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第1話 約束の桜、降ってきた旦那様 (前編)
けふ☘️
春の柔らかな陽光が、橘(たちばな)神社の境内に格子状の影を落としていた。
高校生である橘 和(なごみ)の日常は、いつも静かだ。生まれつき声帯に異常はないものの、彼女は言葉を喋ることができない。けれど、その不自由さを憂う暇がないほど、和の毎日は小さな感情の動きで忙しかった。
「――っ、――」
声にならない息を漏らしながら、和は竹ほうきを両手で握り、一生懸命に境内を掃いていた。
ひらひらと、薄ピンク色の花びらが視界を過る。神社の象徴である、樹齢千年の大きな御神木――しだれ桜が、今年も見事な満開を迎えていた。
和はほうきを止め、ふっと息をついて桜を見上げた。言葉は出なくとも、その瞳は(綺麗だなあ)と絶賛するようきらきらと輝き、自然と口元が緩む。彼女の感情は、その愛らしい顔立ちと体全体にピョコピョコと溢れ出るため、周囲からは「無口だけど一番賑やかでお手伝い上手な子」として可愛がられていた。
その時、頭上からカサリ、と不自然な枝の鳴る音がした。
(え?)
和が不思議に思ってさらに視線を上げると、満開の桜の枝の間に、一人の「人影」が座っているのが見えた。
風にひらひらと揺れるのは、現代の衣服ではない。上品な薄墨色の和服。そして何より目を引いたのは、陽光を浴びてきらめく、この世のものとは思えないほど美しい顔立ちの青年だった。切れ長の妖艶な瞳が、まっすぐに和を捉えている。
驚きのあまり、和の思考は完全にフリーズした。
ぽろり、と手から竹ほうきが落ちる。
和は両目を限界まで丸くし、短い悲鳴の代わりに口をあわあわと動かしながら、パタパタと数歩後ろへ足をもつれさせた。まさに小動物が天敵に遭遇した時のような、完璧なリアクションである。
それを見た青年は、形の良い唇を三日月のように歪めてニタッと笑った。
「おっと、危ない」
青年は枝からふわりと飛び降りた。驚くべきことに、数メートルの高さがあるというのに、彼は重力を無視したかのように音もなく和の目の前に着地したのだ。
風が、彼の纏う古い桜の香りを和の鼻腔へと運ぶ。
あまりの至近距離に和が息を呑むと、青年はさらに一歩踏み込み、和の顔を覗き込むようにして、おちゃめに微笑んだ。
「やあ、やっと見つけた。約束通り迎えに来たよ、僕の可愛いお嫁さん」
((お、お嫁さん――!?))
和の頭の上に、巨大なハテナマークが飛び出た。
自称・旦那様のあまりに突飛なセリフに、和の顔は一瞬で耳の裏まで真っ赤に染まる。
和は猛烈に慌て、両手を「ノンノン!」とちぎれんばかりにブンブン振り、全力で首を横に振って拒絶の意思を表した。(私はあなたのお嫁さんじゃありません!)と、全身から湯気が出そうなほどのボディーランゲージである。
しかし、青年はまったく怯まない。それどころか、和の抵抗を予測していたかのようにくすくすと楽しげに笑うと、電光石火の手つきで和の細い腰をグッと抱き寄せた。
「ひゃいっ……」
もちろん声は出ないが、完全に縮み上がった和の体が千歳の胸に収まる。
「だーめ、拒否権はないよ。だって君の魂、千年前から僕のものだって言ってるもん。あ、声が出ないんだね。いいよ、僕が全部通訳してあげる。……今、僕に抱きしめられて心臓バクバクで照れてるでしょ?」
「――!? ――っ!」
和は(違う、驚いただけ!)と言いたげに、ぷくーと限界まで頬を膨らませると、千歳の胸を小さな拳でポカポカと叩いた。しかし千歳にとっては痛くも痒くもないようで、「うんうん、可愛いねえ」と満足げに和の頭を撫で回す。
「これこれ、和ちゃんに何をする!」
そこへ、定期的に一人暮らしの和の様子を見に来てくれる親戚の神主の叔父さんが、大声を上げて通りかかった。
和は「助かった!」とばかりに千歳の手をすり抜け、叔父さんの背中へサッと隠れた。そして叔父さんの服の裾をぎゅっと握りしめながら、千歳を「じーっ」と警戒する目で睨みつけた。
だが、千歳という怪異は、スパダリとしての立ち回りも完璧だった。
「お初にお目に掛かります、神主さん。僕は千歳(ちとせ)。こちらの神社に古くから縁ある者でして、今日から和さんの『護衛兼・家政夫』として同居させていただくことになりました」
千歳はパッと爽やかな営業スマイルに切り替えると、どこから取り出したのか、誰もが知る最高級ブランドの菓子折りと、一目で本物とわかる古めかしい巻物を叔父さんに差し出した。それは、この神社の失われた歴史を記した神聖な縁起物だった。
千歳から放たれる圧倒的な美貌と、怪異特有の不思議な説得力(軽い暗示の術)、そして完璧な貢ぎ物に、叔父さんは一瞬で目を眩ませた。
「おぉ……! これは紛れもなく我が社の家宝……! そうか、和ちゃんにそんな頼もしい味方が! いやあ、和ちゃんは一人暮らしで心配だったんだ。よろしく頼むよ、千歳くん!」
「ええ、命に代えても守りますよ」
爽やかに頭を下げる千歳。
その背後で、和は(えええええーーーっ!?)と口をあんぐりと開けたまま、石のようにフリーズしていた。