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寿司屋
ああ、アイツがどうしようもなく憎い。
小太りの中年男はぶつぶつと文句を垂れながら帰路についていた。あの会社の新人がどうも気に食わない。俺より後に入社してきて、俺より仕事が出来ないはずなのに、人当たりの良い誑しだというだけでちやほやされていやがる。大体この俺様が高卒のアイツと一緒に営業に回されるなんておかしいじゃないか。おまけに若くて顔ばっかり良いせいで、アイツと一緒に回る仕事だけ全て成功してしまうではないか。
いいや、どうも許せない。アイツさえ居なくなってしまえば、俺の人生は万事良くなるはずなのだ。
男はふと足を止めた。
視界の端に変な物が映ったのだ。右手を向くと、妙に目を惹く赤い暖簾が生温い夜風に揺れている。小さな引戸は閉まっているが、中から微かな灯りが漏れて男の足元に小さな影を落としている。暖簾には白い文字で「寿司」とだけ書かれていた。
やはり変である。毎日通る道なのに、こんな店は見たことがない。見るからに新しくはなく、扉に取り付けられた小さな磨りガラスも古めかしいものだ。
しかし、この店は何だか長年行きつけの居酒屋のように暖かい空気を醸し出している。男は考えるより先に引戸に手をかけていた。
「いらっしゃいませ。」
立地は路地裏なだけに、店内はひどく狭い。妙なことに席はカウンターに一つ設けられているだけで、男は不思議に思いながらもそこに腰を下ろした。カウンターのしきりの奥には男とそう変わらない歳であろう大将が一人立っている。
「どうぞ、ごゆっくり。」
大将は丁寧な口調の割に、にこりともせずに熱い茶を差し出した。
「はぁ、どうも。」
男は一瞬その顔を見た。まるで能面のように無表情で、目の焦点が僅かに自分の視線と合わないのである。一瞬背筋に冷たいものが走った気がしたが、今更席を立つわけにもいかない。大将は下を向いて、無言で包丁を動かしている。
品書きも置いていないようなので、男は手持ち無沙汰に茶を啜ってみた。
「あの、大将のおすすめは―」
「どうぞ。」
話し終わるよりも先に、食い気味に言葉を被せられる。そんなことよりも大将の差し出した皿を見て、男は自分の目を疑った。
シャリに乗っかっているのが名刺なのだ。本来魚の切り身があるべき所に、紙の名刺がでんと乗せてある。
「は?」
大将はやはりにこりともせず、微妙に焦点の合わない目で男の方を見つめた。
「居なくなって欲しいと、そう思うんでしょう?」
まさか。
男はもう一度、皿の上の寿司に視線を落とした。名刺には自分の会社の名前。そしてその上には、紛れもないアイツの名前が書かれている。
「おい、こんなもの何処で...」
男の手が微かに震える。タチの悪い嫌がらせか?
「良いから召し上がってごらんなさい。あなたの願望が一つ、叶いますよ。」
「食べるって、あんた、これ、名刺ですよ?」
「では、叶わなくても?」
男の脳裏にアイツの顔がよぎる。俺が十年もあのちっぽけな会社で細々と生きながらえていたのを、アイツはたったの一年で乗っ取りやがった。憎い、憎い、憎い。
アイツさえいなければ、俺は...
男は米粒とともに名刺を噛みちぎった。頑丈な質感の紙は、意外にも旨いネタのように口の中で解れる。紙とインキの味が広がって、男は急いで寿司を飲み込んだ。
視界が不意に暗転して、男にはある光景が見えていた。項垂れるアイツに向かって、課長が物凄い剣幕で憤っている。アイツの隣に立ってしくしくと泣いているのは、あれは課長の妻だ。
男は全てを察知した。
アイツはやはり、人に取り入ることしかできない能無しだったのだ。どこか深いところから、笑いすらこみ上げてくる。
ああ、愉快愉快。
大将が男の背後からその項を包丁で貫いた時もなお、男は笑っていた。
「おあいそは、結構で。」
カウンターにどす黒い血の海をつくってとうに事切れている男に向かって、大将は呟いた。
翌晩、路地裏の寿司屋の暖簾を別の男がくぐってやってきた。酔っ払いはだらしなく着崩れた仕事着に開きっぱなしの鞄を引っ掛けている。
「一番安い酒をくれ、金がねぇんだぁ。」
「それはまたどうして。」
「あぁ?賭けだぁ、賭け。負けちまってよぉ。直に一文無しなんだわ、」
酔っ払いはカウンターに荷物をひっくり返すように投げ捨てた。
大将はカウンターの奥で大きな物をまな板に乗せた。よく研がれた包丁は分厚い肉をぶつ切りに切り分ける。すると、赤黒い切り身はたちまち銀色に輝く幾つもの小さな金属球へ変わってしまった。出された茶を床に溢して騒いでいる酔っ払いには目もくれず、大将はまな板の上を転がる球を寿司桶に拾い集めている。
「生憎酒は置いてませんが、こんな寿司はいかがです?」
客に差し出された寿司の上には、光沢のあるパチンコ玉が一つだけ乗っかっていた。
「んだよこれはぁ。さては俺を馬鹿にしてやがんのかぁ?」
完璧に泥酔しているのか、男は皿に掴みかかろうとふらついた足取りで立ち上がる。
「お客さん、金がいるんでしょう。」
「あ?食えば恵んでやるってかぁ?」
酔っ払いはパチンコ玉を摘んで丸呑みしてみせた。
「お見事。」
金属球のぶつかり合う音とともに、男は昼間のパチンコ屋に立っていた。万年負け続きだった男の初めての大勝である。
金だ。金があれば、酒も買える。いいや、もっと必要だ。この金を賭ければ、もっと増やせるではないか!
大将は表情一つ変えず、狭い床に横たわった酔っ払いの身体だったものを持ち上げる。四肢は不自然な方向に折れ曲がり、脊椎が痛々しく逆さに反っている。だらしない笑顔に開いたままの口からは、ばらばらと数十のパチンコ玉がこぼれ落ちた。
今晩も寿司屋の引き戸の磨りガラスからは暖かな灯りが漏れている。今宵もまた、一晩に一人の客がほつれた暖簾をくぐってやってきた。
「いらっしゃいませ。」
カウンターに座った若い男は、落ち着いた笑顔を大将に向けた。
「どうぞ。」
「どうも、ありがとう。」
熱い茶をゆっくりと味わってから、男は微かな笑みを保ったまま口を開いた。
「寿司が、名物と聞きまして。」
大将は何も答えない。今晩の材料は、切り分けた瞬間に空気のように消えてしまっていたのである。まな板の上には濡れて鈍った包丁だけが残っている。
「本当に不思議な店です。一度中を覗いてみたくて、何日も待ちましたよ。」
男はもう一度湯飲みに口をつけてから言った。
「昨日のお客、随分可哀想な姿にしちまいましたね。せめて変なモノに変えられなくて本当に良かった。」
大将はもう一度、まな板の上に残りの材料を乗せた。今度は酔っ払いの腕を肩の肉から切り分ける。しかし、包丁が入った瞬間に肘から下が消えてしまうのだ。
「欲深い愚か者を妙な寿司にしてしまって、毎晩新たな愚か者に食わしているんでしょう。」
男はその様子を覗き込んで面白そうに笑う。
「ほら、私にはそんな愚かな欲は微塵もない。切っても何も出てきやしませんよ。」
大将は包丁を置いてゆっくりと言った。
「嘘を吐いていることくらい、分かるんですよ。」
「滅相もない。」
「ここは、そんな愚か者にしか見つけられない店です。欲がない人間は先ずこんな所に来れもしない。」
男は一瞬顔を強張らせる。
「いいや、私はただ奇妙な店に興味があって入っただけだ。」
「お客さん、あなたは他人の不幸見たさにやってきたんでしょう。それが一番罪深い私欲です。」
「へぇ、人聞きの悪い。」
男の笑顔が歪んで、性の悪い表情が浮かぶ。
「大方そう言えば命が助かるとでも思ったんでしょう?」
「ま、待て、包丁を置いてくれ。」
「安心してください、此方だって悪魔じゃありませんよ。あなたは寿司にしたりなんてしない。願いを存分に叶えてやりましょう。」
大将が言い終わるや否や、引き戸に手をかけた男は腰が抜けたように床に崩れ落ちる。
その身体は禍々しい刃の形へと変形し、男は声にならない声をあげた。
少しすると男だったものは跡形もなく消え、引き戸のそばには一本の包丁が落ちていた。
「丁度新品が必要だったんです。」
大将は誰もいない店で愉快そうに笑った。
翌晩も新たな客が暖簾をくぐって来店する。
「いらっしゃいませ。」
新品の幸せな包丁は、今宵も新たな愚か者の最期を見届ける。