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🌙2話 『涙のコンソメスープ』
春が終わる直前の、肌寒い夜だった。
街の灯りが雨に滲み、傘の骨がかすかに風を鳴らす。
|木下環《きのした たまき》は、制服のスカートを濡らしながら歩いていた。
手には花束。水色の包装紙はよれ、リボンの端がほどけている。
足取りは重く、進む方向さえあやふやだった。
彼女は今日、大切な人を見送った。
「優斗くんはさ、なんでもないことに笑える人だった」
通夜の席で、環はそう口にしていた。
中学の頃からずっと一緒にいた。高校に入ってからは少し距離ができたけれど、たまに話すだけで、安心できる存在だった。
その優斗が、突然いなくなった。事故だった。交差点で、ほんの少し、タイミングがずれただけ。
「なんで、そんなことになるの……」
誰かにぶつけたい気持ちはあった。でも、怒りをぶつける相手も、どこにもいなかった。
だから環は、逃げるようにして家を出た。足が向かう先など、わからなかった。
ふと、雨のカーテンの向こうに、ぼんやりと明かりが見えた。
くすんだ木の扉と、丸い提灯。そこに揺れる墨文字。
月影亭。
その名を見たとき、なぜか「ここに入らなきゃ」と思った。
思考より先に、心が動いた。
引戸を開けると、しんと静かな空気が流れていた。
カウンター席に腰をおろすと、奥から例の女性が姿を見せる。淡いグレーのエプロンに、落ち着いた微笑み。
「いらっしゃい。……少し、濡れてしまったのね」
環はこくりと頷き、言葉を返さなかった。
「今日は、涙が多かった日かしら。……なら、ぴったりのものがあるわ」
女性はそれだけ言って、すっと厨房の奥へと引っ込んだ。
数分後、銀色のスープ皿が目の前に置かれる。
湯気が立ち上り、カウンターにやわらかな香りが広がった。
「コンソメスープよ。ただのスープだけど、いちばん大切な出汁だけで作ってあるの。……泣いた日の、おくすり」
透き通った琥珀色のスープは、見るだけで胸が温かくなる気がした。
レンゲですくって口に運ぶと、深い旨味が舌に染み込み、のどを優しく通り抜けていく。
塩気が強すぎず、けれどちゃんと「味」がある。
それはまるで、話を聞くだけで何も言わない、優斗みたいだった。
「……優斗くんって、なんであんなに穏やかだったんですかね」
ぽつりとこぼすと、女性は黙って隣に腰を下ろした。
「おそらく彼は、自分の中に"静けさ"を持っていたんでしょうね。周囲に振り回されない、芯のある人は、静かになれるのよ」
環は唇を噛んだ。
「私、いつも焦ってばかりで。こんなに悲しくて、さみしくて……このまま何も変わらなかったらどうしようって」
「悲しみは、味になるわよ」
「え?」
「出汁ってね、簡単に取れそうで、一番難しいの。焦ったら濁るし、強すぎても弱すぎても、すぐバランスが崩れる。でも……」
女性はスープをそっと見つめながら言った。
「静かに、ていねいに煮出せば、ちゃんと澄んだ味になるの」
気づけば、スープは空になっていた。
涙が止まっていたことに、環はあとから気づいた。
帰り際、彼女はしわの寄った花束を抱き直して言った。
「……ちゃんと、渡してきます。明日、遅くなったけど、渡すから」
女性はにこりと笑った。
「その花も、あの子に届きますように」
扉を開けると、雨はもう止んでいた。
さっぎで見えなかった星が、いくつかきらきらと瞬いている。
月影亭の看板は、もうどこにもなかったけれど、環の手の中には、スープの香りが残っていた。
そして、ポケットには紙切れが一枚。
涙を澄ませば、想いは届く。
あの人の笑顔のように、静かな味になるから。
環はもう一度、空を見上げて歩き出した。
その足取りは、来たときよりずっと軽かった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第二話『涙のコンソメスープ』は、大切な人を失った少女・環の心が、一皿のスープによって少しだけやわらいでいく、そんな物語でした。
人は、突然の別れにどう向き合えばいいのか、正解なんて分かりません。それでも、自分の中に残った「想い」をゆっくり澄ませていくことで、少しずつ前に進めるのかもしれない――そんな願いをこめて書きました。
このお話が、読んでくださった方の心に、少しでも静かな温かさを残せていたら嬉しいです。
次回は、また別の誰かが、月影亭の扉を開きます。
どうぞお楽しみに。