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短編小説:君に届け!この歌声!
夏の夜風が、湿った熱を帯びてベランダのカーテンを揺らした。 私は手すりに寄りかかり、見上げる。そこには、あの日と同じ、吸い込まれそうなほど深い夜空が広がっていた。
「……まだ、覚えてるよ」
独り言が夜の闇に溶ける。 私がまだ、背伸びをしても届かないものばかりだった幼い頃。隣にい
た君が、イヤホンの片方を貸してくれた。 「これ、すごくいい歌なんだ」 流れてきたのは、夏の終
わりの匂いがするような、透き通った歌。私の心は、その瞬間、言葉にできないほどの感動で震え
た。あのメロディ、あの歌詞。私の世界が、音を立てて輝き出したのを今でも覚えている。
けれど、幸福は音もなく去っていった。 君は、理由も告げず、急にいなくなってしまった。あの
日以来、私の時計は半分止まったままのようだった。忘れたくても、忘れられない。悲しみを埋める
ように、私は君が教えてくれたあの歌を、何度も、何度も口ずさんだ。 歌っている間だけは、夜空
の向こう側にいる君と繋がっているような気がしたから。
それから、何年が過ぎたのだろう。 私はもう「幼い子供」ではなくなったけれど、心の中にある「願い」だけは、何ひとつ変わっていない。
私は、震える指で小さな録音機を押した。誰もいない夜のベランダが、私のステージだ。大きく息を吸い込む。
「……歌うよ」
夜風を味方につけて、私は声を解き放つ。
「君に届け!この歌声!」
叫びのような、祈りのような歌声。 君にこの声は届いていないのかもしれない。今の君がどこで、誰と、どんな空を見ているのかさえ私は知らない。 けれども。けれども、私は歌い続ける。
夜空を超えたその向こう、星の瞬きのさらに先まで届くように。 喉が震え、熱いものが頬を伝う。それでも、私は声を枯らさない。
「ずっと……歌い続けるから」
夏の夜空に、私の全力が響き渡る。 どうか、届いて。この歌声。私の、ありったけの想い。
歌い終えた後、静寂が戻った。 遠くで光る一番星が、一瞬だけ、返事をするように強く瞬いた気がした。