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【2】神に選ばれし夜騎士は、桜の花を吹く
夜の山道を、ユウリとリナは歩いていた。月は雲に隠れ、星だけが彼らの道を照らす。ユウリの左目は赤く輝き、周囲の闇を切り裂くようだった。リナは小さな光の球を手に浮かべ、鼻歌を歌いながら軽やかに進む。
「ねえ、ユウリ」とリナが言った。「桜の書って、いつも持ち歩いてるの? 重くない?」
ユウリは肩に掛けた革の鞄を軽く叩き、無言で前を見据えた。桜の書は彼の使命の証であり、呪いの鍵でもあった。開くたびに左目が疼き、神の声が囁く。だが、その声は最近、曖昧さを増していた。「お前は夜を守る者。だが、夜は全てを隠す……」ユウリは眉をひそめ、その言葉を振り払った。
リナはユウリの横に並び、青い瞳を覗き込んだ。「また考え込んでる! ほら、笑ってよ。夜騎士だって笑っていいよね?」
「笑う理由がない」とユウリはそっけなく答えたが、リナの無邪気さに小さく息を吐いた。「お前、よくそんな気分でいられるな。闇の使徒を追ってるんだろ?」
リナは光の球を宙に投げ、くるりと回って受け止めた。「だって、暗い顔してても闇は消えないもん! それに、ユウリと一緒なら、なんだか怖くないよ」
その言葉に、ユウリの胸が一瞬ざわついた。彼は孤独を選んできた。夜騎士は一人で戦う定めだと信じてきた。だが、リナの存在は、その信念を揺さぶる。
突然、風が止まり、空気が冷えた。ユウリの左目が鋭く光り、彼はリナを背に庇った。「来るぞ」
山道の先に、黒い人影が現れた。男だった。長い灰色の髪を背に流し、片手に白い杖を持つ。顔は仮面で覆われ、目だけが青白く光っていた。「夜騎士、ユウリ」と男が言った。声は低く、まるで地の底から響くよう。「そして、光の娘、リナ。よくここまで来た」
リナが身構えた。「あんた、誰? 闇の使徒?」
男は仮面の下で笑った。「使徒? 否。私はカイル、桜の書の番人だ。だが、神の意志は曖昧だ。夜騎士よ、なぜその目を背負う?」
ユウリは左目を押さえ、疼きを抑えた。「俺の目は俺のものだ。お前の言葉遊びは不要だ」
カイルは杖を振り、地面から黒い桜の木が生えた。木の枝は蛇のように動き、ユウリとリナを絡め取ろうとする。ユウリは桜の書を開き、左目から赤い光を放った。桜の花びらが嵐となり、黒い枝を切り裂く。リナは翼を広げ、光の矢をカイルに放ったが、仮面の男は杖でそれを弾いた。
「ユウリ、気をつけて!」リナが叫ぶ。「こいつ、桜の書を狙ってる!」
カイルの声が響く。「夜騎士の目は、神の誤りだ。桜の書はそれを正す鍵。渡せば、呪いから解放されるぞ」
ユウリの心が揺れた。解放。左目の疼き、終わらぬ戦い、神の曖昧な声――全てから自由になれるのか? だが、彼はリナを一瞥した。彼女の青い瞳は、迷いなく彼を信じていた。
「解放だと?」ユウリは呟き、桜の書を握りしめた。「俺は夜騎士だ。桜を吹く者だ。呪いも使命も、俺が選ぶ」
彼は左目を全開にし、赤い光が夜を焼き尽くすように広がった。桜の嵐がカイルを包み、黒い木々を粉砕した。カイルは仮面を押さえ、後退る。「愚かな……だが、これは始まりにすぎん」と言い残し、霧となって消えた。
戦いの後、ユウリは膝をつき、息を整えた。左目の疼きは収まらず、額に汗が滲む。リナが駆け寄り、彼の肩を支えた。「ユウリ、大丈夫? 無茶しないでよ!」
ユウリは小さく笑った。初めて見せる、ほのかな笑みだった。「お前が言うか。光の矢、派手だったぞ」
リナは頬を膨らませ、「褒めてるの? 照れるじゃん!」と笑った。だが、彼女の目には一抹の不安が宿っていた。「ねえ、ユウリ。あの男、桜の書の番人って……本当かな? 神の意志って、なんなんだろう?」
ユウリは空を見上げた。雲が晴れ、月が姿を現す。「分からない。だが、俺は桜を見続ける。夜を守るため、そして……お前みたいな奴が笑える世界のためだ」
リナの顔がぱっと明るくなり、「やっと夜騎士っぽいこと言った!」と手を叩いた。
夜の湖畔に、ユウリとリナは立っていた。湖面は鏡のように静かで、満月を映し、まるで別の世界を閉じ込めているようだった。ユウリの左目は赤く輝き、湖の水に揺れるその光は、まるで血の涙が落ちた跡のよう。リナは小さな光の球を手に持ち、ユウリの横でそわそわしていた。
「ねえ、ユウリ」とリナが囁いた。「ここ、なんか変な感じしない? 静かすぎるよ」
ユウリは頷き、桜の書を握りしめた。「この湖は『月鏡の湖』。桜の書に記された聖地だ。夜騎士の試練が待つ場所……らしい」
「試練?」リナが首を傾げた。「神様、ほんと厳しいね。夜騎士って、休みなしなの?」
ユウリは小さく息を吐き、苦笑した。「休みか。考えてみたこともない」だが、リナの軽い口調に、彼の心はわずかに和らいだ。彼女の存在は、左目の重い疼きを一瞬忘れさせる。
その時、湖面が波立ち、月光が揺れた。冷たい風が吹き、桜の花びらがどこからともなく舞い落ちる。だが、その花びらは黒く、触れた地面を腐らせた。ユウリの左目が鋭く光り、彼はリナを庇うように前に出た。
「やっぱり来たか」とユウリが呟く。湖の中心から、黒い霧が立ち上り、仮面の男――カイルが姿を現した。彼の杖は青白い炎に包まれ、仮面の目が不気味に輝く。
「夜騎士、ユウリ」とカイルが言った。「月鏡の湖は真実を映す。お前の目はその真実を耐えられるか?」
リナが叫んだ。「またあんた! ユウリを惑わすのやめてよ!」
カイルは低く笑い、杖を振った。湖面が割れ、黒い桜の木々が水から生える。木々の枝は鎖のように動き、ユウリとリナを捕らえようとした。ユウリは桜の書を開き、左目から赤い光を放つ。桜の嵐が巻き起こり、黒い枝を切り裂いた。リナは翼を広げ、光の矢を放つが、カイルはそれを軽々と弾く。
「ユウリ、目を閉じなさい!」カイルの声が響く。「湖は見せる。お前の呪いの真実を!」
ユウリが湖面を見ると、左目が激しく疼いた。視界が歪み、炎に包まれた村が浮かぶ。幼いユウリが泣き叫び、家族が消える。だが、新たな映像が――神の姿なき声が彼に左目を与え、囁く。「お前は私の失敗だ。だが、夜を守れ。さもなくば、桜は全て黒に染まる」
ユウリは膝をつき、頭を抱えた。「失敗だと……? 俺は神の道具なのか?」
リナが駆け寄り、ユウリの腕を掴んだ。「ユウリ、聞かないで! あんたは道具なんかじゃない! 夜騎士だよ! 私の……大事な人だよ!」
その言葉が、ユウリの心に刺さった。リナの青い瞳は揺らぎなく、彼を信じていた。ユウリは立ち上がり、左目を押さえた。「カイル」と彼は言った。「お前の真実は知らん。だが、俺の真実はここにある」彼はリナを一瞥し、桜の書を掲げた。
左目が燃えるように輝き、湖全体が赤い光に染まった。桜の花びらが嵐となり、黒い木々を粉砕し、カイルを包む。カイルは仮面を押さえ、叫んだ。「愚か者め! 真実を知らずに、どこまで抗える!」
ユウリは一歩踏み出し、桜の書から最後の呪文を解き放った。湖面が震え、黒い桜が消滅。カイルの姿は霧と化し、夜に溶けた。だが、彼の声が残る。「夜騎士よ、桜の書は二つある。もう一つを手にすれば、全てが終わる……」
静寂が戻り、湖は再び月を映した。ユウリは息を荒げ、左目の疼きを抑えた。リナが彼の背に手を置き、「ユウリ、すごかったよ……でも、無理しないでね」と囁いた。
ユウリは振り返り、リナの額を軽く叩いた。「お前が言うか。叫びすぎだ」
リナは頬を膨らませ、「ひどい! 心配したのに!」と笑った。だが、彼女の目には涙が光っていた。「ユウリ、さっきの……本当だよ。あんた、大事だから」
ユウリは言葉に詰まり、月を見上げた。「……感謝する、リナ。俺も、お前を失いたくない」
二人は湖畔を後にした。桜の書はまだ重い。左目は赤く燃える。カイルの言葉――「もう一つの桜の書」――がユウリの心に影を落とす。だが、リナの笑顔が、その影をわずかに薄めた。
次の夜が来る。桜が咲くまで、ユウリの戦いは続く。