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地獄に垂れた蜘蛛の糸、気づけないままプリント扱い
2025/09/19 地獄に垂れた蜘蛛の糸、気づけないままプリント扱い
事故にあった。横断歩道を歩いていた私は信号無視の車に撥ねられ、数秒ほど宙に浮かび、地面に落ちた。事故を目撃したという、私の母親と名乗る女性からそう聞かされ、ああひどい事故だったんだなと思った。実際、骨折した足や強く打ったであろう頭は痛む。
なぜ事故のことをこんなにも他人事のように話しているのか、それにはちゃんとした理由があった。事故で頭部に衝撃を受けた結果、いわゆる記憶喪失になってしまったのだ。日常的な動作や単語は覚えているけれど、私の社会的地位や性格、自分の両親のこと、兄弟のこと、友人のこと、それらは全て体から抜け切ってしまった。私の母親は「別人みたいだ。」と顔を伏せた。父親は私の存在を認めたくないのか私に話しかけてくる回数は少なく、姉はよそよそしい。友人らしき人が何度か私のいる病室へと足を運んでくれたが、事故前とは別人のようだと失望したのか、すぐに来なくなった。私もその人たちのことを好きにはなれず、記憶喪失前の自分とは性格が変わってしまったのだと実感した。
今、外は冬である。葉の生えていない木がそれを物語っていた。窓は内側から触っても異様に冷たく、適温に設定されている病室の中ではそれだけが季節を感じることのできるものだった。
ここは広い個室だ。どうやらうちはお金持ちらしい。両親が変わってしまった私をどう思っているのかはわからない。広い個室を私のために用意してくれるということは大切な存在ということなのだろう。
夕方の5時ごろ、不意に、ドアがノックされた。看護師ではないだろう。母親がやってくる時間帯ではないし、私の友人という人ももう来なくなったのでおそらく違う。もしや不審者かと一瞬脳裏をよぎったが、看護師やら医師やらが不審者を見逃すわけもない。首を傾げながらも「はい。」と言うと、ドアがゆっくりとスライドされた。
まず目に入ったのは、綺麗な黒髪だった。次に見覚えのある制服。私の学校のものだった。そして垂れ目気味の瞳と緊張しているように八の字に下がっている眉。彼女は私を見ると、肩に力を入れ、笑顔を浮かべた。下手な笑顔。あんまり、綺麗じゃない。歪んでるし。緊張しているのかなとか、まあ無害そうだなとか、そんなことを思いながら会釈する。
「あ、こ、いや、初めまして。あ、クラスメイトの咲口です。」彼女はわずかに頬を紅潮させながら言った。なるほどクラスメイトだったのか。納得していると、また声がかかってくる。「これ、学校のプリント…。」そう言ってクリアファイルごと渡され、ありがとうと受け取る。彼女はクラス委員なのだろうか。
「あ。大丈夫?怪我とか……、」そう言いながら私の頭に巻かれる包帯に目をやる彼女が、記憶とか、と小声で続けた。担任か誰かから私が記憶喪失になったことが伝わっているのだろう。
「まあ、大丈夫と言えば大丈夫?」
何を大丈夫とするのかがよくわからないので、曖昧に答えた。彼女は気まずそうに頷き、もごもごと口を動かす。私としては彼女の性格も彼女との関係も何もわかっていない状態なので、胃がキリキリするほど不安だった。記憶喪失になる前の話を持ち出されれば、私はうまく対応できないし、それで相手に失望させてしまうということがこの1ヶ月で何度も何度も起こったのだ。
「あ。じゃあ、えっと。帰ります。」
彼女は小さく頭を下げてそそくさと病室を出ていった。案外あっさりと帰るんだな。彼女からもらったプリントを眺めながら、時計のチクタクという音がやけに大きく感じていた。
1週間後、彼女はまた来た。また、学校のプリントを持ってきた。
「毎週来るつもりなの?」そう訊くと彼女は視線を泳がせながら「いやです?」と訊き返した。その敬語はなんだ。「大変そうだなって思った。」「いや別にそんなことは。」まあ、咲口さんがいいならそれでいいんだ、と呟くように言った。悪い気はしなかった。
その次の週も、彼女は来た。私は気になっていたことを訊ねた。私が記憶喪失になる以前、私と咲口さんはどんな関係だったのかと。彼女は後頭部をかきながら迷うように口を開けては閉じるを繰り返していた。やがて答えた。
「あんまり、話したことはないよ。」
果たして本当なのか嘘なのかもわからないが、今の私はそれを信じるしかなかった。
次の週も、彼女はやってきた。「ていうか、いつ退院するの。」首を傾げて言う彼女に、私はつい昨日主治医に伝えられたことを口にした。「もうすぐ退院できる。来週か、それくらい。」へーっと垂れ目を細くする彼女と私との距離は、初めて会った時よりも縮んでいる気がした。それは私と彼女がクラスメイトだからとか、同世代だからとか、そういう理由があったのかもしれない。そして彼女と過ごす時間はなんだか居心地が良く、彼女が笑うと病室のどこか緊迫とした空気が和らいだ。
「じゃあ、退院したら学校か。あ、でも来週は終業式もあるから。」
「あー金曜日だっけ。ワンチャンそのまま春休みに入るかも。」
結局、私の退院日は来週の土曜日になった。終業式には出られないようだった。
終業式の日、金曜日。いつもより早い時間に病室のドアがノックされた。はいと答えると横にスライドされ、もう慣れた顔の彼女が入ってくる。「これ、課題。春休みの。」渡されたクリアファイルはいつもよりも分厚かった。どうやら主要5科目それぞれの春休みの課題は、数十ページの冊子になっているらしかった。それに加えて家庭科では春休み中に作った料理についてまとめるとか、音楽ではアルトリコーダーの練習とか(春休み明けの授業でテストがあるらしい)。多すぎないと露骨に顔を顰めて見せると、彼女はちょっと笑って同意した。
「何気に家庭科が1番面倒だよね。写真も載せないといけないし。」
「料理かあ。」まだ見たことのない自宅のキッチンに立って野菜を切っている自分の姿を想像しようとしたが、うまく浮かんでこなかった。「咲口さんは料理得意なの?」彼女は肩をすくめてみせた。どうやらそれが返事らしかった。つまりあまり得意ではないのだろう。
「へー。私は得意だったのかなぁ。」なんとなくの私の呟きに、彼女は頬をぴくりと動かした。「いや、どうだろうね…。」それ見て、そういえばと思い出す。事故前の私の話を持ち出すと、彼女はいつも反応をためらっていた。彼女と会ったのはまだ4回目、それもあまり長時間話したことはないが、多くの話題について言葉を交わしたつもりだ。
「前の私ってどんな人だった?」
核心に迫るような質問を投げかけた。純粋な好奇とほんの少しの恐怖が、私の心を回っていた。彼女は分かりやすく動揺した。それでもじっと返答を待っていると、観念したように顔を俯かせながら口を開いた。
「あんまり喋らない子で、…学校では孤立してたよ。」
「うん、それで?」私が続きを促すと、彼女はほど黙り込んだ。言って良いのか迷っている様子に見えた。私も黙ってその口から言葉が放たれるのを待っていると、たっぷり30秒ほどして、彼女は顔を上げた。小さな、しかし細い芯のある声で言った。
「あと、いじめられてた。クラスメイトの…女の子たちに。」
ああ、そうかと思った。すっと受け入れられた。別に何も、難しいことではなかったから。他人事のように感じたけれど、他人事ではないことに、変な何かを抱いた。首を傾げながら、普通の会話をしているようにへーと頷いた。じゃあ、入院したての頃にやってきた私の友人と名乗った人たちは、本当は友人じゃなくていじめっ子だったってことなのだろうか。私はいじめられっ子だったのか。「いじめっ子」だとか「いじめられっ子」だとかいう言葉が、安っぽいおもちゃみたいに思えた。
「うん。助けられなくてごめんね。」彼女は泣きそうな顔をして私に謝ってきた。どうせ過去のことだし、いいよ。そう言おうとしたのに言葉が出てこなかった。代わりに出てきたのは、
「じゃあ、課題、手伝って。」
彼女は顔をあげて、潤んでいる目を細め、笑顔を浮かべた。下手な笑顔だ。初めてこの病室にやってきた時と同じような、あんまり綺麗じゃない笑顔。
だけど私には、それが桜のつぼみみたいに輝いて見えた。
もうすぐ春が来る。退院して、春休みが終わったら、学校に行く。またいじめられるかもしれないけど、今はそんな未来すら、抱きしめたいと思った。抱きしめられそうだと思った。抱きしめるんだと、思った。