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井の中の蛙 大地を知らず されど空の深さを知る
東風谷早苗が幻想郷に足を踏み入れたのは、“東方風神録”での出来事、守矢神社が外の世界から丸ごと移転してきた時だった。
外の世界では廃れかけていた信仰心を取り戻すため、妖怪たちが跋扈するこの秘境へとやって来たのだ。
その中にある博麗神社と名のついた幻想郷の境に位置するその古びた場所は、彼女が最初に目指した場所の一つだった。
守矢の人間であり現人神でもある早苗にとって、この土地で唯一の《《博麗の巫女》》の存在は、信仰競合のライバルであると同時に、同じ《《人間》》としての共感を覚える対象でもあった。
初めて会った博麗霊夢は、想像していたよりもずっと気ままで、無愛想な少女だった。しかし、異変となれば誰よりも早く動き、その圧倒的な力で解決に導く。
幻想郷の住人たちは皆、程度の差こそあれ、この《《博麗霊夢》》という巫女を愛し、信頼していた。
ある日の午後、早苗は博麗神社を訪れた。彼女は縁側で退屈そうにお茶を啜っていた。
「霊夢さん、今日も平和ですね」
「……そうね。平和すぎて、退屈なくらいだわ」
早苗は霊夢の隣に腰を下ろし、神社の周りに広がる幻想郷の景色を眺めた。
「皆、霊夢さんのことが大好きですよね。
あなたが異変を解決してくれるから、この幻想郷は成り立っている」
「好きかどうかなんて知らないわ。ただの異変解決屋よ」
「そんなことないです。皆、心の底から霊夢さんを求めてる。あなたこそが幻想郷の希望だと思ってるんだと思います」
霊夢は少しだけ表情を和らげたように見えたが、すぐに元の無関心な顔に戻り、ぽつりと呟いた。
「希望、ねぇ……」
その呟きに、早苗は少し違和感を覚えていた。
霊夢の瞳の奥に、何か冷めた光を見たような気がしたのだ。
早苗は意を決して、ずっと心にあった疑問をぶつけた。
「あの……霊夢さんって、“第十三代”の巫女なんですよね」
「それがどうしたの?」
「つまり、その前にも博麗の巫女がいたわけで……」
早苗は言葉を選びながら続けた。
「……博麗の巫女という“役目”だけが重要で、“博麗霊夢”という個人の存在は、幻想郷にとって、もしかして……」
早苗の言葉に、霊夢は初めてはっきりと反応した。
表情は変わらないものの、その場の空気が張り詰めた。
「そこまでよ、早苗」
「…でも、皆が愛しているのは“博麗霊夢”という貴女自身じゃないんですか?
それとも、幻想郷のシステムを維持するための“使い捨て”の役割として、代々巫女がいるだけなんですか?」
早苗は、外の世界から来た自分だからこそ抱ける、人間としての純粋な疑問を抑えきれなかった。
霊夢は静かに立ち上がり、早苗に背を向けた。
「……使い捨て、ね。悪くない表現だわ」
風が吹き、霊夢の長く白い袖が揺れる。
「私は…博麗霊夢。今ここにいる、この私が博麗霊夢よ。
代々受け継がれてきた役目かもしれないけれど、この体、この能力は私のもの。
幻想郷の連中が私のことをどう思っていようと、私が私であることに変わりはないわ」
霊夢は振り返り、早苗の瞳を見た。
その瞳は、先ほどまでのような冷めたものではなく、強い意志を秘めていた。
「皆が愛してるのが役目でも、私自身でも、どっちでもいい。私はここで、私の好きに異変を解決して、私の好きに生きてる。それで十分」
早苗は、霊夢のその言葉に衝撃を受けた。
博麗霊夢は、自分が《《博麗の巫女》》という大きな《《役目》》の一部であることを理解した上で、それでも尚、《《自分自身》》であろうとしていたのだ。
その器の大きさ、覚悟に、早苗は畏敬の念すら覚えた。
「……霊夢さん」
「私個人を愛してる奴なんて、そうそういないわよ。みんな幻想郷が平和ならそれでいいのさ」
霊夢は再び縁側に座り、残ったお茶を飲み干し、言葉を続けた。
「ま、あんたがわざわざそんな心配してくれるなんて、面白い人間もいたものね」
「私は、人間であり現人神です!」
「はいはい」
霊夢はくすりと笑った。それは、早苗が初めて見た、心からの笑みのように思えた。
博麗霊夢は、確かに皆から愛されている。
それは《《博麗の巫女》》というシステムの側面もあるだろう。だが、そのシステムを動かしているのは、他ならぬ《《博麗霊夢》》という一人の人間なのだ。
早苗は、自分の疑問が的外れではなかったと感じつつも、霊夢の《《個》》としての強さに感銘を受けていた。
この幻想郷は、一筋縄ではいかない人間たちで成り立っている。
自分も負けていられない。
守矢神社の信仰を集めるという目的は変わらないが、早苗は博麗霊夢という存在に、新たなライバル意識と、奇妙な友情のようなものを感じ始めていた。