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冷たい祈り(供養)
夢のようだと思った。好きな人の腕の中は、こんなにも心地いいものなのだと思った。
息遣いを感じられる日が、背の高さすらすり合わせながら過ごす日々が、こんなにも尊いものなのだと、初めて知った。
けれど、それが長くないことも、知っていた。伏せた瞼を薄っすら開くといつも、あなたは似つかわしくない顔をしているのだ。
けれど、願ってしまったから。
願ってしまったことに抗えなかったことが、駄目だったのだと思う。
逃れられないというのなら、この夢が少しでも長く続くように、祈るしかない。
組んだ指が少しずつかじかんでいくことに目を背けて、震える指を、あなたの首の後ろでそっと組む。
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いつものように、淡々と仕事をこなし、扉を開けてそんなに広くない家へと入る。鍵を開け、扉を開き、それを閉めては鍵を閉め。靴を脱ぎ、ひんやりとした床に靴下を乗せ、押し込めるようにして居間へと脚を引きずっていく。
けれど、私はそこで息を呑む。指先から力が抜けて、持つことすら忘れて、布製の塊を落としてしまった。
夢のようだと思った。
「おかえり」
彼が何食わぬ顔で立っていて、料理をしていた。包丁で野菜を切り落とす音が、心地いいはずなのに。銀色の刃が断面を作り出す度、冷たいものが頭の中に残響する。
数年前の、彼のまま。ここに居るわけもない、届かなかった彼が、私の前で野菜の首を切っている。垂れた目を細め、柔らかな笑みを浮かべて、いい匂いをさせながら、空腹の私のために何かを作っている。
当たり前の日常みたいに、接してくれている。
気持ち悪く引き攣った私の口元が、夢なのだと訴えている。幻なのか、幽霊なのか。おそらくはどちらかだ。
「ただいま」
とうとう、恋しさにおかしくなってしまったのだろう。けれどそれが幸せな夢であるなら、壊れていても構わない。あなたが絶望も希望も握っているのだとしたら、それはそれは、どれほど幸せで苦痛なことか。
あなたがあなたでないことを理解しながら、微笑む彼の元まで、歩いていく。言葉を返して、歩いていく。
すると彼は、まるで分っていたかのように包丁を置いて、腕を広げた。その中へ、くすぐるにおいを吸い込みたくて、飛び込む。今の夢が、大切だから。
偽りに決まっていたとしても、狂ってしまった私には、それが必要だ。
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彼はおそらく、幽霊だ。けれど、あの人そのものではない、誰かだ。
本物の彼は、私のもとに現れるはずなどない。
それでも、あの人が私に笑いかける度、既知であれ無知であれ、その穏やかさに彼らしさを見出す度に、私の心が甘く溶けていくように感じた。
その溶けだしたものが、幻の彼に啜られているのだと思うと、余計に嬉しく感じた。
あなたの作る料理は、どれも香ばしい匂いと共に私の食欲を刺激する。冷蔵庫に入れていなかったはずの食材で作られたそれは、きっと。彼が元居た場所から持ち出されたものなのだろう。
私の好きな味が並んでいることから、あなたの正体を、私はなんとなく察してしまう。
口にすれば、戻れないのだと思う。それでも、私は抗うことすら止めて、彼があなたでないことすら分かっていながらも、ぬくもったそれを入れるのだ。
向かい側の席の表情が歪むのを、横目で見た。単なる意味が込められているわけではないと頭にちらつくけれど、あなたが誰なのかを理解してしまうけれど、もう戻れないのだから、関係はない。
「紗江ちゃん」
彼が私を、あの時よりも甘い声で呼ぶ。
「なに」
ぶっきらぼうになってしまった返事に、くすくす笑いを零して、彼は微かに息を吸った。
「好きだよ」
その、なんでもないはずの告白。ああ、きっと、彼は恋人に対してこんな風に囁くのかもしれないなと、理解する。顔が、ことに目頭が熱くなり、食べたものを吹き出しそうになりながら、私は。顔を背けることしか、できなかった。
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彼はおそらく、幽霊だ。けれど、あの人そのものではない、誰かだ。
本物の彼は、私のもとに現れるはずなどない。
あの人には、恋人が居た。天津美知。それが彼女の名前。対する私は、紗枝。ここからして、全くもって違う。
天津とは腐れ縁らしく、幼いころから付き合いがあった。よく似ているねと言われ育ってきた私たち。けれど、私の方が、何もかも、天津と比べて劣っていた。
「悪霊が化けて好きな人の姿になっていた。本物の彼は違う人に惹かれて付き合っていた上に亡くなった。触れてはいけないとわかっていたのに、まるで理想の彼のようにふるまう彼に、どうしても触れたかった。」
というような内容でした。最初からオチが提示されてたら書けるんじゃね、と思いましたけど、飽き性には勝てなかったよ。
(以下没になった文章↓)
瞼の裏にかかる吐息が冷たくて、抱きしめられているだけのはずなのに、呼吸が、緩やかに狭まっていく。
遠のいていくハエの羽音は、私を救ってなどくれない。けれども、これが終わったら。
私は終わりなのだと、逃れられないのだと。それでも今の淡い夢に浸っていたのだと、あの人の冷たい腕の中に抱きすくめられながら、私は、心地の良い夢のように眠る。