名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
公開中
〖牛歩の希望〗
テーブル席で向かい合う形になりつつ、頼んだイングリッシュマフィンの上に、ポーチドエッグとオランデーズソースが添えられたエッグベネディクトとホームフライを頬張った。
近くのラジオからはロマンチックな曲調の優雅な音が聞こえ、目の前の|売女《リプルト》が黙って俺がフォークと口を動かす様を見ているのが異様に恥ずかしかった。
口の中のものを喉へ呑み込み、空いた口で言葉を漏らした。
「…なに見てるんだよ」
「身なりのわりにはテーブルマナーのなった食べ方をするなと思って」
「そりゃどうも」
「……ねぇ、貴方のそのチョーカーって誰に貰ったの?」
「誰だっていいだろ」
「外したら?」
「なんの為に」
「だって、誰かに飼われてるみたいじゃない。アメリカは自由の国でしょう?そんな国の傭兵がチョーカーなんて似合わないわ」
「…何が言いたいんだ」
「……自分自身を解き放って、本当に自由な姿になるの。誰も彼も知らない土地で、好きな人と好きなように生きるの。それって、凄く素敵じゃない?」
夢を語る少女のように話すリプルトを見つつ、俺は|昼食《モーニング》を食べ終えて首の白いチョーカーを触りながら口を開いた。
「悪いが、|夢物語《カウンセリング》を受けに来たわけじゃない。そろそろ仕事の話をしてもいいか?」
「少しくらい|恋愛《ロマンス》に染まったって悪くはないんじゃないの?」
「……誰と?」
「…もう、いい…仕事の話をしましょ」
急に機嫌が悪そうに席を立ち、俺が|金《チップ》を置いたのを確認してから俺の手を引こうとするリプルトに釣られるままダイナーの建物の裏側にある裏口へリプルトが先に入り、「少し待ってて」とダイナーの裏で待たされる。
その直後に待ってましたと言わんばかりにレイズが壁にもたれ掛かるような形で姿を現した。
『乙女心ってのは、よく分からないもんだな。V、上手く行けば一発ヤれたんじゃないか?』
「…お前は下半身に脳があるのか?この状況で、下の話なんか気にするやつがいるかよ」
『へぇ?人肌寂しくないほど、てめえは冷酷ってことか?』
「出会ってすぐに、女性を口説きそうなクズに言われたくないな」
『……随分と潔白な奴だな。しかし、あの女は脈はあっただろ』
「仕事上、プラベートなことはしたくない」
『ああ…そうか。なら、考えといてくれよ。男の頭の中にずっといるなんて気が狂いそうだ』
「だったら、出ていけばいい。ずっと言ってるだろ」
『出来るもんならな』
そうレイズが吐き捨てて裏口に置かれていた異臭のするゴミ箱を蹴る真似をした。
振った足がゴミ箱をすり抜けるのを見てため息をつき、金髪で整えられた髪を掻き毟った。
ホログラムの身体が乱れ、近くにいたネズミが道端にある腐ったチーズを咥えてレイズの身体を通り抜ける。
ランチタイムは親しみのあるダイナーだが、衛生状態は悪い。それでも、母のような優しさがある。まるで、|修道女《シスター》のように。
しばらくして、リプルトが顔を出し、手慣れたように俺を手招いた。
後ろで金髪のゴミが『ああ、いいな…襲っちまえよ』とヤジを飛ばすのを無視して、ネズミが走る地面を渡った。
ダイナーの裏口はひどくこざっぱりしていて、表から見える厨房の姿はなく、コレクターのように武器が大量に並べられていた。
銃火器、鉤爪、刀、斧、短剣…様々な種類のものが並び、どれも一級品の輝きを放っている。どうやら持ち主は相当思い入れがあるらしい。
その光景に俺は嫌な予感がしながらも言葉を絞り出した。
「…それで、俺はここで何をしろって?」
それにリプルトが、きょとんとした顔で答える。さも当然というように。
「武器を選ぶんじゃないの?あたし、武器商人じゃないんだから知らないわよ」
「武器商人じゃないって…じゃあ、何でお前…」
「あたしは|風俗店《ドールハウス》の|商品《ドール》よ?単に、ここのオーナーとそういう関係だから、そのコネで昼はここにいるだけ。
知ってるでしょ、そういうことをやっていたら不思議と縁が強い人と知り合うのよ」
「…ああ、そうだな……じゃあ…ええっと、何か一つ貰っていけばいいか?」
「いいわよ、好きに選んで。代金はいらないらしいから」
あっけらかんと言い放ったそれに「そうか」と返して、並んだ武器の林を見やった。隣でレイズが刀を気になっているのか、触れもしない物色をしている。
『…V、すげぇな、これ…俺が昔使ってた“|模造品《レプリカ》の|童子切安綱《どうじきりやすつな》”と酷似した刀もあるぞ…こっちは同じように|江雪左文字《こうせつさもんじ》だ、いくら|模造品《レプリカ》といっても、斬れ味は確かな50年以上の代物だ。
彫られた名前も有名な巨匠のようだし、ざっと1000万はくだらないぞ』
へぇ、刀の話はよく分からないな。
頭の中で適当に返して、棚の中でコンパクトに折りたたまれた小さな黒い棒状のものが目に入った。気になって手を取り、棒状の中に高度からの衝撃を吸収するアセットが入り、青いエネルギーパックが剥き出しになったそれの中の小さなスイッチを押した。
その途端、折りたたまれていた鮮やかな翠色の柄が飛び出し、最後に銀色の刃のブレードができて古典的な斧の形状になる。
最後にブレードと柄に衝撃吸収を作用させる管の配線が全体に白く光って行き渡った。
柄に沿って露出した配線の中を追うと、刃が一時的に熱せられるような機能が見える。
要は高度からの衝撃を吸収し、刃が一時的に熱を帯びるコンパクトな折りたたみ式の斧らしい。
頭の中で物を検索するツールを起動して、名前を検索する。青いサイバーの線が斧の形状を捉えて、目先に『|Absorption Heat Machete《アブソープション・ヒートマチェット》』と表示される。
どこかノイズの混じった口笛が聞こえて顔をあげるとレイズが楽しそうに携帯型の斧の刃を指で撫でた。
『それにするのか?V、てめえのインプラントは…|jumping《跳躍》だったよな』
それに何も答えず、ただ柄に巻き付いたチューブの露出部分を薬指でなぞり、質量を確認するように何度か振った。
頭の中で「高く跳ぶだけじゃ、降りる場所を選べないからな」と返したその時、視界の隅に通信を示すアイコンが点滅した。耳の奥で直接鳴り響くコール音。ノイズ混じりの発信元表示は“デイトバック”…“グク”だった。
[“_ハロー、ハロー?V、聞こえてるか?”]
「ああ…一応、貰うものは貰ったが…これで正解だったのか?」
[“_問題ない。元から、そのつもりだったんだ。早めの入隊サプライズってこったな”]
「…そりゃどうも。それで?何か言うことがあるのか?まだ昼前だが、家にでも帰れって?」
[“_帰りたけりゃ勝手に帰れ、その代わり|入隊祝いの酒《ファンファーレ》はないぞ”]
「つまり…何が言いたい?」
[“_仕事だ、仕事。耳の穴をかっぽじって聞けよ、|実体防護大統領警護規約《ESPSP》の連中からの依頼だ、要は影の薄い国家様だな”]
「…ESPSP?」
[“_お国お抱えの我らが大統領、クリプトン・ミリティアを守る専属ボディーガードみたいなもんだよ、怖〜い組織だ”]
「それが一体、何の用なんだ?」
[“_なんでも、|クソ女《クリプトン》のボディーガード救出作戦に増援してもらいたいらしい”]
「グク、知り合いなのか?」
[“_知り合いも何も、服役時代の同僚だ。数十年前はちょっとした紛争や戦争が多かったのさ、歴史には載ってないけどな”]
「それは…ご苦労様だな」
[“_ああ。労うのはいつでもできる、適当にどっかの荒くれも派遣したからちょっと行ってきてくれ。こっちは行くところがあるから、抜けるぞ”]
「…了解」
通信が切れるのは早く、頭の中でしばらく機械音が響いた。
いつの間にか、リプルトはいなくなっており代わりにレイズが車での移動を急かすように先を歩いていた。
「なぁ、戦争ってのはいつまでもあるのか?」
『今更にお勉強でもする気になったのか?』
「いや…そういうわけではないが…」
『なら問いに答える必要はないな、とっとと片してやることやっちまおう』
適当に返されたレイズの言葉に意味は感じられなかった。ただ、子供のように誤魔化されただけだった。
楽しげに鼻歌を鳴らすレイズが助手席に座っているのを確認して、アクセルを踏み込んだ。
悠々と風を切って、一つの中の二つの身体が移動していく。すれ違いざまに、光る白銀が見えたような気がした。
セカンドニューヨークの小さな廃虚ビルの中に、数名の男女が集っていた。
崩壊したビルの向こうには珍しく晴れた青空が見え、薄暗い中に光を差し込ませていた。
その中に位置する埃を被った扉の前で、両腕に薄く金属の色が見えるヤスヒロが背を預けていた。
「V…こっちだ、来てもらって悪いな」
「別に大丈夫だ。他は扉の向こうか?」
「ああ、ローグとルルカと…ESPSPの連中がいる。名前は一切聞いてない、あくまでも言わないつもりらしい」
「仕事仲間でもか?」
「…秘密裏なんだろ、アーデンは少し……犬みたいな軍や政治関係に当てがあるんだよ」
「どこ行ってもオリオンの傘下……か」
「そう言うなよ。中に入ってくれ、説明を通すのは後はお前だけだ」
「了解、助かったよ」
扉を抜けて獣のような瞳をした大男が目につき、軽く会釈をする。意外にもそれは返され、後ろにいたローグとルルカが目についた。
先に目についたローグよりも先に、ルルカが口を開き、手にもった小型の斧を一目見た。 「斧?斧を選んだのか?」
「そうだが…」
「…まぁ、確かに…お前の|能力《インプラント》なら相性がいいかもな」
まじまじと見るルルカに代わり、ローグが更に口から言葉を流す。何も喋らない大男に代わって、雰囲気が緩和されていくような気がした。
「無事に選べたんだな、体調の方はどうだ?」
「……まぁ…普通だよ」
「そりゃあ良かった」
「他の二人はいつ来るんだ?」
「現地集合らしい。ヴィーノは毒の調達らしいが、シグマはどこかで乱闘騒ぎでもしてるんじゃないか?」
「…なるほど」
そういえば、稀にどっかのボヤが大きくなって死人が出たなんて話をラーニの放送から聞くが、それはシグマの可能性もあるのだろうか。
話の途中にふと、大男が動き、握手を求めて手を差し伸ばした。突然のことに固まっていると、大男は顎を引いて握手を促す。
俺は促されるがままに手を伸ばし、陽射しに焼けてごつごつとした手で色素も太さも薄い手が強く握られた。
「…名前は?」
「ゔ、ヴィル・ビジョンズ…Vでいい」
「……そうか、私のことは|大熊《ベアー》でいい」
何となく、機械のようだと感じた。獲物を狩る獣のような殺気に満ちた冷ややかなそれが頭から離れなかった。
そのまま、目の前の獣が言葉を機械的に紡ぐ。
「集まってもらって有り難いかぎりだ。依頼の内容はクリプトン大統領の専属にあたる仲間の一人の五体満足の状態での救出、ハイエナの殺害または気絶だ」
その内容にローグが口を挟み、ルルカが少し熟考していた。
「ハイエナ?ハイエナって、犯罪組織のカルロス・ターペンターか?」
それにベアーが頷き、依頼の内容の具体的な部分を話始める。
「そのハイエナで合っている。近年はカルロス・ターペンター及び、ハイエナが勢力を伸ばす犯罪組織“ヴィランジ”で誘拐や密売が増加している傾向にあり、次いで仲間が別件での潜入にて捕虜として捕まっている。
その捕まった仲間の救出に同行してもらいたい」
「…潜入って…なんでボディーガードみたいな奴らが潜入なんてしてるんだ?」
「……国を知る上で、クリプトン大統領は軍に配属されていた経験を生かし、様々な方面に知見を得ることを必要としたのだ。その過程は民間、企業、組織…犯罪と手を伸ばしている」
その答えにルルカが口を開いた。
「要はスパイってことか?」
「そういうことになるな」
「一体、何のために犯罪組織に?」
「……その件については、お控え願おう」
そう言い切ったベアーにルルカが不審の視線を浴びせた。
この大男の言い分も分からなくもない。大統領というのは名ばかりで、実権はたった一つの企業オリオンにあるのだから、それを面白くないクリプトン大統領がESPSPを使って、大袈裟に国家転覆しようとしているなど…言えるものだろうか。
国は現在、一部企業の配下にある。大統領制の国というのは今も変わらないが、民主制のようなものだと言っていい。
視線の中で、ローグが和ませるように口を開いた。
「それで…ベアー、さん?何をどのように動けばいいんだ?勝手にやれなんて言わないだろ?」
「……まず最初に、ナイトシティの裏手にある数名をヴィーノとシグマによって拘束、後は私とV、ローグ、ルルカで突入。残りの二人には後追いする形でいいだろう」
「あー…オーケー、裏手からの正面突破でいいのか?」
「……ああ」
話は終わった、とでも言うのかベアーがいやに小さな歩幅で扉から出ていった。
それを視線で追った後にふと、ルルカが訝しげに口を開き、それに応えるように俺も口を開いた。
「あいつ、奇妙じゃないか?」
「どこが?」
「女みたいだったんだよ」
大男が女みたいだった、なんてどういうことだろうか。誰にでも変身できるMIMIC-SKINでも使用した、なんてことなら理解はできるがそこまで信用されていないと思えばいいだろう。
残された中で、ローグが先に「ヤスヒロと話をしてくる」と言って出ていき、ルルカも同様に出ていった。そうして一人になった瞬間、小五月蝿いものがすぐさま姿を現した。
『似てるな』
そう一言だけ、レイズが述べる。
「誰に?」
『昔の俺だよ、飼われてるんだ』
「昔って十年前にか?お前のことだから、そうは見えないが」
『十年前以上前だ、爆破の前の話。あの頃の俺は、単なる軍の一部に過ぎなかった』
「…爆破テロを起こすような|伝説《レジェンド》が軍に首を掴まれてたって?」
『ああ、そうだ。せっかくだからその馬鹿の名前を教えてやろうか?』
「今か?」
『今だよ、良い機会だろ?…そいつの名前はレイリック・セラフィム、通名はRだ。その頃は機械みたいに刀だの銃だの持って突入三昧で命のことなんか微塵も考えようともしなかった。でもな、どこかの遠征先で自由を語るような曲に出会って、そっから取り憑かれて、劇場で適当に集めた奴らと演奏して、自由に伸び伸びと生きて…このザマだ』
「……で?」
『…笑ってくれよ、馬鹿みたいだって。たかが演奏一つで全部ひっくるめて、アメリカそのものが嫌になったんだ。その頃のアメリカはやっぱり|飼い主《オリオン》が支配して、自由なんてどこにもなかった』
「…どこに行っても、誰かに飼われなきゃいけないのかもな」
『ここじゃ誰だって、皆が|首輪《オリオン》に飼われてる』
「じゃあ、|あの子《イーオン》は誰に飼われてるんだと思う?」
『さぁ…てめえなら知ってるだろ?』
「………どこまで…どこまで、知ってる?」
『てめえが知るかぎりのことを、だよ。今は脳が一緒だからな』
「そりゃあ、そうか…ところでお前が惹かれた曲って?」
『J.S.バッハの無伴奏チェロ組曲、第1番の“プレリュード”だ』
「…へぇ……いい趣味だな」
『かもな』
そのまま、レイズが消えるまで頭の中に音楽が鳴り出すような気がして、扉の方を見た。
何もない扉の中で、一瞬、視界が真っ黒になり、その中で何かが点滅する。
耳裏に激しい銃声と爆裂音が響く。それと似ても似つかない優雅な音楽がそれを塗り替えるようにして徐々に大きく膨らんでいく。
あまりの五月蝿さに耳を塞いだ時、扉の前で一瞬、椅子に縛りつけられた金髪の若い男性がいたような気がした。
小道にゴミが溜まって、物乞いが人を漁る様子が目についた。異臭のする街中にやけに磨かれた車が通っていくさまはなんとも珍しいのか誰もが首を向いた。
車内の中でベアーが黙ってポケットの中に手を入れ、後ろでレイズがにやけ面をしていた。
「……V、少し話をしていいか」
急にベアーが車内で話を切り出し、適当に前を見据えながら「なんだ」と返す。
「もし、また助けを求めたら…助けてくれるか?」
「…ああ、求めるなら助けるが…」
「…有り難う……それなら、良いことを教えてやろう、聞いてくれ」
「良いこと?」
「お前が、危篤であることは知っている。これは単にそういう奴も潜入しているだけであって、オリオンの味方などではない」
「…それだけか?」
「いいや…我々が、それを解決できる方法を知っているという話だ」
「…信用ならないな」
「なら、クルーラーを作ったエンジニアの連絡先もいらないと?」
「……セグレブ・ケニーか?」
「そうだが。知っているなら、今すぐにでもかけてたはずだろう?」
「いや…知らないんだ。ヴィネットも全く繋がらない、捨てる連絡先だったんだろう」
「…そうか」
「連絡先は?」
「救出した後でもいいか?」
「………分かった」
車を四隅に止めて、ベアーが先に降りるのを確認する。遠くには銃器をもった数名が扉の前に並び、そこから離れた先で見覚えのある四人が待機していた。
「なぁ…知ってる奴と、知らない奴らがいるんだが」
「ただの増援だ」
「別にアーデンいらなかったんじゃないのか?」
「……残念ながら、我々の目的は救出ではないからな」
「は?依頼は救出だってのに?」
「グランデイト・バックとの接触を持つことだ」
「……何が狙いか知らないが…情報だけは吐いてもらうからな、こっちも命かかってんだ」
「ああ、気にしなくていい」
停められた車の先で手を振るシグマやヴィーノ、ルルカ、ローグと合流し、別の連中と話しているヤスヒロを横目に例の現場を見る。増援は待機しているだけのようだ。
山のようにゴミが散乱した人気のなさそうな廃ビルの中、一つの窓から小さな猫が覗いている。それがやけに奇妙でしかたがなかった。その奇妙は頭の中の居候も同様のようですぐに口を出してくる。
『こんな汚い街に猫だ?気味が悪いな、あの猫……何かのサイボーグなんじゃないのか?』
確かに、こんな街に純粋な生物の猫がいるとは考えにくい…しかしながら、それが今関係あるかと言われれば、無いと言うことも事実だった。
ゴミ山を掻き分けて扉を触る。扉は開いていることから何も問題はなさそうだ。
後ろでわくわくとした様子でヴィーノが針を持に、俺の肩を叩いた。
「もう行ってええ?」
ヤスヒロに仰ぐと、彼は首を縦に振り、ヴィーノが扉を開いて俺の横を抜けていった。
ポケットにしまい込んでいた折りたたまれた斧を掴みつつ、ヴィーノの方を見る。
扉の先の階段に佇んだ堅そうな男性が一名、驚いて銃器を向けようとした瞬間にシグマがいつの間にやら影を踏んで、ヴィーノの針が刺さった。男性は途端に崩れ落ち、手薄になった警備が残された。
ルルカが「こんなに雑な警備なんて、おかしいな」と呟いたが、なんとなく深淵に触れそうな気がした。
薄暗い廃ビルの中に、重苦しい静寂と腐敗したオイルの臭いが立ち込めている。
崩れ落ちた男性の身体から火花が散り、壊れたインプラントが不規則なビープ音を鳴らして機能を停止した。
ルルカのあの懸念を裏付けるように、ビルの奥からノイズ混じりの怒号が響く。それと同時に、壁に設置された旧式のセンサーが赤く明滅し、辺りが一度、真っ暗に染まった。
目を凝らして見えた暗闇の中から、屈強な外骨格を装着した大男が姿を現す。インプラントはおそらく、一つだけで、ヤスヒロと同じものだった。その暗闇の中で影がより一層際立ち、中でもシグマが陽炎のように揺れるさまを見ていた。
影が大きくなって見えた時にはシグマは既に大男を拘束して、ルルカが先程の男性のインプラントを奪おうとしているのが見えた。
俺も斧を展開してかかろうとした瞬間に、ローグに頭を掴まれて下へしゃがむような形になる。頭の上を縫うようにして弾が走り、大男の右胸を貫いた。それでも、大男は倒れずに、ヴィーノが首筋に毒針を刺すも効き目はやや薄かった。
ローグが頭を掴んだ手を放した瞬間に、俺は展開した斧を投げようとした一瞬、頭の中のテロリストが横で呟いた。
『頭だ。外骨格形が頭にない。そこを叩き斬れ、投げるな』
その言葉通りに足を進めて、大きく振りかぶる。アドレナリンが駆け巡り、脳内越しの景色が加速して、世界が遅く沈み込み、大男の頭から見える皮膚に向かって熱くなった刃が溶かすように骨ごと割いていった。肉が焼けるような音と、ぶちぶちと切り裂く感覚が掌に広がっていった。
斧が完全に頭を割いた後には、水のように血が滔々して、生臭い匂いが鼻の奥にこびりついていた。周りを見ると、どこもかしこも血塗れで、血を浴びていない人はいなかった。
綺麗な格好のレイズだけが『斧も悪くないな、V』とだけ感想を述べた。
しばらくの静寂の中、敵が来ることもなく、ぼぅっと突っ立っていた。
その中でシグマだけがようやく口を開いたが、それにはローグだけが答えた。
「高く跳んでれば、全部切り裂けたんじゃない?」
「ここで跳んだら天井にぶつかるだろ、シグマ」
「……かもねぇ」
再度、静寂が流れた。ヴィーノが「ガタイがあるとその分、毒って周りにくいんやね」と呟くも、それに応答する人はいなかった。
少しして、ヤスヒロが後ろから来て、「派手にやってくれたな」などと文句を言いつつも話を続けた。
「しかし、おかしいな…ハイエナのわりには警備がザルだ。まるで、わざと通されてるみたいだな……」
それにルルカが同意し、階段の奥の方を確認して一言だけ伝える。
「一つだけ扉がついている部屋があるぞ」
それにヤスヒロが指示して俺はその扉に触れるも、何かのロックがかかっているのか開きそうになかった。
「V、ロックを解除できるハックのインプラントはあるか?」
後ろでローグがそう聞くが俺は首を横に振って、何やら笑っているルルカに扉を任せた。何かを操作しながらルルカは口を開いて笑いの正体を零す。
「さっき、ヴィーノとシグマが倒した男からロックを解除できる能力…インプラントを奪ったんだ。ここで役に立つとはな」
そうして開いた扉の先には、電子機器が発する微かな低周波音と、場違いなほど清潔な消毒液の匂いが漂っていた。
部屋の中は、廃ビルの外観からは想像もつかないほど高度な医療設備が整えられていた。
中央に置かれた外科用の端末。そこには無数の配線と光原に繋がれた、今回のターゲットである依頼者の姿があった。だが、異様なのはその光景だけではない。
「……誰も、いない?」
そう呟いた俺の言葉にヴィーノが警戒して針を構え、部屋の隅々まで視線を走らせる。
警備の残党も、依頼者を監禁していたはずの組織の人間も、そこには影も形もなかった。ただ、ホログラムのディスプレイだけが淡いブルーの光を放ち、何らかのデータ転送が完了したことを示すログを垂れ流している。その時、脳内の奴が不快そうに舌打ちするようなノイズを響かせた。
『……ハメられたな。あの端末を見ろ、心拍数も脳波も安定しすぎてるな。まるで《《中身》》をどっかに移した後の|空殻《ダミー》だ』
俺は一歩踏み出し、端末のバイタルモニターを覗き込む。
確かに数値は一定のリズムを刻んでいるもののが、そこにサイバーヒューマンとして、人間としての揺らぎがない。動いているが、死んでいる。
うっすらと何かが焼けるような臭いが鼻につき、モニターのリズムは遅く、遅くなってやがて止まり始めた。
ひどく恐ろしくなって脳内に危険信号が駆け巡って点滅し続けていた。
ふと、視線を感じて顔を上げると、部屋の角にある通気口の側に、先ほどの猫が座っていた。猫の瞳は、部屋の照明を反射して不気味に赤く明滅している。それは紛れもなく、どこかのデジタルランナーとリンクした撮影用レンズの光だった。
『なるほど、捕まえた奴は単なる使い捨て電話ってわけか……V、今すぐここを出ろ、あの|偽熊《ベアー》の目的はとっくに完了してる。
犯罪組織と国を繋ぐため、またはDPに見つからないための生きた…いや、生きていた情報取引の舞台だ』
そうレイズが言った瞬間に俺は窓からベアーと増援達の様子を見る。そこは跡形もなく消え失せて、人っ子一人いなかった。
シグマが救出対象を調べるも、脳を焼き切れられていて完全に死んでいると言った。はじめからESPSPは約束を守る気なんか、さらさらなかった。
ヤスヒロが猫を模したカメラを叩き壊して、俺の胸ぐらを掴んだ。
「V!ベアーと一緒に来たのはお前だろ?!何か、何か言われてないのか?!」
「……グクとの接触が目的だと言われた」
「グク?!グランデイト・バックか?!理由は?!」
「知らない。教えてくれなかったんだ」
「…くそっ!」
悪態を吐いて手を放したヤスヒロにローグは宥めようとして口を開く。
「仮に、オレらをグクから引き離すのが目的だとして…何のために、ESPSPはここに来たんだ?
ヴィランジにだって、どうせ殺す奴を守る必要なんてないだろ……放置で良かったんじゃないのか?」
それにシグマが答えようとして、先にヴィーノが言葉を応えた。
「時間稼ぎちゃうん?調べたらすぐ出てくるとは思うけど」
その言葉を聞いてヤスヒロが部屋を出ていくのを見た瞬間、それを全員が追った。
階段を抜けた先でヤスヒロは損傷があまり激しくない始めに倒された男性の方の胸元を見て、震えたような声を絞り出した。
「……オリオン…ここ、オリオンが守っていたらしい…」
その名がヤスヒロの口から漏れた瞬間、場に冷ややかな緊張が走った。
今でこそ国を統治しているような大企業が、まるで素人を使った警備をして犯罪組織と国に介入しようとしている。
そもそも、その残滓が、何故こんな掃き溜めのハイエナの巣食う場所で死体となって転がっているのか。それが理解が追いつかなかった。
レイズが笑って、俺の肩に触れて耳元で言葉を流した。
『ESPSPがヴィランジと手を組んでた可能性は十分にあるな。この現場を“餌”にして、|独立国家《オリオン》の下っ端をおびき寄せたんだ。そして俺達は、その掃除を肩代わりさせられたベアーの目的は、グクへの接触と同時に、この場所にいた“邪魔者”の排除だったってわけだ。
警備が手薄だったのは|裸の王様《オリオン》にとって然程、重要性が低い可能性か、もしくは……既に手を打ってあるか、だな』
その言葉に頷き、頭の中で返答を返す。
「…そうだとして、オリオンがここを守る理由が分からない」
『確かに、その通りだ。ESPSPによる反乱を、と考えれば自然だが……国と犯罪組織が仲良しごっこしているのを咎めるのに、わざわざ俺達を引き合いに出す必要はないからな。あのクソ企業様なら顎を引いただけで掃除できただろうに』
「……そのわざわざの行為で…アーデン、またはグクに何かしらの接点が必要だった?」
『それはないだろ、V。グクに関してはESPSPの目的だ。ヴィランジは一時的に手を組んでるだけだろう……だとすると、オリオンの狙いは…』
「…結局、振り出しに戻るだけ……か」
『……ひょっとしたら、クルーラーかもな。てめえの頭ん中から一回引き抜いちまえば面倒事なんてすぐ解決しちまう。ただ、そうするとESPSP、ヴィランジ、オリオンの3つが組んでることになるが……まぁ、ないだろうな』
「自分が組み敷いて、いつ首元に噛みつかれるかも分からない犬とは戯れないだろうな」
『なるほど、それならESPSPは本当にオリオンの味方じゃないかもしれないな。あの車内の話、どう思う?』
「……でまかせ、ってことにしておこう」
内部データすら壊れた猫の瞳はもう光っていない。救出対象も存在しない。あるのは、大きく口を開いた行く末も不明なジェットコースターのような罠だけだ。
ヤスヒロが誰かに電話をかけているのを見ながら、死体を更に確認する四人を後にして一人だけ外に出る。
異臭のする街並みを全部、煙草の煙で覆い尽くしたいぐらい口の中に苦々しさが残っていた。
---
いやに美しい声が耳へ響く。ローズ劇場の前で待ち合わせなんかしているからだ。
鬱陶しく耳にこびりつく音を足音でかき消し、裸足に土が絡みつく。口の中で舌を弾けさせ、劇場から戻ってもこない|リーダー様《オリバー》を待つ。
全くもって最高だ。こんなにも時間がかかるようなことを、わざわざ男一人のために費やしているなんて。あまりの健気さに自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
疲れ切った脳が癒しを求めつつ、ようやく劇場から顔を出したオリバーを掴めと指示を出す。
催促されるがままに、劇場から出てきた顔色がやや良くなった男性に声をかけた。
「……楽しかったか?」
「ああ。そっちはどうだった?」
「はっ…最高だよ」
「……悪かったよ」
髪を掻きながら申し訳なさそうにする目の前の男性に、ひどく頭痛がする。そのままオリバーが何かを言いかけた瞬間に後ろから無精髭の男性がオリバーの肩に手を置いた。
「オリー、薬を忘れてるぞ」
その男がオリバーに片手で薬を渡した後にすぐにこちらを見て、「グラン・デイトバックだ、よろしく」と呟いた。
そのままグランと握手を交わそうとした時、劇場から出てきた中年の女性が叫び声を挙げ始めた。
「次の演目は、自己消去!拍手はいらないわ……どうせ録音だから!ここはローズ劇場、現実より少しだけ、きれいに壊れる場所!ねえ、あなた観客?それとも、演算結果?」
言葉を放って、更に続け始める。目元を見れば眼球がいやに冷たく色を帯びておらず、サイバーヒューマンだと分かった。
「この身体、衣装なのよ……脱げないだけ!脚本はどこ?ああ、もう全部アップロード済みなのね……私は主役じゃない!だから消えてもプロットは崩れない!」
怯えた顔をした二人が目に入る。理解ができないだけだ。
「……あら、今、ライトが熱いわ…あの頃みたい!ねえ、カーテンコールって、まだあるの?」
突如として女性がグランに掴みかかって、まくし立てた。
「終わるときは、ちゃんと暗転してちょうだい!フェードアウトは嫌いなの!感情は演出!涙は照明効果!あなたの躊躇も、舞台装置の一部!……この劇場は最適化された空間!死も、演出の一形態に過ぎない!ゼウスがまた世界になるの!
分かるでしょ、分かるだろ、分かれよ、分かってんだろ!!」
唾が飛び、グランの顔が歪んでいく。それが愉快で止めもせずに見つめていると耳まで真っ赤になった女性の顔がゆっくりと風船のように膨張してボン、と音が鳴った。
鼻に鉄の匂いが充満して、えづきそうになる。顔、手、髪に赤くどろどろとした熱いものが飛び散ったような感覚が脊髄にこびりつく。
喉奥から不思議と叫び声は出なかった。空気を何度も吸って、吐いて、現実味を初めて触れたように確かめる。きっと、酷い顔をしているだろう。
目の前に赤黒く顔を染めたグランと、顔を手で覆いながらも眼球を何度も動かし続けるオリバーがただ、呆然と立ち尽くしていた。
煙草の煙が顔にしがみついて、洗ったばかりの顔が汚れたような気分だった。
「アリア・アスキス……リア、今日のことは忘れた方がいいだろうな」
煙草を吹かすグランの顔はもう赤黒く染まってはいない。向こうに座るオリバーも同様で、呑気なことにランチタイムのメニュー表を覗いていた。
「……あれは……何だったんだ?」
「さぁな……変なウイルスの入ったインプラントでも入れちまった女なのか、噂のAIに乗っ取られたサイバーヒューマンなのか……よく分からん」
そのグランの言葉にオリバーが「前者に決まってる」と口を挟む。どう頑張っても後者だとは信じたくないらしい。
随分と気取った信念を鼻で笑って目の前で繰り広げられる会話に耳を澄ませる。
「しかし、酷い目にあったな……」
「ああ……顔中が血塗れなんていつぶりだろうな」
「もう何年も前だな……カレンが誤って人の頭を打ち抜いた以来だ」
「カレン……アイツか、さっきの|迷惑客《カレン》みたいな奴だが…筋は通ってる奴だったな」
「比べてやるなよ。今じゃ、あの猫被り大統領の犬なんだから」
「……そうだな、本当に……よく了承したよな」
思い出話を聞きつつ、返答の必要のなさに飽き飽きとしてダイナーの外を見た。
何の変哲もないネオン街の町並みに獣のような瞳をしつつも、どこかよそよそしい大男がやけに目立って、ダイナーを見ている。ふと、気になって大男の視線の先を見やれば、オリバーと笑うグランが映っていた。
この男は何をしでかしたのか、不運なものだ。話の流れは時代のように移り変わり、グランがもう出ていくことになったらしい。
軽い|金《チップ》を渡して外へ出ていくグランを見つつ、隣で料理を注文しているオリバーを見る。
この鈍感な男が今に「リアは何を食べるんだ?」と聞くまでに外で誰かが言い争うような声がした。
「……シーフードバスケット」
「また魚か?」
「ああ」
「たまには肉を食っても……嫌いだったな」
同じことを繰り返す。コイツは脳が麻痺でもしているのだろうか。
鼻に残った煙草の匂いが脳を伝って、どこかの銃声をキャッチする。弾が放たれるのなんて日常茶飯事だ。
たとえ、先程まで同席していた奴が死んだとしても何らおかしいことじゃない。おかしいなんて思えば、同じ道を辿る末路が待っているだけだ。
提示された命の選択肢は与えられるものではなく、自分で選ぶものに過ぎないのだから。
---
受話器をがちゃがちゃと回し、子供のように縋っているさまが奇妙だった。
「セルゲイさん?」
問いかけても彼は必死になって受話器に縋って、唇を鯉のように動かし続けていた。断片的に聞こえるのは“V”という誰かの名前だけで、大人が死にかけの魚のようで不思議でしかなかった。
「セルゲイさん」
やがて、その顔が安堵したような顔になって穏やかな海のようなものになる。動かし続けていた唇も、いつも私と話しているようなペースになり、彼が本格的に落ち着いたのだと分かった。
「……ラナート……」
再び、セルゲイの顔が子供のように歪んでいく。そのまま、言葉は不思議と飛び出して、「……もう遅いから、帰ってくれ」と告げる。
時計はまだ3時を過ぎた和やかな時間を指していた。遅いとは程遠い。けれど、今は指摘してはいけないのだろう。
聞き分けの良い子供とでも言うべく頷いた直後、前の顔がいやに明るくなったような気がした。
---
「……なんで君がいるんだ?」
水色の髪のカーテンの中で、鋭い緑色の瞳がこちらを差した。
「なんで、と言われても……シータさんもいるし、良いかな……と」
おずおずと思ったことを口に出し、後ろに座っていたシータと目が合ったと同時に口が開く。
「サラも来る?セルゲイがどこに行くかなんて、知らないけど」
シータの言葉にセルゲイが「知らないなら来るなよ」と口を挟んだ後に「ナイトシティに行く」と答えた。
「ナイトシティ?わざわざ、そんな危険そうなところになんて……」
「ああ、ウィッシュウォッチやルヴァンなんかもあるだろうし……ヴィランジの拉致誘拐なんかも、あったりしてな」
「そんなところに、何のために……」
「探してる人がいるんだ、それだけだ」
「……どんな人?」
「今は知らない……情報を得たい、それだけだ」
「ナイトシティはライフライン・インダストリー…LLIを呼んでも来ないんでしょ、安全運転で気をつけて」
「……あー……来る、のか…」
口を若干開けたままのセルゲイの隣にある空いた助手席に座り、シートベルトをしっかりと締めて頷いた。
嬉しそうに笑ったシータを横を窓からLLIが救急の赤ランプを照らして、過ぎ去っていく。
地獄の門はまだ、開かれたばかりだ。
小汚い町並みに、アルコールや煙草、汚物の臭いが立ち込めて鼻へ貫いた。つい顰めた顔の横で携帯を片手にセルゲイがシータへ声をかけていた。
「傭兵のことを知っていそうな、ナイトシティの奴は?」
「情報屋とかじゃない?……とはいえ、簡単に会えるかも分からないけど」
「……?……なんで、簡単に会えないんだ?」
「大量に知っている情報の中で、機密レベルのものを知っている可能性もあるから、そういう輩に狙われやすい。だから、すぐに会えるようなところで道草を食っているような情報屋はいない。いたとしても、それは大した情報も商品にしていない信憑性の薄い人だと思うよ」
そう言い放ったシータの横にある車の窓は銃跡が残り、近くの路地に白い液体が乾きもせずに残されたままだった。壁にはスプレーで描かれた落書きが残され、ろくでもない言葉ばかりが綴られていた。
「じゃあ、つまり……無理に近いってことか」
ため息をついたセルゲイがそう呟き、小汚い町並みの中へ歩みを進めていく。その背中を追う内に周りの人々が増え、一際ぼさぼさとした髪がひどく濡れたような頭のホームレスの男性が目についた。
「人に聞いた方が早いんじゃない?」
セルゲイに向かってそう話すと、少々悩んでいるようで顎に手をついたままにしていた。その手が顎から離れ、例のホームレスへ「Vを知らないか」と声をかける。瞬間に獣を捉えたような瞳で近づいた男性がぐっとセルゲイの肩を掴み、唾を飛ばす程の勢いで言葉を捲し立てた。
「V…ああ、ヴィル……ゼウスへプロキシミティ!DOAはプレディクティブ!インジェスチョンは人をインプット!」
男性の顔が赤く、果実のように実っていく中で言葉が口から流れ込む。
「ASIは君の傍!社会の変質はイミネント!足踏みして、舟を漕げ!プロキシミティ!プロキシミティ!プロキシミティ!」
叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。流れ込んだ情報を出すだけみたいにして、叫ぶ。林檎みたいに真っ赤な顔がパンケーキみたいに大きく膨らんで弾ける。
真っ赤に染まった空と、鉄の匂いで気分が悪くて悪くてしょうがなかった。
---
「ね、ねぇ、リリ!ダメだって!ダメだって言ってるだろ!?」
白髪のツインテールを揺らした女性が煙草の匂いがする廊下を突っ切り、一つの部屋へ足を進めるのを見て、手を肩へ伸ばそうとした。
「うるさい!」
「うるさいって言ったって……まだVは帰ってきてないだろ?!」
「これだけ待って帰ってこないんだから、来るわけないでしょ!」
伸ばされた手を払い退けられ、一つの部屋の扉の前へリリーが足を止める。白肌の手がノブに触れ、がちゃがちゃと音を立てた。
「……開かない」
「当たり前だろ、誰の家だと思ってんだ」
がちゃがちゃとノブが音を立てる。がちゃがちゃと、がちゃがちゃと、がちゃがちゃと……ばん!…………ばん?
奇妙に思って扉を見る。開かれたばかりの扉がやや形を崩し、無残にもセキュリティの鍵が壊されていた。
「……リリ…」
「だって、こっちの方が早いもん!」
「ああ……イーオン…いや、エレインに怒られる……」
リリがぼやくボクの言葉を無視して、先に部屋へ入る。部屋の中は煙草の匂いが充満して捨てられてもいない灰皿に煙草の燃えカスが置きっぱなしにされていた。床には散らばった薬剤とゴミがあちらこちらに置かれている。
「これ、本当に元々オリオンに勤めてた人間の部屋か?」
足元に落ちている紙には何度も書き殴られた退職届の文面があるものやクリニックの領収書が特徴的だった。上着のかかっている比較的綺麗なソファに座り、開かれた窓の外に一羽の鳩が鳴いているのを見ていた。
「ねぇ!冷蔵庫、何にも入ってない!お酒と、携帯食料しかないんだけど!」
「金品、じゃない……行方が分かる何かを探せよ、リリ……」
「ルディが探して!」
ぶっきらぼうに言い放たれ、否応に行動をせざる得なくなった。落ちていた領収書を拾い上げ、クリニックの名前を確認する。“イーザ”、ただのインプラントクリニックの名前だ。医師の名前は確か、キアリー・パークだったはずだが、何かを知っているとは到底思えない。ゴミ山をかき分けるようにして、紙の間を縫っていく手が一枚の紙の前で止まった。
「というか、何で今時にアナログなのか……デジタル化してるのに……」
「インターネット空間の不良AIに見つかったら、情報がバラされるからじゃないの?」
「そんなことするのか?」
「……イーオンが嘆いてたけど」
「そうかい」
V、ヴィルは慎重なのか、抜けてるのか分からないな。手が止まっていた紙を拾い上げ、内容を確認する。
「何が書かれてるの?」
後ろでリリの声がする。それに応答するように紙の内容を読み上げていった。
「インターネット空間のデジタルウォールを……デジタルカタコンベ内のデジタルコフィンにある……ノアの……ええっと……インターネット空間のデジタルウォールを、V-o28が越え……バベルの……」
「長い!よく分かんない言葉ばっかり!」
「……塔の到達を……リリ、そう言ったって、読み上げてることなんだからどうしようもないよ」
「じゃあ、分かりやすくして!」
「……そんな無茶な……僕だって、よく分からないのに……」
インターネット空間、デジタルウォール、V-o28、ノアの方舟、バベルの塔、デジタルカタコンベ、デジタルコフィン、デジタルゴーストコンストラクト、ゼウス。
紙に書かれているのはそういった固定名詞ばかりでいまいちピンと来ない。少し齧ったことのある単語はあるものの、ほぼ分からなかった。続きは塗りつぶされているばかりで、予測のしようもない。部屋の主が何を知っているのかなど到底分かりそうになかった。
開かれた窓の外にいた鳩は、とっくに飛び立ってしまっていて床にばら撒かれていた錠剤が数個、転がっているだけだった。
---
幾人もの人々が、サイバーヒューマン、オールドヒューマン問わずすれ違う中で、人の海をきり裂くように足を進めるエレインの背中を追い続けていた。
「あの、すみません!止まって!止まって下さい!」
そう叫んでも止まらないエレインの冷たい瞳に映るのは、O.A.スーブラの黒でナンバープレートがAYG-473でしかないたった一つの車。その車がどう見えているかなんて言えば、ただの標的に過ぎないのだろう。V、ヴィル、ヴィル・ビジョンズ。これが目の前のハンターにとってどういう存在だったのかと聞くだけでも殺されそうだと言うのに。
「ちょっと、ねぇ!エレインさぁん!」
柄にもなく声を張り上げて、足が少しでも止まるように縋りつく。それでも、止まる気配はない。車はスピードをあげて角を曲がり、見えなくなるも迷わず歩き続ける彼女が、何を見ているかなど知り得ない。親鳥にひっつく雛鳥のように追いかけている中、ようやくエレインが足を止めた。その直後、角を曲がる先の通路からけたたましい轟音が響き、鼻に薬品やガソリン、何かが焦げたような匂いが鼻につきまとう。慌てて走り出した足の先、曲がり角に激突して前方だけが原形を留めない形をした車両が転がっていた。割れた車の窓から頭部が既にぱっくりと割れた運転手が、フロントワイヤーに脳を突き刺す形で固まっている。辺りには真っ黒な車体を赤く染め上げるように垂れる血と、顔を出した脳みそから散らばった破片が赤の中に淡い桃色の装飾を落としていった。
「……これは……」
短く、一言だけ呟いたエレインが後ろから燃え盛っている車に近づく度に、散らばった脳が踏まれてぷちぷちと音を立てる。ぼくの頭の中はとうに限界を迎えて、今にも喉奥からせり上がった胃液が欺瞞を吐きそうになり、思わず口を押さえる。嫌な気分が湧き上がって眉がやや動きを刻む。
「……クラシカ、これはヴィルではありません。別人です」
気づかぬ内に嫌な気分へ沈んだ中に、冷たい声が落とされていた。吐き気を逃がすようずらした視線がエレインを捉え、悪態が脳に吐かれた。
「じゃあ、エレインさん……離れましょうよ、こんなの誰が見たってこっちが怪しくなりますよ」
子供が母親に我儘を言うものと、同じ一言だった。それでも、彼女は「……そうですね」と呟いて隣を抜けていった。曲がり角の上につけられた看板には、呑気にも『ランチタイム』とダイナーが銘を刻んでいた。
車ばかりが歩道の側を行き交う中で、例のダイナーから無精髭の男性が出てくる。前を歩くエレインは気にも留めなかったことから、ぼくも無視して歩みを進めようとしていた。そうやって鳥達が、無精髭の男性を見ているやけによそよそしい大男の目の前を過った直後に、鋭くも乾いた銃声が耳へ響いた。後ろから、少し離れた位置へ血の匂いがした。また、胃液は喉から出ようと藻掻き始めていた。
---
タブレットの中に隠し入れたものがゆっくりと、鍵を開けていくようだった。
人格者の裏の顔というものは、ひどく残忍だった。賄賂、売春、実験……これは、企業の信頼としての面では残念だが、納得がいく。今も自分にそれを止める力がないだけに隠されているだけなのだろう。問題なのは、孤児院の支援と、アルド・オリオンのクローン、ヴィルの存在。更に言うなら、上層部が何故、僕をお飾りの社長にしたのかということについてだ。単なるお飾りであるなら、どうでもいいことではある。しかし、それがヴィルではないのは奇妙なものだ。確かに実子ではないが、見合う能力はあったはずなのだから。
スワイプしていく指が、ヴィル、Vの名前を捉えて『ビジョンズ』をなぞる。変な苗字だ。捨て子で、養子でも、『ヴィル・オリオン』でいいはずだ。それが何故、こうやって差別されているのか。このヴィルという義兄は教育においてはアルドの世話にはなっていたが、家族というよりは仲間として見られていた。そのせいか、僕とヴィルの間に奇妙な対立があったのは明確なのだが、なんだかんだ優しい男ではあった。嫌いとまではいかないが、苦手だ。Vと名乗るのも、名前が『W』からではなく、『V』であることもそうだが、これを名付けたのはアルドだ。あのお人好しは、アルドに言われたことを素直に受け入れるVessel……器で、犬のようなものだ。
悶々とした頭がふと、叩かれた扉へ注視し、そこへ暇そうにソファへ座っていたヴィレイドが対応していった。まだ若く、スーツを着た好青年から、何やら手紙のようなものを受け取って、ヴィレイドが僕へ手渡す。
「ん、これ」
「……有り難う」
また、ヴィレイドがソファへ座るのを待って、開いた手紙の送り手は『ラム・ラインブレット』。例の酒場の女性だった。軽く調べたところ、十年ほど前にレイズ・シルバーとテロを起こそうとした内の一人だったらしい。
手紙は何かの写真の紙をそのまま引っ付けたようなもので、下に『|Good luck!《せいぜい頑張りな》』と記載されていた。
<2070yr / 本任務の遂行は、特異個体V-o28(D-002-047-o-28の14-103)を媒介とした現実世界の再定義を目的とする①特異個体V-o28をノアの方舟へと積載②既存のインターネット障壁デジタルウォールを物理・論理の両面から突破し、バベルの塔へのアクセス経路を確立③デジタルカタコンベ内、最深部に位置するデジタルコフィンへ到達④コフィン内に格納されたデジタルゴーストコンストラクト:01へのV-o28の正常な同期・定着を確認⑤同期確認後、後にゼウスへの基幹プログラム書き換えシーケンスを実行⑥全システム権限を強制取得(※本工程におけるV-o28の精神汚染率が98%を超えた場合、直ちにゴーストの完全抹消を行い、カタコンベを永久に閉鎖または殺害すること)⑦実行後に>
それ以降は綺麗に切り取られて何もないものの、間違いなくアルドの文字だと分かる。しかし、どれも聞いたことがない名前ばかりが出てきている。この命令とも言える計画は今も動いているのか、動いていないのか、それすらも判断できない。
タブレットには入ったばかりの社員が二人、ナイトシティの廃墟ビルで死んだという報告ログが届いている。配属した覚えはない。どういうことだ。これは、どういうことだ。タブレットはまだまだ鳴り止みそうにない。
無駄に冒頭が片仮名ですね。ヤスヒロ君がまともに喋ったのは、今回が初でした。
組織名は大体適当です。一話にしか出てこないところもなくはないので。会話で短縮している時があるのですが、やはり多く…(改行含め、19728文字)
主に主人公ターンが多くなってしまいますが、少々お許し下さい。
誤字などは受け付けますので、お気づきになられましたらご報告のほどをよろしくお願いします。
▶武器(分かりやすくしたもの)
Absorption Heat Machete(アブソープション・ヒートマチェット)
⇨衝撃を吸収して使用者を守り、必要に応じて刃を灼熱に変える、折りたたみ可能な未来の戦闘用斧