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遺書屋は今日も筆を執る
ジャンル : ヒューマンファンタジー
直接的な描写はありませんが、
間接的な表現があるためPG12とさせて頂きます。
【 (中略)
あなたがこの世に生まれ、
立派に成長してくださったことは
私にとって生涯忘れることのできない
喜びでございます。
どうか末永くお幸せにお過ごしください。
あなたの幸せを、心より願っております。
母より 】
筆の金属部分の光が反射する。右側の窓を覗くと既に光が差し込んでいて時間感覚が逆になっていることに気づいた。先程書いた手紙をもう一度見返す。不慮の脱線事故により命を落としてしまった既婚女性の最後の言葉。
「何をしているのかねぇ……地縛霊になってたら最悪だけど。」
寝間着から急いで制服に着替える。太陽も既に空高く昇りきっている。
昼夜逆転で筆を書き進めるこの男の名前は|榊木《さかき》。死者の最後の言葉を文をかわりにこの手でかく仕事。
古びた商店街の朝は驚くほど静かだ。眠たい足運びで向かうのは開店前のレトロな喫茶店。持ち前の合鍵で中に入る。
「|多江《たえ》さーん。これ、息子さんに送っておいて。」
「ありがとねぇーさかちゃん。大丈夫バッチリ届けておくから!」
階段を降りて机に手紙を差し出した。頭を持ち上げる気力もなく、そのまま項垂れるように椅子に座り込んだ。例の女性、多江さんはその様子を見て台所へ足を運んだ。
多江さんは四十代女性。年齢を感じさせないほど肌艶がよく、いつもどこか哀愁漂う明るさを纏っている。趣味が高じて副業にまでしてしまったらしいが、俺にはその熱意を理解する気はない。
「やっぱりさかちゃんの字綺麗ね〜。後その能力?相変わらず面白いこと。」
話を遮るように差し出された珈琲を啜る。本業である香りは疲れた身体によく染みる。
俺には霊が視える。
大抵理解されることはないし、自分自身なにかのまやかしだとすらも思っている。視えるといってもはっきり認識出来るわけではない。然しその分一度認識すると曖昧の輪郭は徐々に形作る。嫌だと思っていても変わらない事実は変わらないのだ。
小さい頃、この話を同級生にしたことがある。結果は予想の通り孤立。同情、嘲笑、蔑みという蔑みの捕食対象になり続けてきた。然しこの女は別の笑みで俺を見つめる。
「勘違いクソ野郎って思わないんですか?俺も十分その可能性あると思いますけど。」
「まぁ、昔からのよしみでしょ?別にいいのよすきにやってくれて。」
「………ばばぁらしい。」
「だまらっしゃい。」
多江さんの溜息が、静かな室内に溶けていった。
手元のカップが取り上げられる。飲み終えるにはまだ早かったが、抗議するほどの気力もない。俺は空になりかけた器を目で追うこともせず、背もたれに身体を預けた。
次の瞬間、どさり、と鈍い音がした。目の前に置かれたのは、一本の筆と、印の付いた地図だ。
多江さんの手が離れるのを待ってから、俺はゆっくりと地図へ視線を落とす。
これから始まる物語は俺と仕事の一欠片である。
**名も無き男の空白の手紙**
---
呼ばれたのはボロアパートの一室。大家さんに変な顔されたのはさておき、目の前には大柄な黒い渦巻きが存在する。之が初対面の霊である。
「えーっと、依頼人さんですか?」
『……あ、店………人間、?』
「すんませんちょっと聞き取るのに時間掛かりそうです。聞こえづらいんでこの襖をYesなら一回、Noなら二回、ノックしてもらってもいいっすか?」
__トン__
襖から小さく音がなる。体は透けているが生物以外のものには触れられる。つまりYesだ。
「ありがとうございます。明日には聞こえると思うので、今日は俺からの質疑応答だけにさせていただきます」
__トン__
「性別は男性ですか?」
__トン__
「お子さんや家庭を持っていた?」
__トントン__
「失礼ですが、死因は事故とかですかね?」
__トン__
なるほど、あらかた形は掴めてきた。基本この様な人達は生きてる時の自分に未練がある。事故による伝えきれなかった思い、生前の欲、それが本人の意思関係なく絡んで生まれるのがこの姿だと、俺はそう考えている。
それならば目の前の、男性らしき何かはどうだろう。
黒い渦巻きは、さっきから落ち着きなく揺れている。こちらの返事を待つように、あるいは俺の機嫌を窺うように、所在なさげに身じろぎしていた。
俺が黙り込んだせいで不安にさせてしまったのだろうか。何とも言えない気まずさが、狭い室内に漂っている。
こういう霊は、普通、もっと分かりやすい未練を抱えているものだと思っていたのだが。いまいち心の靄が晴れていかない。
「榊木さーん?気に入ってくれましたかー?」
外から大家さんの催促が聞こえる。小規模コミュニティの団地とはいえ、部屋を見に来たと話していたのを思い出す。長居したら学生だということがバレそうだ。
なにかを対にし、手にしていたメモ用紙と筆を懐にしまう。
「すみません。俺は此処で失礼します。えと、貴方って此処から少し離れたりとかできますか?」
__トン__
「なら明日、団地の外。広場で会いましょう、大きい時計台があるところです。」
男性のなにかは理解したような素振りを見せて、俺もその姿を見送った。ドアノブの金属部分に反射した先、歪んだ鏡の中でなにかは俺に向かって綺麗な九十度を披露していた。静かに、ドアを閉じるのを見守って。
律儀な霊だなぁ。
「大家さん、ありがとうございます。すみませんが購入はもう少し考えさせていただきます。」
「あぁ、いえ…住むならもっといい場所をおすすめしますよ。この部屋はちょっと………」
「心霊物件とかっすか?」
「いやぁー…まぁ似てはいるのですが………」
「似ているとは?」
「内密にお願いしますしたいんですけど、」
何かを言い淀むような沈黙。こちらの反応を窺う視線。どうやら、単に部屋の状態が悪いという話ではなさそうだ。
「マンションが建つ前、そしてちょうどこの真下。まぁ訳ありで人は死んでるんですよ。」
---
空が夕暮れ色に染まる頃、俺は制服姿のまま広場に腰を下ろしていた。久しぶりの学校、帰りの広場でなにかと待ち合わせしていた。頭上では、木々の枝葉が風に揺れ、擦れ合うたびに乾いた音を立てていた。広場の中央では、小学生たちが歓声を上げながら駆け回り、砂場では、幼い手が懸命に砂を掻き集めている。彼らの声は夕暮れの空気を軽やかに震わせ、あたりには、明日も明後日も変わらず続いていく日常の気配が満ちていた。
その中に一人、制服姿で座っている俺は、どうにも場違いな存在に思えた。まるで、俺だけがこの風景から取り残されているようだった。
「そういえば、あの人の話ってなんだったんだろ。」
昨日の大家の言葉をしみじみと遡る。その後契約も会話もあるわけではなかったのだが、大家のいう事とあの霊の存在。どうにも関係がないとは思えない。
「ただの杞憂だとは思うけど………」
『あの、…昨日の方?』
「うわっ?!……嗚呼どうも。」
突如、声を掛けられ振り返ると一人の男が立っていた。全体は未だ黒いが、輪郭や頬のくぼみが認識出来ている。どうやら黒い渦巻きから人間に進化したようだ。
『聞こえ、ますかね?』
「そうですね、完璧ばっちりです。」
そう答えると男は安堵したように僅か肩を揺らす。
どうぞ座ってください、そう促すと男は律儀に礼をして座った。そういえば此の男に目はあるのだろうか。彼の横顔を眺めるたびつくづく違う生き物なのだろうと感じる。眼のない男は今この眼前の景色をどう思うのだろうか。
「昨日の話なんですけれど、どんな話を入れたいんですか?」
男は静かに俺の方に視線を向ける。
『えっ、…?』
「手紙ですよ手紙、貴方が依頼したんじゃないですか。」
『あぁ、そうでしたね、!その、
………なん、といえばいいのでしょうか』
『分からないんです、何を贈ればいいのか。』
男の声は、風に溶けてしまいそうなほど頼りなかった。
分からない、とは。
俺は思わず眉をひそめた。
死してなお、この世に留まっている。そこにはきっと、何かしらの未練があるのだろう。誰かに伝えたい言葉があるのだろう。だからこそ、こうして俺の前に現れたのではないのか。
「分からないなら俺にはどうすることもできませんが。」
口にしてから、少しばかり突き放した言い方だったかもしれないと思った。しかし、言葉を取り消すことはしなかった。
男は俯くようにして、しばらく黙っていた。
『すみません違うんです。分からないっていうのはその、何の言葉を贈ればいいのか見当がつかなくて。』
「嗚呼、そういう事ですか。なら伝えてくれれば此方で文はなんとかするので構いませんよ。」
言葉を綴ることなら、慣れている。
死者の言葉を借り、残された者へと届ける。それが俺の仕事だった。どれほど拙い言葉であっても、どれほど長い沈黙の果てに零れた言葉であっても、形にすることはできる。
そう、思っていた。
男は小さく息を吐き、俺の方を見つめ直した。風は途端に止まりこの世界に音が消えてしまったように。その手は、どこか震えていた。
『……… むかしの、消せない記憶といいますか、』
『私は軍人でした。そして、人を殺しました。』
終戦も、間近に迫った頃のことです。
当時の私は、年齢もあって、国を守るために軍へと身を置いておりました。この街は軍の基地にも近く、私が足を運ぶことも少なくありませんでした。
街には疎開してきた子供たちの姿も多くありました。決して恵まれた環境とは言えなかったでしょう。それでも、子供たちは子供たちなりに日々を過ごしていた。今となっては、そんな当たり前の光景ばかりが、妙にはっきりと思い出されるのです。
ある日、米軍による空襲がありました。
そのとき私は街に出ており、住民たちを防空壕へと誘導していました。空は煙に覆われ、あたりには人々の叫び声が絶えず響いていた。どこかで何かが崩れる音がして、地面が小さく揺れる。そのたびに、逃げ惑う人々の足取りはいっそう乱れていきました。
その最中、一人の女性が目に留まったのです。
彼女は男の子を抱えていました。足にひどい傷を負っており、自力で逃げることもままならない様子でした。腕の中の子供を守るように抱きしめていましたが、彼女自身、いつ力尽きてもおかしくないように見えました。
私は助けようとしました。
ですが、そのときも敵機は上空を飛び交っていた。いつ、どこに爆弾が落ちるとも知れない。そこに留まれば、自分も命を落とすかもしれない。
どうすればいい。
どうすれば生き延びられる。
私は、死にたくない。
結局、私は男の子だけを連れて逃げました。女性をその場に残して、
見殺しにしたのです。
今になって考えれば、あのときの私は、男の子のほうが国にとって必要な人間だとでも考えたのでしょうか。幼い命を救うことに、何かしらの大義を見出そうとしたのでしょうか。
それとも、ただ、自分が助かるために、そうする理由が欲しかっただけなのかもしれません。けれど、そんなことを考えたところで、あの日の選択が変わるわけではありません。
男の子は、やがて大人になったのでしょう。しかし、彼が大人になるよりも先に、戦争は終わってしまいました。女性の名前は、|前山満《まえやまみつる》といいました。優秀な学生だったそうです。学童疎開でこの街に来ていた、と後になって知りました。
私は、その後も生きました。戦争が終わり、街の様子が変わり、人々が少しずつ日常を取り戻していく。そのような時代を、私も生きていたはずなのです。
けれど、結局、彼女のことを誰かに伝える機会はありませんでした。
そして、私は事故に遭い、命を落としました。
皮肉なことに、私が死んだ場所は、あの団地が建てられた土地でした。
彼女を見殺しにした場所で、私もまた死んだのです
『だから、このことを親族に伝える間もなく、すべてが終わってしまいました』
「……すみません。伝えられる言葉が出てこなくて。」
『まぁ、しょうがないですよ。』
男は、申し訳なさそうに頭を垂れた。
『自分でも、どうすればよいのか分からなかったのです。何もかもが分からず、ただ、そこにいることしかできなかった。……その結果、あのようなことになってしまいました』
『私は、霊になったとしても、生きている資格などないのです。あのとき一人の命を見捨てた私が、こうして今も存在し続けている。それが、どうしても許せなかった。私はもし望むのなら…』
男はそこで言葉を切った。
俺は、何も言えなかった。彼さえも、何も言わなかった。
いつの間にか、空を染めていた赤色は薄れ、夕闇の青が街を包み始めていた。つい先ほどまで広場を駆け回っていた子供たちの姿も、もうどこにもない。砂場には小さな山がいくつか残されているだけで、誰かがそこにいたという気配さえ、夜の訪れとともに失われつつあった。
遠くから、子供を呼ぶ親の声が聞こえた。
その声も、やがて静けさの中に溶けていった。
「……そう、ですか」
ようやく出てきた声は、自分でも驚くほど頼りない。何かを言わなければならないと思った。けれど、どんな言葉を選んだところで、今この男の前に差し出すには、あまりにも軽い気がした。
男は静かに立ち上がった。
『今日は、ありがとうございました』
そう言って、男は深々と頭を下げた。
昨日と同じ、ひどく丁寧な礼だった。
「……いえ」
俺も立ち上がりかけて、結局、ベンチに腰を下ろしたまま見送ることにした。男はしばらく頭を下げ続けていた。まるで、俺の返事を待っているかのように。
けれど、その顔がこちらを向いたとき、俺はふと、妙な感覚を覚えた。
男は、確かに俺のほうを向いていた。
それなのに、その視線は、俺を見てはいない。
彼の目に映っているのは、いったい誰なのだろう。
俺には、それが分からなかった。
---
「う"ーん………」
「珍しいわね、さかちゃんがこんな悩むなんて。」
真っ昼間の暖かさに体を少し休ませる。その様子を多江さんが、机に頬杖をついた俺を見下ろしていた。
あの男にあって1週間後。いつもなら仕事を持ち帰ることなんてしない。依頼人の話を聞き、必要な言葉を拾い、筆を走らせる。それだけで済むはずなのに。
けれどもどうにも筆が進まない。
「……… 死んだ人にあの時の犯人は僕でしたって言われて、被害者の人ってどう思うと思います?」
ゴホゴホッ、
俺の質問に多江さんは盛大に珈琲を咳き込む。一応他のお客さんが居たので、拳を食らった。
「それ、あの依頼人に関係あるの?」
「そうっすね、これがすべてくらいには。」
店では少し前の洋楽が流れている。俺の零す思いも掻き消されてしまえばいいのに、ずっと思っている。
「まぁ、納得できる人はいるかもしれないけれど…」
指先でカップの縁をなぞりながら、彼女はしばらく考え込んでいた。
「忘れようと必死に生きてる人間を過去に引っ張るなんて、その方が酷いと私は思うけどね」
珈琲の表面が、窓から差し込む光を映していた。忘れようと必死に生きている人間。その言葉が、頭の中で何度も反響する。
あの男が何を伝えたいのか、俺は本当は理解しているのだ。自分が何をしたのか。誰を見殺しにし、誰を助けたのか。きっと、あの人は懺悔を望んでいる。後悔して後悔して、死んでも生きて、彼はあの場所で彼の殺人を背負っている。口にした側は、胸の内に抱えていたものを吐き出せる。許されれば救われるし、許されなかったとしても、謝罪したという事実だけは残る。少なくとも、黙っているよりは楽になれる。では、謝られた側はどうだろう。何十年も前に失ったものを、ある日突然、死者の言葉によって突きつけられる。ようやく前を向けるようになった人間が、再び過去へ引き戻される。それでも、謝罪は必要なのだろうか。
「分からないっす。」
一言、喫茶店に溢れた。
「俺には、分からないんです。何も知らずに生きてきた俺が、知っている人たちの気持ちを、勝手に決めていいはずがない。」
弱音を吐くのが珍しかったのか、多江さんの動きが少し鈍る。
「あんたさぁ、なんであんただけで決めつけようとしてんのよ。」
台所、多江さんの声が俺に投げかかる。
「確かにあの日、経験した人たちは地獄を見た。だけどその地獄はいつしかもう遠い過去のものとなっていた。でもそれは今、貴方の目の前にある。」
「あんたが分からないのは、当たり前でしょうよ。だから、霊さんと同じくらい悩みなさい。分からないままでも、ちゃんと考えなさい。」
時計の針は、何事もなかったように時を刻んでいる。あの男が生きた時代から、いったいどれほどの時間が過ぎたのだろう。それでも、俺はまだ、あの男の話を終わらせられずにいる。
「多江さん、ありがとうございます。」
「えっ、なになに? 今ので何か分かったの?」
「いえ、全然。」
「ちょっとぉ!」
多江さんの声を背中に受けながら、俺は席を立った。答えが出たわけではない。最後に男に会うのは明日の広場、それまでに自分のやることを済ませてしまおうと思う。
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日が暮れかけた頃だった。今日も子供たちは愉快に遊び回り茂る音と気さくな話し声が広場を支配する。以前あったベンチの前で立ち止まる。
呼びかける必要はなかった。
扉の向こう側に、黒い渦巻きが揺れている。
以前よりも輪郭ははっきりしていた。頭部には顔らしきものが浮かび、肩や腕の位置も、どうにか判別できるようになっている。
それでも、まだ人間と呼ぶには曖昧だ。
「お久しぶりです。」
黒い何かがこちらを向く。ベンチを前にしてずっといつものように立っていたのだろうか。
『……お待ちしておりました。』
声は、もうほとんど聞き取れるようになっていた。俺は懐から一通の封筒を取り出した。
「これ、ご用意しました手紙です。」
男は、驚いたように渦巻きを揺らす。
『もう、書けたのですか。』
「ええ。まぁ、一応。」
俺は封筒を差し出した。男の手が、ゆっくりと伸びてくる。透けた指先は俺を通り過ぎ封筒に触れた。
『……これは。』
男の声が、わずかに震えた。
『何も、書かれていないのですが。』
「そうですね。」
唖然としたような顔で俺を見る男。男は意外と感情が顔に出るんだな、渦巻き時代と比較して少々余韻に浸かる。
『私は、貴方に何かを伝えてほしくて……』
「分かっています。」
俺は男の言葉を遮った。
「質問なのですが、貴方はこの手紙を書いてどうしたいんですか?」
『……』
「楽になりたい、これが貴方の本心です。」
男の輪郭が揺れた。
「遺書屋は別に成仏させる仕事ではありません。貴方が霊として残る理由も、依頼した意図も、全て理解しています。」
「だから理解した上で喋ります。
貴方がしたことは事実です。あの女性を見殺しにしたことも、それを今まで忘れられなかったことも。どちらも、なかったことにはできません。」
言いながら、自分の声が思ったよりも冷たい人間なことに気づいた。正義の味方になりたいわけではない。人を裁く資格なんてものが、自分にあるとも思っていない。それでも、これだけは言わなければならなかった。
「貴方が楽になるために、その事実を誰かに背負わせる。そしてそれをのせる為の仕事は、俺はやっておりません。」
男は何も言わなかった。ただ、手の中の便箋を見つめている。
「貴方がしたことは消えません。……でも、だからといって、俺がその手紙を届ける理由にはならないんです。」
沈黙が落ちた。子供の笑い声が聞こえた。団地の向こうでは遠くで誰かが夕飯の支度をしているのだろう。仕事に疲れたサラリーマンがソファに倒れ込んでいるのだろう。
ここは、誰かが暮らしている場所だ。
昨日も、今日も、明日も。
誰かが起きて、誰かが食事をして、誰かが眠りにつく。そんな当たり前の営みが、何十年も続いてきた。
だが誰も彼等の事を知らない、認識はしていてもその全てを知らない、俺も含めて。
『……私は。』
男の声が、かすかに聞こえた。
『どうすればよかったのでしょう。』
その問いに、俺は答えられなかった。
助けるべきだった、見殺しにするべきではなかった、どちらも言うのも簡単だ。
けれど、あの時、爆撃の下にいたのは俺ではない。
死ぬことが怖くなかった人間だけが、正しい選択をできるわけでもない。だからといって、彼のしたことが許されるわけでもない。
正解なんて、どこにもなかった。
少なくとも、今の俺には。
「俺には、分からないです。」
それだけは、嘘ではなかった。男は再び、手の中の手紙を見つめた。白い便箋。何も書かれていない紙。それでも、そこには確かに、彼の生きた印があった。
「すみません、少し自分のほうで調べました。貴方の口じゃなく、俺が目でするほうがいいと思って。」
『……そう、ですか。』
男の声は、不思議なほど穏やかだった。
公園を離れ、最初に出会った団地まで共に歩く。
彼はか細く話を聞かせてくれた。ここは昔どんな場所だったか、近くにいた小うるさいばあさんのこと、好きだったあのこのこと。彼の話は本当につまらなかった。けれどつまらないと思えるほど、男の話は俺たちの日常と変わらなかった。普通の生活。きっと、それが彼にとっての幸せだったのだろう。つまらないありふれた日々が、どれほどの意味を持っていたのか。俺には、まだ分からなかった。
団地に着くと男は俺のほうを向いた。
『ありがとうございます。なにからなにまで。』
中へと足を運ぶ男の背中に、俺は一つの言葉を投げかけた。
「そういえば、貴方が助けた男児の市山……でしたっけ。俺の母方の姓もそれでしたよ。」
『慰めてるのですか?……責め立ててるんですか?』
「別に?ただのれっきとした事実です。」
『……そう、ですか。』
足を止め、男はしばらく黙っていた。
『あの子は……生きていたのですね。』
「さあ。俺にはそこまでは分かりませんよ。」
『……そうですよね。』
男は、手の中の白い便箋に目を落とした。
『それでも……あの日、私が連れて逃げた命が、どこかで続いていたのなら。』
そこで初めて、男は小さく笑った。
『……よかった。』
『あのときの私がしたことは、決して許されないのでしょう。それでも、あの子を助けたことまで、なかったことにしなくてもいいのでしょうか。』
「それを決めるのは、俺じゃないです。」
『ははっ……貴方らしいですね。』
男は便箋を胸元に抱え、深く頭を下げた。綺麗な九十度だった。足がどんどん黒くなっていたものがうっすらと消えていく。静かに消えていく中、頭部が、ゆっくりと持ち上がる。その顔を、俺は初めてはっきりと見ることができた。皺の刻まれた目元。固く結ばれた唇。どこにでもいるような、年老いた男の顔だった。
男は俺を見ていた。
今度は、確かに。
そして、消えた。
手紙が一枚、床に落ちる。
拾い上げてみれば、そこには何も書かれていなかった。
差出人の名前だけを残して。
|仁野山新平《にのやましんぺい》
俺はそれを封筒に戻した。
手紙というものは、誰かに何かを伝えるためにある。
けれど、伝えないことが、誰かのためになる場合もあるのだろう。それが正しかったのかどうか、俺には分からない。
ただ、あの男が最後に見せた礼だけは、しばらく忘れられそうになかった。
その宛先は、最後まで空白のままだった。