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雑巾の味
2025/10/08 雑巾の味
浅井律の毛先から、少し濁った色の水滴がぽたぽたと落ちていくのを、私はぼうっと眺めていた。今は掃除の時間だけれど、掃除に集中できるわけもなかった。浅井が頭から被っている濡れた雑巾が、ずるっと肩に落ちた。「やだー、うっかりしてて転んじゃった!」浅井に雑巾を投げた櫻美玲が、お茶目に笑いながら浅井の方を見た。転んだ拍子に雑巾を投げてしまったようだった。「浅井くん、ごめんね? ただでさえ汚い服が、もっと汚くなっちゃった!」弱く笑いながら、浅井は雑巾を取って返そうとしたが、櫻はそれを受け取らなかった。
「浅井くんの汚い顔に着いちゃったんだもん、使えないよ。」だからそれ、あげるね! と櫻はにっこり笑った。それはこの世の何よりも美しく可憐な笑顔で、きっと浅井以外の全員が見惚れてしまったのだろう、先ほどまであった小さな笑い声が無くなった。櫻の完璧な表情は、まるで天国にいるかのような不思議な感覚にさせた。浅井の嗚咽で、私は意識を現実に連れ戻すことができた。浅井は泣いていた。クラスメイトの始めた見た涙に、数人が動揺したように声を上げた。担任が来たら、やばくない? と誰かが言い、まあ大丈夫でしょと誰かが答えた。うちのクラスの担任はこのいじめをあまり大事にしたくないようで、今のところ見て見ぬふりをしている。
「男なのに、情けねーなー。」このクラスで1番背が高く体もがっしりとしている男子がそう言って笑った。確かに、浅井は情けなかった。女子よりも背が低く、体力もなく、肌の色も白かった。華奢で細くて、腕なんかは私が少し力を込めるだけでも折れてしまうんじゃないかというくらいだった。「もっと筋肉、つけりゃいいんじゃねえの?」その男子は涙を流したまま一歩も動かない浅井の、男子にしては長い髪の毛を掴み、ぐいと引っ張った。浅井はやめてと男子のことを突き飛ばそうとしたが、あんな貧弱な腕では突き飛ばせるわけもなかった。
私はふと今が掃除の時間であることを思い出して、教室の隅のロッカーを開けてホウキを取り出した。それを見て、櫻が可愛らしい声を出した。「あーっ、そうじゃん、掃除の時間じゃん! 浅井くんのせいで遅れちゃったあ。」声とは反対に、つららのように冷たく尖っている視線を浅井に向けたあと、櫻は跳ねるように新しい雑巾を取りに行った。急速に「掃除の時間」に戻っていくクラスメイトらの中で、浅井はただ震えていた。ホウキを持ったクラスメイトが、このゴミ大きすぎーと浅井を掃こうとした。クラスに笑いが溢れ、それに合わせたのか単純に面白かったのか、私の口元にも小さな笑みが浮かんだ。それが少し嫌だった。でもすぐに、周りに馴染めている証拠なのかな思い直して、喜びを感じた。その喜びを噛み締めてみたら、なんだかすごくまずかった。汚れた雑巾みたいだと思った。汚れた雑巾を食べたことなんて、一度だってないはずなのに。
あとがきがき