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23 救いの使者
「『五人以下にはさせないよ』……そう女神は言ってたんだ」
その者は虚ろな目をしていた。生気のない、|腐死人《ゾンビ》。拠点に入り込んだのか?
つい鞘に手を添えてしまっていた。しかし、よく見ると違う。着ていた服から長年にわたり放置していた垢と汚い異臭が混ざったものが漂わせているものの、少なくとも身体は腐ってなどいない。
言語をしゃべっていたが、もうろれつは回っていなかった。大男に速度を落として突進するかのように、その者はもたれかかりながら、
「た、戦えなくたって、だ、大丈夫だ。女神が言ってたんだ。約束したんだ。囁いてくるんだ。『五人以下にはさせない』って。俺たち五人以外、全員が死ねば……!」
「お。おい!」
大男はその者を押し倒すように連れていく。
後ろを一瞥するが、拠点のものたちは気づいていないかのように話し込んでいる。かなりの大声だった気がするのだが、ほんとうに気付いていないのか、日常茶飯事なので無視しているのか。たわ言だと認識しているのか。
大男は、食糧庫となっているほら穴のなかにその者を連れていく。零も臭いを気にして離れているが、大男に注視する。
大男は入口を塞いでいるがれきをどけ、そのなかにその人をしまっていた。荷物のように運ばれたその人は、いつまで経っても酩酊状態だった。もう戻ることはない。ずっとうわごとを呟く人型のなにかだった。声の波長は、いたるところが|尖《とが》っていた。
「だって、女神が言ってたんだよ。女神はいるんだ。俺たちのことを見捨ててなんかいない。そうだろ、トランス」
大男は、貯蔵庫に入ってまでなだめていた。「ああ、そうだな。俺だってそう思ってる」大男の語りかけにより、廃人は見るからにほっとした、安堵の表情をした。
「ああトランス、君ならそう言ってくれると思ってた」
「ああ、そうだ。ここの、ほかの人たちは信用ならない。……ルーフよ、ここでしばらく休んでいてくれ」
廃人は虚空を頼りに奥に進んだらしい。それを見届けた大男は振り返る。
「あ、ああ……気分悪くしてゴメンな。長い間こんなだから、頭がキチガイになっちまってるんだ。ちょっとばかし席を外してくれないか」
「……いいだろう」
零は踵を返し、部屋の入り口に足を運んだ。貯蔵庫に暗闇が訪れるよう、入り口の下側にがれきを積んだ。大男の半分が闇に飲まれる。廃人はうめき声のみ上げて姿は見えない。
「すまんな」
「何のことだ」
「いや、……そうだな」
零はあのことだろうと思っている。『五人以下』。先ほど大男が言っていた話、徒党を組む予定……
大男と|イオリア《姫》、少なくともあと三人は欲しいと。
つまり、その五人の中に零は含まれていない。
「質問があるんだが、いいか」
零は離れゆく歩みを止めて大男に声をかける。大男はカウンセリングでもするように相手の肩に手を置いて慰めている。ちょっとだけ大男の肩が動き、こちらを見やった。
「ああ、勝手に厄介ごとを頼んできたのは俺の方だからな。だが、手短にな」
大男はちらっと目で示した。零は尋ねた。「アンタたちはあの唄を信じているのか」
「ああ、それが?」トランスはぶっきらぼうに言ってきた。
「ただの詩だぞ。ルールでもなんでもない。|NightCrawler《ナイトクローラー》が書いたものでもない。この世界にもう、女神はいない。見捨ててもいない。この世界を創った神はすでに去った」
「そんなことは知っている。でもな、ここにいる誰もがそうだろう。目的のない授業を乗り越えて何になる。生き残って何になる。無意味に意味を求めるのは人間なら当然だ。お前だって神の慈悲を求めたことは一度くらいはあるだろう?」
零の反応は沈黙の目。その目に訴えるように、闇夜に包まれた貯蔵庫のなかで最大量の小声で叫んだ。闇が広がっている。
「世界は見捨てただろうが俺達は見捨てたとは思わない。だからこそ、|女神《あの唄》に救いを求めるんだ」
★
あの後、広場に戻ると集団から外れた者がいた。遠目でも分かる青い髪色とメガネのフレーム。トアだ。
手に持っているのはプレートだった。パンと湯気の出たものをプレートの上に置いて持ち運んでいる。
彼女はどこに行くのか見当のついている零はその後を追う。
彼女が消えた付近にたどり着く。先ほど寄ったほら穴を覗いてみた。
トアはその中にいた。重圧の中にいるかのようだった。重さのある夜闇。こちらも介護中のようだ。それも重度の。
心もとない豆電球の灯りをつけ、食べさせている。零が来たことは知らないふりをしている。
持ってきたプレートに乗せてあるスープにひと匙すくって、ふーふーと冷ましてアケミの口に持っていく。
しかし、相手はといえば石像のごとくだ。積極的に口を開けているようには思えない。唇の皮膚が水と接しているだけな感じ。赤ん坊のような、自発的な|吸啜《きゅうてつ》など一回も見当たらない。
零はその背中に対して一方的に話しかける。
「これについて聞きたい」零は懐に手を差し入れる。かさかさと乾いた音が鳴った。手には一枚の紙が。
「女神の唄、そう呼ばれている。これは、ただの詩歌ではないのだろう」
「いいえ、ただの唄です」トアは手を動かしながらいった。振り向くことすらもしない。
「本当か?」
背を向けているためトアの表情は判らない。「ええ」
とはいうが、零は理由なくこれを渡してきたわけではないのだという推測でいる。
あるはずなのだ。この詩が女神の唄……『女神』と呼ばれている|理由《わけ》。トアは知っているはずなのだ。知っていて、渡しているはず。
スリムな背中はこう答えた。
「発見された場所から「女神の唄」だと呼ばれているだけです。この絶望だらけの、血まみれの世界だというのに、血の一滴も汚れていなかった場所がある。神聖さに満ちた場所にあった。それだけの話で、それに尾ひれがついたのです」
「どうしてそう信じられている?」
「ずいぶんと聞いてきますね。新入りだというのにずけずけと」容器を下ろして首をねじるようにこちらに顔を向けてきた。口調もとげが析出していた。
「聞いたのでしょう、あなた。|トランス《あの男》の話を真に受け過ぎなのです。あの男はこの拠点に来てから日が短い。身体が大きいだけで頭は子供です。絶望性より希望性のほうが強いためか妄想が強く、ここよりも快適な場所があるのではないかと思っています。苦労して保護したというのに、守られていたことも含め無知なる少年のようなものです。何も知らない少年が不出来な夢を持っていて、それが実現できると勘違いしてしまうほどの蛮行さを持ちあわせている。だからここを捨て、不確かな希望に逃げようと画策しているだけです」
トアにはすでに知られているようだ。
「気づいているんだな」
「ええ。廃人と、彼以外のものはみな。彼は釣り針、垂れ下がった釣り糸です。餌も何もついていない……それでも食いついてしまう空虚なる希望にすがっている」
気づいていて、容認しているというわけだ。トランスに付き従うものはみな、精神が壊れていると指標されているのだろう。話を戻すように彼は紙を振る。
「『ないと・くるーざー』。女神の詩と呼ばれるこの紙の、元々のタイトルはこう書いてある」
「ええ」再びアケミの方に向いて、介護の動きを再開した。「そう書いてありますね。見たら分かります」
「どこかの書物の切れ端だろう」
「そうです。『レインスティック魔書』、28ページと29ページ」
「これのどこに女神要素が?」
「それはトランスにでも聞いてください。この世界に希望はありません。それはあなたにも解るように、時間経過に関して強力な呪い、「女神の呪い」が掛けられています。その女神に救いを求め、あまつさえ戻ってきてその呪いを解き、そして|NightCrawler《ナイトクローラー》を退けてくれると信じている……。あの者の心理は私たちにもよくわかりません」
しゃべっているとなんとなく察するものがある。宗教の類だ。
「どこにも書いていないから妄想になるのか」
「聖書だってそのようなものだったのでしょう。最初は、このような紙切れ一枚だったと思いますよ? 難解な文章から読み解き、謎解きゲームのように格言を見出す。その格言の塊だと誤認識したことで、分厚い冊子になっていった。そのようになったのは、後年の信者たちの度重なる加筆修正によるものでしょう」
「そう思っているなら、さっさと燃やしたらどうだ」
「私が前にいた世界では「信教の自由」がありました。目の前の現実を直視すれば心が壊れることがある。直視しない、つまり目を|背《そむ》けたところにある理想卿が、時として心を守るささやかな保護膜の役割をします。完全に壊れてしまえば自暴自棄となり、余計な人的損失となります。拠点としての役目を賄えません。拠点外に目を向けず、ここで一生を迎えてほしいので許しているのです。大丈夫です。あの者は、言っているのみで行動力はないでしょう。有言不実行だと思います。行動することはありえませんよ」
「詭弁だな。『こんなもの』を回収せず放置しているから統率力が低くなる。拠点を守りたいのか、あるいは滅亡させたいのかよくわからない」
「その言葉は取り消してください」トアの語気が強くなった。暖炉の火に薪をくべたように。
「ふうん、守るのか?」
「そう思うのはこの世界に来たばかりだからでしょう。それに勘違いしないでください。連れ出そうと画策している者たちの擁護はしていません。「取り消して」と言っているのは、連れ出される方への侮辱の言葉です」
失礼……、と彼女は断っておいて、
「取り乱しました。死にたがりの頭がおかしい兄を持ったとはいえ、これを否定してはかわいそうですから」
「この詩を見つけたのは誰だ」
「――? 知っているのでは?」
「念のためだ」
「……イオリア。その詩を見つけたのは、死んだ金髪男の妹ですよ」