名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
公開中
負けるということ
1
「「せーの」」
二人で声を合わせる。
「四七三!」
「四七二!」
最終得点を告げる。
四教科返ってきた時点での途中経過では、三点差の接戦だった。
「よっしゃ勝った!」
|恵理《えり》が拳を握り締め、ガッツポーズをする。
今まで全戦全勝だった|智《ち》|里《さと》は、負けたというのに笑顔だった。
「え、マジ? 高井負けたの?」
扉付近の同級生が智里に聞いてくる。
「うん、負けた!」
悔しさを一つも滲ませず、智里が元気よく答えた。
「先生!」
智里が大声で担任を呼び、何事かと顔を向けた担任に勝負の結果を報告する。
「恵理が勝った!」
自分の負けを嬉しげに話す智里に、担任も少し困惑気味だった。
智里は改めて恵理に向き直り、恵理にだけ聞こえるように囁く。
「次は勝つから。もっと勉強してきてね」
恵理が勢いよく顔を上げたが、智里はその目を見ないように努めた。
もう、智里を追いかけるばかりの恵理じゃない。
これからはライバルだ。
2
誰もいない家に帰った智里は、電気もつけないまま、カバンを置いてその場にしゃがみ込んだ。
目から溢れ出た液体が、制服の袖を濡らす。
「あれ? なんでかなぁ……」
恵理が追いつくのを待っていた。
ようやく追いついてくれて、嬉しかったはずなのに。
「なんでこんな、悔しいんだろう」
負けず嫌いな性格は、小学校と一緒に卒業したと思っていたのに。
これじゃあ、智里が負けず嫌いのままに見えるじゃないか。
智里は床に体を投げ出した。袖で吸収できなかった分の涙が、頬を伝う。
なんでこんなに悔しいのか。
なんでこんなに涙が流れているのか。
まだ今の智里には、その理由が分からない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
「次は勝つ。完膚なきまでに叩きのめしてやる」
それは、この想いだ。
智里が達成しなければならないのは、志望校への合格。
大丈夫、ライバルに勝つのは寄り道じゃない。
合格までの道に、必ず恵理は立っている。
いつからやる? どうやる?
足取りを鈍らせる問いに、智里はたった一つの答えを返す。
「今から」
智里は一瞬で着替えを済ませ、カバンから勉強道具と手帳を取り出した。
手帳の空きページに、一日のスケジュールをざっと書き出す。
朝六時、起床。七時半に家を出て、家に帰るのは五時。七時頃から風呂や夕食、遅い日でも九時には自由になる。就寝は十時過ぎ。
そんな中で、日々の勉強時間は二時間弱。
一日のスクリーンタイムは一時間半強あり、そのうちネットサーフィンに費やした時間は一時間以上。
そこまで書き出したところで、智里はため息をついた。
無駄な時間が多い。スクリーンタイムを必要最低限にすれば、最低でも勉強時間は一時間増える。
睡眠時間は八時間。一時期十一時に寝ていたが、その時の睡眠時間でも日中の活動に影響はなかった。一時間ぐらい削っても問題あるまい。
手帳の隣のページに、大きな丸を描く。
丸の一番上を零時とし、新しい一日のスケジュールを組み始めた。
入試やテストは、日中に行われる。そうなると、勉強は夜より朝に行って、朝型の生活にした方が良いだろう。
起床は目標五時。遅くても五時半とし、起きたら勉強を始める。
学校に着いたら、隙間時間に暗記を行う。
家に帰ったらすぐに勉強を始め、一週間ごとに計画を見直す。
寝る時は思いきり寝て、前日の疲れを翌日に持ち越さないように気をつける。持ち越すのは記憶だけだ。
一日のスケジュールを書いて、智里の手がはたと止まった。
(実現できるかな、これ)
どんなに綿密な計画でも、実行できなければ意味がない。
智里は、今までのテストでそれを嫌と言うほど実感していた。
ペンの色を変える。青だ。
先ほど黒で書いたところの一部に青い線を入れた。
朝の一部の時間帯と、夕食後の三十分。
「最悪、ここは勉強できなくても」
どうしても続けられそうにない時にのみ組み込める自由時間だ。
智里は迷いなくペンを動かし、一日の行動スケジュールが完成した。
「よし。次は――」
スケジュールページを開く。
たぶん、次の勝負の舞台は夏休み明けの実力テストになるだろう。
ページに書き込んであった「実力テスト」の文字を、赤ペンで囲んで目立たせた。
次回のテストまで、およそ二ヶ月。
その間、実力テストの対策ばかりしておくわけにはいかない。受験勉強も進めなければ。
過去問は買った。五年分の入試問題が載っている。
実力テストの問題は入試問題に似せて作ってあるというから、過去問をやるのは一石二鳥だろう。
四月に実力テストを受けて分かった。理科と国語は入試レベルに達していない。それに加え、社会の暗記事項が弱いことも。
これから夏休みに入るまでは、二年生までの理科と社会の復習、国語の読解問題に時間を費やす。
学校の授業の予習・復習は極力やらない。授業内だけで理解を完結させる。
今後のプランを固め、智里は肩の力を抜いた。
凝り固まった肩を揉んでほぐす。
「やるぞ」
3
一日目。
スマホのアラームの音が耳元で鳴って、智里は飛び起きた。
それからスマホの光をじっと見つめる。
二度寝したい気持ちはなかった。それに備えて、前日は一時間早く寝たから。
ブルーライトを浴びているうちに、寝起きのぼんやりした意識が覚醒を果たす。
数学の教科書とノートを取り出し、机に向かった。
適当なページを開き、そこに書いてある問題を書き写す。朝のウォーミングアップは、簡単な計算問題からだ。
それが終わると、地理の教科書を本棚の奥から引っ張り出す。
地理は二年生で全て終わった。だから、教科書に載っていることは一度習っている。
智里はシャーペンを持った。一度読んで、忘れていたところに線を引くつもりだ。そうしたら、次は線を引いたところを読むだけで済む。
ほぼ全ての行に線が引かれた教科書を見て、智里はため息をついた。
(そりゃあ、社会の基礎知識に穴があるわけだ)
ちらりと時計を見る。六時を回ったところだ。
「きりが良いところでやめるかな」
智里が教科書を閉じたのは、六時半過ぎだった。
帰宅後、智里は机に出しておいた地理のワークとノートを開く。今朝読んだ内容の復習だ。
「あ……全然覚えてないや」
それでも、用語問題は大半が合っていた。
教科書を開き、合っていたところの線を消す。
もう一度教科書を開いて、線が引いてあるところを読み直す。読み直したら間違えた問題を解き直す。
そうするだけで、智里の一日目は終わった。
4
ベッドの中にて。
智里は今日の学習内容の振り返りと、翌日の勉強計画の作成を行おうとしていた。
(今日は、時差のところまで終わって……それ以外は何もしてないから……)
眠気が、智里の意識を|霞《かすみ》のように覆う。
(ん……寝よう)
ここで眠気に抗い続ければ、三十分ぐらい眠れなくなる。そうなれば、確実に明日に響く。
智里は意識を手放した。
「――ああ、かわいそうに」
「かわいそうってなに? 自分の感情を押しつけないでくれる?」
聞こえた声に、智里は反射的に言い返す。
言ってからしまった、と思ったが、言ってしまった言葉は口の中に戻せない。
それに、夢の中なのだから多少自由にしたって良いだろう。
「それは失礼した。次からは気をつけよう」
初対面で失礼なことを言ったのに、感情を昂らせないどころか、柔和に謝罪さえしてみせる。
どれだけ自分に都合が良い夢を見ているのかと、智里はぼんやり思った。
「本題に入らせてもらおうか」
本題? と智里は口の中で呟いた。
「願いを聞こう。何でも一つ、叶えられる」
「いらない」
間髪入れず、智里はその誘いをぶった切った。
両者の間に、しばし停滞が生まれる。
「なぜ? 叶えたいことがあるから、ここに呼ばれたんじゃないのか」
「あなたが誰かは知らない。けれど、私は自分だけの力で叶えたいから」
相手が押し黙る隙に、智里は勢いづいて言葉をさらに重ねる。
「夢ってそういうものじゃないの? あなたの力で叶えてもらったら、それは裏口入学と何が違うの?」
裏口入学。智里がその言葉を発した時、彼女の言葉を遮る勢いで笑い声が漏れ出た。
「遮って悪かった。続けて」
智里は一瞬むっとした顔を向けるも、すぐに話し始めた。
ひょっとすると、これは自分に都合の良い夢ではないのかもしれないという疑念を胸に抱きつつ。
「あなたの力はいらない。自分だけの力で|勝利と合格《ゆめ》を勝ち取る」
智里は深呼吸して、啖呵を切る。
「私があなたに願うのは、私が夢を叶えるのを見守ることよ!」
静寂が辺りを支配する。
その静寂を、またしても笑い声が切り裂いた。今度は、さっきよりも大きく。
「ふ、くくく……あっははは!」
「何がそんなに面白いの?」
自分の本気の想いを笑われて、智里の声が低くなる。
場合によっては、一発入れることも辞さない構えだ。
「ふ、く……いや、本当にすまない」
これで三回目。仏の顔も三度まで、いくら怒るのを堪えている智里であっても、我慢の限界に達する可能性は否定できない。
靴の音が響く。
「初めて見た。こんなに与えられるのを拒否する人間は」
顔を掴まれ、智里は嫌悪感をあらわにする。
「やってみろ」
その言葉に対し、智里は強く睨みつけるだけだった。
「良い顔だ。精々頑張れ」
その言葉に滲むのは、自力で困難を達成しようとする人間への侮蔑。
効率より感情を優先する人間を見下す気持ち。
「もし必要になったら、また来い」
最後まで失礼な態度を取り、空間の崩壊が始まった。
それに伴い、智里の意識に入眠時と同じような霞がかかる。
思考がおぼつかない中、それでも智里は叫んだ。
「来るわけないでしょ!」
耳元で、最大音量に設定されたアラームが鳴っている。
そのうるささに顔をしかめ、智里は起き上がった。
「ん……」
何か、夢を見ていた気がする。とても大切な。
けれど、その夢の内容は思い出せない。
砂漠で追う蜃気楼のように、追いつけそうなところで追いつけない。
その気持ち悪い感覚を飲み込み、智里は今日の分の勉強を始めた。
5
「よし、前よりできるようになってる」
前日に間違えた問題を解くと、解けるようになっている問題があった。寝る前に教科書を読んだおかげだろうか。
しかし、それでもなお、解けない問題がある。
例えば、何度覚え直しても一文字間違える用語。
例えば、「耕」の字の横棒を二本にしてしまうようなミス。
例えば、問題文の数字を読み間違えて計算するような空目。
例えば、上下の用語が合体して見えることで生まれる、新珍語。
だんだん自分のミスの傾向を掴んで、気をつけることができるようになってきた。
「その調子だ、私。頑張れ」
そう小さく呟いて、自分を鼓舞する。
「学校で何か勉強したいな」
休憩時間や、給食後の時間など、暇な時間はいくらでもある。
演習をするようなまとまった時間は確保できないだろうから、暗記や一問一答をするのが良いだろう。
「んと……あったあった」
智里が本棚の奥から引っ張り出したのは、買ってから一度も使っていない単語帳。
入試では英作文も出るというし、単語力を付けていて損することはないはずだ。
単語帳の埃を払い、カバンに入れた。
「待って、めっちゃしんどい」
三日目。勝負の三日目だ。ここで続けられるかどうかで、三日坊主になるか否かが決まる。
一日目はやるぞと決めた時のやる気で頑張れる。
二日目はモチベーションが続いていて乗り切れる。
三日目からはガス欠になってくる。
智里は今すぐペンを置いて、ベッドに逆戻りしたい衝動に駆られた。
「折れるな」
ここで自分の気持ちに負けて、どうする。
以前と同じ状態に戻りたくなるのは、人間として当然の本能だ。
災害が起こりそうな時になかなか避難を始められないのと同じ。
人間は「いつも」を維持しようとする生き物。
大丈夫、今日を越えれば楽になる。朝六時に起きて勉強する生活を始めた時も、四日目から楽になったのだから。
「負けるな」
自分を励ます言葉を口にして、必死に耐える。
折れるな。三日坊主なんてダサいだろ。
負けるな。恵理との勝負以前に、自分に負けてどうする。
まだ頑張れる。取り敢えず今日だけは頑張ろう。
智里は唾を飲み込み、教科書に前のめりになった。
「私はまだ頑張れる」
目が覚めてスマホで時間を確認すると、四時五七分だった。
五時前に、自力で目覚めた。
小さな進歩に、智里は小さくガッツポーズをする。
アラームに起こされるのではなく、自然に起きたおかげか、いつもより眠気が少ない気がした。
アラームの画面を開き、予定されていたアラームを止める。
そのまま脈絡もなく起き上がると、頭がくらっとした。
壁に手をついてやり過ごす。
前日までのしんどさはどこへやら、智里は自然と教科書を開いていた。
6
智里が今の生活を始めて、三週間と少しが経った頃。
家に帰った智里は、いつも通りノートとワークを開いた。
――この三週間で、変わったことが一つだけある。やっている教科だ。地理から歴史へ。
今日は、その記念すべき一日目である。
智里が気合を入れてペンを持った瞬間だった。
「――?」
背後。僅かに空気が揺らいで、温度が上がった気がした。
智里は芯を出したシャーペンを持ったまま、素早く後ろを振り向く。
「えう!? ご、ごめんなさい!」
聞き覚えのない声だった。
見たところ、小学生だろうか。何も持たず、両手を動かしてあたふたしている。
「説得力はないかもしれないけど、俺は不法侵入しようとしてたわけじゃないんです! どこに飛ぶか分からないのに飛んだのは俺が悪いけど! 悪気があったわけじゃありません」
悪気がなかったと主張する少年。その主張の中に交じる自分の非を認める言葉が、少年の純粋さを表していた。
「要するに、わざとじゃないってことね」
智里は持っていたシャーペンを机に置き、
「で、どうやって入ったの?」
恐らく、この場で最も重要になるであろう質問を投げかけた。
「それに答えるためには、お姉さんに俺の質問に答えてもらう必要があります」
「分かった。それと、私のことは智里で良いし、敬語じゃなくて良い」
少年の真剣さを帯びた目に、智里も本気になる。
ひとまず攻撃の手を頭から消し、椅子を一八〇度動かして少年に向き直った。
「『かわいそうに』と言って現れる男。その男は、どんな願いでも叶えてくれる」
かわいそうに。その言葉を聞いた瞬間、智里の胸がどうとは言えないほどにざわついた。どうしようもない嫌悪感に、おかしくなりそうになる。
「その男を知ってる? ――って、聞くまでもないよね」
そうだ。思い出した。
今まで忘れていた理由が分からないほどの、鮮烈な記憶。
夢という名のフォルダのごみ箱に入れられていた、大切なもの。
智里の決意を笑った男への、反骨精神。
智里の様子を見て、少年が察した。
智里が首を縦に振ってそれを肯定すれば、少年も首を振って了解を示す。
「分かった。俺のことも話すよ」
――少年が口にした話は、荒唐無稽なものだった。何でも願いを叶えてくれる男というのも荒唐無稽なものだが、それ以上に。
「俺はその男に、ある力をもらった。一瞬で移動する力さ。距離も何も関係ない。俺が条件を指定すれば発動する」
少年が語った嘘みたいな話は、彼がここにいることで真実だと証明されている。
もしあの時、智里が啖呵を切らなかったら――あのような、根底から|覆《うつがえ》す力を得られていたのだろうか。
智里はそんな自分の考えに、首を横に振る。
智里が力をもらう道はない。何度やり直しても、絶対にあの返答を選ぶ。
ありえないことへの思考はよせ。時間の無駄だ。
「俺はあいつを追ってる。協力してくれないか」
少年の目を見て、智里は言葉を発しかけた。今言おうとした言葉が、どんな言葉かは分からない。けれど、すぐに結論を出すのは危険だ。
協力するな、と言う自分がいる。
少年とは、どこにも関係や繋がりがない。
協力する義理がない。
協力するメリットは見当たらず、デメリットばかりが目につく。
自分のことだけで精いっぱいで、他人に構っている余裕はない。
協力しろ、と言う自分がいる。
あの男が気に食わないから、もう一度会ってしっかり言ってやれと。
あれだけ真っすぐで純粋な少年に協力しない選択肢はない。
理性は前者で、感情は後者。
智里はまだ答えが出せず、それでも場を持たせるために口を開く。
「……名前。名前は」
少年がきょとんとした顔をした。
「ああ、確かに順番が逆だ」
そこで少年は一つ咳払いをし、
「俺の名前は|海堂《かいどう》|渉《わたる》。いつかあいつに向き合うのさ」
その見事な口上に、智里の揺れていた気持ちが一つに定まる。
その選択が本当に智里にとって良いものなのかは分からない、だが、
「私は高井智里。よろしくね」
そう言って、智里は手を差し出したのだった。
「今から、時間ある?」
「七時までに帰れるならね」
渉の質問に、智里はそう答えた。
こっそり外出して、戻ってくる。渉の力があれば容易だ。
それに、デートに誘っているわけでもないだろう。母親にバレさえしなければ、断る理由がない。
「もちろん」
時刻は五時を回ったところ。よほど長い用事でなければ、七時に間に合う。
「行くよ。掴まって」
渉が差し出してきた手を、智里は反射的に取った。
渉は智里の手を強く握りしめる。
「待って、靴……!」
智里の焦りの声は、
「大丈夫さ」
そんな声に遮られ、彼らは空間を越えた。
7
「ようこそ――と言っていいのかな?」
渉の言葉で我に返った智里は、渉に食って掛かる。
「ちょっといきなり過ぎない? 心臓が止まっちゃってたかもしれないよ」
「あー……ごめん?」
疑問形で放たれた謝罪の言葉が、智里の言葉を更に激しくさせる。
そうして口論している二人に、一つの影が歩み寄った。
「はいストップ!」
そう高らかに告げた声に、二人の意識は釘付けになる。
少女だ。背はそこまで高くなく、せいぜい一五〇センチ後半程度。中学生ぐらいの見た目だ。
一人は喜び。もう一人は困惑。
それぞれ異なる感情が自分に向けられたことを確認した少女は、顔に軽く笑みを浮かべて言った。
「まずは中に入ってからにしましょ」
その言葉を聞いて、智里は自分が周囲の確認すらしていなかったことを思い出す。
慌てて周囲を見回すが、先を行く渉に引っ張られてままならない。かと言って振りほどくわけにもいかないが――
「地下?」
その必要はなかった。
辺りに広がるのは灰色のコンクリート。壁も、天井も、床も全てが灰色。
天井には蛍光灯が取り付けられており、地下室や地下駐車場を|彷彿《ほうふつ》とさせた。
それに加えて、どこにも出入り口がない。
目の前の少女が向かう先以外、進む場所も。
「ここに来るための手段、俺の転移ぐらいしかないからさ」
目の前を歩く渉によって、智里が逃げられないことを告げられる。
もっと覚悟してから来れば良かったと、智里は何の利益にもならない後悔をした。
「さて、到着」
先頭を進む少女がそう言うと、殺風景な散歩は終わりを告げる。
特に風景が変わった気はしないが、調度品があるのだからそうなのだと、無理やり納得した。
「座って」
隅に立てかけられているパイプ椅子を人数分取ってきて、少女が言った。
渉がパイプ椅子に座るのを見て、困惑している智里も遠慮がちに座る。
「自己紹介、してなかったね」
少女が智里に向き直る。
「私は|夏《なつ》|見《み》|香《か》|織《おり》。香織って呼んで。どうぞよろしく」
そう言って差し出された手を取りながら、
「私は高井智里です。呼び方は何でも。よ、よろしく?」
疑問混じりの、締まらない自己紹介を行った。
「敬語はいらないわ。今の私はあなたと同年代だもの」
少し引っかかる物言いだったが、智里は口に出すことはせず、
「分かった、香織」
香織の要望に応えた。
「えーと、色々聞きたいことがあるだろうから、一つずつ説明させて」
智里が無言でうなずき同意を示すと、香織は静かに話し始めた。
「まず私たちの目的は、あの男に会うこと。あの男に会ってから全体として何をするかは決まっていないけれど」
あの男――とは、渉との会話に出てきた男か。
その言動の何から何まで、智里の気に障る男だった。
「ちなみに俺はあいつと話したい! なんか悲しそうっていうか、寂しそう? とにかくそんな感じに見えたから」
香織の声に割り込む形で渉が口を開いた。
悲しそう、か。智里には、あの男が面白がっているようにしか見えなかったが。
人によっては、そんな感情を感じ取れるのかもしれない。
「私は一発ぶん殴ってやりたいわね」
「俺が話した後にしてくれよ?」
香織の願い事は、渉とは真逆と言えるものだった。
「智里ねーちゃんは?」
渉が目を輝かせて聞いてくる。
特に何も考えていなかった智里は、言葉に詰まった。
あの男は嫌いだ。
具体的に何がどう嫌いとかじゃなく、根本的に相容れない。
しっかり、ぴしゃりと言ってやる。――初めて会った時にしたのと、何が違う。
かと言って、殴るなどの直接的な行為に出るのも違う気がする。
「まだ分かんない。けど、あいつを否定してやりたい」
その言葉を聞いた渉は目を|瞬《しばたた》かせて、
「否定……がつんと一発、言ってやるってことか?」
「うーん、それとは少し違うかも。はっきりした証拠――根拠をもって、自分の思うことを言うって感じかな」
「おー、いいじゃん!」
はっきりした輪郭を持っていなかった自分の感情を、渉が形にしてくれた。
渉には、言葉で言い表せないもやもやした何かを感じ取る力があるのかもしれない。
「良いわね。じゃあ、本題に戻る――と言っても、私と渉の紹介の続きになるかしら」
香織が軽い賛同を示し、話を進める。
「お、香織姉、あの話するの?」
渉が期待に満ちた眼差しで香織を見る。
香織は、うっとうしげに手を振った。
「そうだけど、落ち着きなさい」
「ん」
渉が引っ込み、香織が気を取り直して口を開く。
「今だと、歴史の教科書にも載ってるかしら? 国の最高指導者の不審死による、国の崩壊。その犯人は、私よ」
「……」
香織の言わんとすることは理解できた。それが、どの出来事を指しているのかも。
その出来事は、歴史の教科書の現代のところに二文程度で載っている。または巻末の年表の端っこに。
「あれ? もっと驚くと思ったんだけど」
反応を見せない智里に、香織が意外そうに言う。
違う、驚いていないわけじゃないんだ。
その逆。驚きすぎて、声が出ないだけ。
そう言いたいのに、脳はその感情を不要なものとしてスルーする。
もっと他に、考えなければならないことがあるから。
「何歳なんですか?」
あれは、何年も――それこそ、十年以上前の出来事だ。
香織が見た目通りの年齢だとしたら、辻褄が合わなくなる。
「そっちかあ。ざっと二十ちょっと」
「二十『ちょっと』ですか……」
その「ちょっと」に何年含まれているのやら。
「でも、そっちが本題じゃないのよ。伝えたいのは私の力の話。それと、敬語はやめてもらえるとなあって」
「あっ、はい……うん」
変な方向に飛びかけていた智里の意識が引き戻される。
「簡単に言うと、私が持ってる力は――『命を入れ替える力』」
「――!?」
智里の驚愕の声に気づいてか気づかずか、香織はそのまま話を続ける。
「噛み砕くと、私は人と人の寿命をそっくりそのまま移動させることができる。その時、離れた年齢の人と入れ替えたら、生を経験した年数分の姿を自由に取ることができるようになる。まあ、こんな感じの説明かしらね」
香織が若い姿のままな理由は分かった。
しかし、この姿を取れるということは――
「使ったんだ、自分に」
「まあ、やむにやまれぬ事情があったとはいえ、そうなるわね」
香織は、そのことをあっさり認めた。
ということは、罪悪感を覚えるような使い方ではなかったのだ。自分が死にかけたとか、相手が十割悪いとか。
「次は俺だね」
渉が名乗りを上げる。
「俺の力は、知ってるとは思うけど『移動する力』だ。あいつにもらった時はもっと別の言われ方だった気がするんだけど……覚えてねぇ」
智里はうなずく。渉の力はここに来るために使ったから、知っている。
「俺の方は見た目と実年齢が違うなんてことはないから安心して――って、|痛《い》てっ!?」
香織が渉の頭をぐりぐりしていた。
女性に年齢の話は禁句なのだ。
「渉も、出会った時とは比べ物にならないぐらいクソガキになったわね」
「クソガキ!? 俺は比較的人畜無害に生きてるぞ! 少なくとも、香織姉よりはな」
香織が吐いた毒に、渉がぎゃんぎゃん喚き散らす。
渉が触れてはいけないところに触れやしないかと智里は内心ひやひやしたが、香織の様子を見る限り大丈夫そうだ。
「次は私の番、かな?」
智里が聞くと、二人は大きくうなずいた。
なんとなく、空気が重く感じる。二人はすごい力を持っていて、智里は持っていないから。
でも、話すことは単純明快。
「私は、どんな力ももらっていない――受け取り拒否したって方が分かりやすいかな」
しんとした静寂が辺りを支配する。
「え、マジ?」
渉の声が、驚いて固まる口から紡ぎ出された。
「っ、ははは! 良いね!」
かと思えば、香織の口からは笑いと共に称賛の声が紡がれる。
「だって、あいつ明らかに私たちを下に見てるじゃない。そんなやつの施しを受けるのって――」
智里は言葉を重ねるが、それが彼らに届いている様子はない。
渉は固まり、香織は笑い転げているのだから。
「ん……」
それに気づいて、智里は語るのをやめた。
語っても誰も聞いていないんじゃあ、意味がない。
「ふふ、くく……。ああ、ごめん。続きを聞こうか」
笑っていた香織が復帰したことで、智里はようやくまた口を開く。
「続きってほどじゃないけど……私はあいつに言ってやった。見てろ、ってね」
「それは……」
香織が目を丸くする。
「傑作だ」
笑みを深めて、香織はそう言った。
「なあ、そろそろ試していいか?」
硬直から復帰した渉が、ひょっこり首を出してくる。
「試す?」
「まあ、見てなよ」
智里の疑問に、渉は見ていろと言って答えない。
そのまま目を閉じて集中し始めた渉を、智里は黙って見つめた。
「んー、ダメ……だけど今まででいちばん近い」
「そう。ご苦労さま」
渉の報告の後、香織が渉の頭を撫でる。
「渉の力については話したわね。彼が言うには、その力を使ってあの男の元へ行けるらしいの。それで、毎日一回ずつ、行けるかどうか確認してもらっているのよ」
へぇ、と智里が納得したように呟いた。
「やっぱり、直近であの男に会った人が近くにいると近づくんじゃないかな」
渉が口を挟む。
「となると、渉の定期確認は智里の近くでやった方が良いわね」
「ん、そうだね」
渉と香織の間でトントン拍子に話が進む。
当事者であるはずの智里は置いてけぼりだ。
「そういうことで、智里ねーちゃん、これからよろしく」
智里が、自分だけの力でここに来ることはできない。渉が智里の元に来ること以外、接触の手段はない。
つまり、明日から毎日一回渉が家に来るということで――。
「うん」
智里を襲った衝撃が顔に出ないよう、努めて平静を装った。
8
「うーん、やっぱり届かない。前より遠くなってるみたい」
日を追うごとに、あの男との距離は遠ざかるばかりだった。
「でも、智里ねーちゃんがいないともっと遠いから。智里ねーちゃんのおかげだよ、こんなに近いのは」
かわいいことを言ってくれるではないか。
智里は渉の頭に手を置いて、撫で回した。
「ちょ、やめろって」
口ではそう言いつつも、まんざらではない様子。
「何か対策しないといけないね。まあ、でも――」
渉の頭を撫でる手を止めた後、智里はカレンダーに目を遣った。
カレンダーには実力テストの日に大きく丸がつけられ、今日までの日付にはバツが連なっている。
ついに、バツが実力テストがある週に並んだ。
「もうすぐ、もうすぐで再戦できる」
そして、その結果にあいつは興味を示すはずだ。
現在の状況をひっくり返して望む結果を得られる力、それを手にする機会を蹴った智里がどういう結末を迎えるのか。
戦いの舞台は今週の金曜日。
結果発表は今月末。
結果発表の日――その日が、あの男に会うチャンスとなる。
9
そして、八月末。
実力テストの結果が返却される。
智里は緊張して、答案と総合結果を受け取る列に並んだ。
本番でどんな戦いがあったのか、それは智里の胸の内にのみ存在する。
激戦だった。あれだけ重ねてきた努力がちっぽけなものに感じられるほど。
問題用紙は事前に返却され、手元にある。
先生の手から、答案を挟んだ総合結果を震える手で受け取った。
席に戻り、総合結果をそっと開く。
取り敢えず、苦手な国語含め、全教科九十点台に乗った。
総合は四八〇点超え。やはり国語が足を引っ張ったのか、三教科の合計は二九〇に届かなかったけれど。
前から回ってくる模範解答・解説のプリントが、智里の机に乱雑に積み重なっていく。
周りは互いの点数を比べて笑い合っていた。
恵理は隣のクラスだ。勝負の結果が分かるのは、早くても授業後。
それまで逸る心を現実に留めるため、智里は結果の紙を机の中に滑らせた。
全員の結果返却が終わり、前に立つ担任が何か話している。
話している内容は、今回の結果に一喜一憂せず、これからも勉強していきましょう、とかそんなありきたりなものだ。
担任の話を右から左へ聞き流し、チャイムが鳴るのを今か今かと待ちわびる。
チャイムが鳴った。それと同時に飛び出しそうになる体を理性で押さえつけ、退屈な号令を済ませる。
「ありがとうございました」
誰に対するものかも曖昧になった感謝。最後の「た」を言い切った瞬間、智里は教室の扉を開けて廊下へと躍り出る。
「――ぁ」
それは果たして、どちらの声だったか。
目の前には、同じように出てきた恵理がいた。
――何点だった? なんて聞かずとも、互いが同時に口を開く。
「四八五」
「四七八」
前者が智里で、後者が恵理。
「か、った?」
七と八。数字の大小は分かるのに、勝ったことを脳が理解するのはずいぶん遅かった。
「だー! 負けた!」
智里の目の前で、恵理が悔しそうに手を握っている。
それを見て、ようやく実感が湧いてきた。
「――――っしゃあ!」
廊下を通る人たちの目を一切気にすることなく、智里と恵理は互いの結果に喜び、悲しむ。
それは、掃除の始まりを知らせる音楽が流れるまで続いた。
10
家に帰ると、部屋に渉と香織がいた。
「待ってたよ。ほら、早く」
そう急かす渉を横目に、智里はカバンを下ろしてネクタイを外す。
「何してるの、渉。着替えるから出て」
渉もそこまで頭の回らないガキではない。
「俺にだけ厳しくない?」
「ほら、ちゃっちゃとして。あ、香織はそのままで良いから」
渉と一緒に外に出ようとした香織を、智里がそう呼び止める。
「別にいいわよ。私も、他人の着替えをまじまじと見る趣味はないもの」
「そう? なら」
確かに言われてみれば、智里の着替えを見せつけられる香織は良い気分にはならないだろう。
そう考えて、智里はあっさり引き下がった。
「じゃあ、なるべく急ぐから」
そう言って扉を閉めると、
「早くねー!」
扉の外から、そんな渉の声が聞こえた。
そのまま渉と香織が話しているのか、ずっと外からくぐもった声が聞こえる。
「智里ねーちゃんがあの男と会ったって、どうやって確認するの?」
「転移できるか渉がずっと確認すればいいんじゃない?」
「俺!? あれ、結構集中力要るんだけど」
「適材適所ってやつよ。あの男の元へ行くには、渉の力を使うしかないんだから」
「しょうがないなあ。分かった、香織姉」
どうやら、智里が眠りに落ちた後、どうやってあの男の元へ転移するか話しているようだ。
「ちなみに、途中で俺がダウンしたら……」
「そうならないように頑張って」
次善策はない。
この策のみの一発勝負。
あの男との距離を近づける役割を持つ智里も、自然と身が引き締まる。
決意を固めるのとほぼ同時に、智里の着替えが終わった。
勢いよく扉を開け、外にいる二人を呼び込む。
「じゃあ、改めて作戦を確認するわね」
香織の声を、黙って聞く。
「初めに、智里が寝る。眠りに就いたのを確認したら、私と渉が転移。智里、渉、私の順番にやりたいことをやる」
智里の役割は『寝る』、ただそれだけ。
それだけだが、いちばん重要な役目だ。あの男との距離が近づかなければ、渉の力も発動しないのだから。
「渉、オーケー?」
「うん」
小さい声ながら、渉の声には芯があった。
「智里は?」
やれるだろうか。
自慢じゃないが、智里は緊張しやすい。人見知りでもある。
本番で失敗する心配も、十分にあった。
「智里?」
大丈夫、きっとやれるさ。
意識のブレーカーを落とすように、ゆっくり眠りに落ちていけば良い。
そうしているうちにいつか夢を見始めることを、智里は知っていた。
だから、慣れない環境でも、きっと大丈夫――。
「智里!」
はっと我に返ると、香織の顔が目の前にあった。
「大丈夫?」
「……うん」
香織からの問いに、少し間をおいて答えた。
「大丈夫じゃないなら、降りていい。機会はまたきっと来る」
静かに語る香織の顔にこの機会の損失を惜しむ色がよぎるのを、智里は見逃さなかった。
頼れるリーダーのように振る舞ってくれていても、長い世界の歴史と比べると香織はまだ若造だ。未知の存在に挑む不安は、どれほどのものか。
「いいや、大丈夫。大丈夫だから」
するりと、そんな言葉が口をついて出た。
「無理しなくていいから」
なおも香織は智里を心配して、やめられると声を掛ける。
「大丈夫」
智里の役割は、寝ることだけ。
疲れた頭を休めるだけ。
そう自分に必死に言い聞かせる。
そうすれば、緊張せずに自分の役割を果たせると思ったから。
「……智里がそう言うなら」
何度言っても意見を変えない智里に、香織が折れた。
予定通り作戦に臨むということで、寝床の準備が整えられる。
ベッドに潜り込んだ智里へ、香織が最後の声を掛けた。
「大丈夫?」
「うん」
力強く、うなずいて。
智里の意識は、深い闇に呑み込まれた。
「――久しいな」
深い意識の底で、智里は二度目の邂逅を果たす。
「来ると思っていた」
「来るつもりはなかった」
相反する言葉をぶつけ、正面から睨み合う。
「私、あなたの力を借りなくても勝てたから」
そう口火を切って。
「そうだな。だが、次はどうする? その次は?」
どちらが正しいかを決める、論争が始まった。