そのうち一つは既に叶えられた。香織を殺した人間は死んでいる。
「生きる」という願いを「ここで終わりにしない」と解釈すれば、香織の願いは全て叶ったことになる。しかし、「生き続ける」と解釈すれば、香織の願いはまだ叶っていないことになる。
香織はそのことを言っているのだろう。
「だが、本当に」
良いのか、と続けようとした俺の言葉を、香織が遮った。
「くどい。何度も言わせないで」
そうしているうちに、寿命の交換が終わろうとしていた。
「ぐっ……」
喪失感に|呻《うめ》く。
この先無限に続くはずだった未来を断たれたことによる喪失感。
横目で香織を見る。彼女も、俺とは真逆の原因による同じような痛みを味わっていることだろう。
寿命による|枷《かせ》は外れた。俺は終わることができる。
しかし、まだ管理人としての役目からは解放されていない。俺がここの管理人である限り、ここからは出られない。
――俺一人の力では。
「俺の出番?」
「ええ」
香織から渉へ交代。
「これから転移するけど、どこに飛ぶかは分からないから。海の上でも何も言わないでよ」
ここが現世のどことつながるか分からない。
どことも知れない場所へ飛ばされても、渉の力で知った場所に飛べる。
最悪なのは、海の上や火山など、そこにいるだけで命が危ない場所に飛ぶことだ。
「ちょっと来い」
「――?」
疑問に思いながらも、渉がこちらへ寄ってくる。
俺は渉の手に触れ、転移先を確認した。
「大丈夫だ。|人《ひと》|気《け》もない」
「分かるの?」
「俺が与えた力だからな。それぐらいはできる」
へぇ、と渉は小さく呟いた。
「そろそろ行く?」
「頼む」
俺が短く頼むと、渉はうなずき、香織と智里を呼び寄せた。
「掴まって」
俺たち三人が渉の手や腕に掴まると、渉の力が発動した。
俺の存在か、それともこの空間の特性か、発動しきるまでに時間がかかっている。
それでも、少しずつこの空間と現世がつながっていった。
道の構築が終わり、渉たちの体が道へ吸い込まれていく。
「……やはり、駄目か」
俺だけは、吸い込まれなかった。
俺とこの空間のつながりは強固だ。
これまでに俺を連れ出そうとした人間がいなかったわけではない。しかし、その全てがこの強固なつながりに阻まれ、失敗した。
つながりを弱めようと俺なりに頑張ったが、どうにもならないまま、今日に至る。
「私の願い、聞いてくれる?」
俺がはっと顔を上げると、智里が必死な目で俺を見ていた。
「『断ち切る力』を|頂《ちょう》|戴《だい》!」
「ああ、分かった!」
俺は、来訪者の本当の願いに関係なく、願いを叶えるのに必要だと思った力を与えることができる。
その制度を悪用し、智里に断ち切る力を与えた。
「切れ……ろ!」
智里の力が、俺と邂逅の場とのつながりに干渉した。
解除したはずの安全措置が勝手に設定されていき、俺をここに留めようとする。
強大な力同士がぶつかり合い、その余波で空間が揺れる。その中心である俺や智里には、更に大きな反動が襲いかかった。
俺は歯を食いしばって、安全措置を解除していく。
時間がない。後数秒もすれば、渉たちの転移が完了してしまう。
「うぅ、ぅぅううぅ!」
智里が唸り声を漏らしながら、力の制御に全力を注ぐ。
それに合わせて抵抗も強まり、漏れ出た力で空間に綻びが生まれた。
抵抗に回されていた力が空間の修復に回され、抵抗が弱まる。
智里の力がつながりを断ち、俺の体も転移に巻き込まれ始めた。
視界が白くなっていき――
6
靴が草を踏みしめる音が聞こえた。
空を見上げれば、茜色の空に昇る月が見える。
「あ……もうこんな時間か。みんなを送らなきゃね」
そう言って渉は、智里の手を取って転移した。
香織と二人きりで取り残され、無言で目を合わせる。
「しんどくなったら、そこら辺の悪人にでも押し付けろ」
「私がそんなことするわけないでしょ。自分で背負ったんだから」
「そうか。だがまあ、選択肢として持っておけ。心変わりするかもしれないだろう」
「ん……まあ、そうしようかしら」
ヒグラシの鳴き声と共に、時間がゆっくりと流れる。
「でも、私のやるべきことを終えてからね」
「やるべきこと?」
何かあっただろうか。
香織の生活を覗き見した限りでは、特別な使命を帯びている様子もなかったが。
「奪った命の分、人を助けなきゃ」
「律儀だな」
「普通じゃない?」
普通ではない。
俺も、あの戦争の中で何人もの敵兵の命を奪った。しかし、何の償いもしていないし、死ぬ時はみっともなく生きることを願った。
「いいや、全く」
「そうかしら? あ、そろそろ渉が戻って来るわね」
渉が今何をしているかは知らない。
しかし、話が弾んでいたとしても、そろそろ戻って来るだろう。
「じゃあ、私はお|暇《いとま》するわ」
「渉に送ってもらわないのか?」
「いいえ。私はこれから、新しい自分としての生活を始めるんだもの。場所も変えて、ね」
死なない、老いないとなれば、不審に思う人間も出てくる。
前の人間関係を破棄して、新しく人間関係を構築するのも悪くない。
「そうか。じゃあな」
「ええ。またいつか、会う日があれば」
手も振らず、目も合わせず。
俺に背を向けて、香織は遠くへ歩き出した。
「ただいま。次は香織姉を……」
帰ってきた渉が、周囲をきょろきょろと見回す。
「あれ? 香織姉は?」
「行ったさ」
俺は遠くを見遣って答える。
「別のところで、ゼロからやり直したいんだと」
「そっか。じゃあ、お兄さんは? どこか行きたいところある?」
「な――」
ない、と答えかけて。ふと、頭の中に家族の顔がよぎった。
「じゃあ、――県――市の――町」
何をするの? と渉の目が尋ねてきた。
「挨拶」
今はもう、死んでしまった家族へ。
「行くよ?」
「ああ」
そう答えた瞬間、俺と渉の姿はこの場からかき消えていた。
様々な願いを持った少年少女の物語、ついに完結。
遅れてごめんなさい。執筆が間に合わなかった。
今回の集中投稿で得た学びが一つ。最初に見積もった文字数は、当てにならない。大抵は超えます。以後気をつけたい。
ファンレターをくださった方へ。ありがとうございます!
ファンレターが届いた瞬間にわくわく、読んで悶々、思い出してによによしています。
今年は受験があるのであまり積極的に活動できませんが、登録記念日(12月19日)にはまた小説を投稿しようと考えているので、お楽しみに。