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健気な贈り物
健気で残酷な優しさ
十九世紀の終わり、煤と霧が街の輪郭を曖昧にしていたころ。
私は急に世界が滲むようになった。
文字は溶け、街灯の輪郭は月光に掻き消され、
鏡の中の自分の顔さえ、他人のもののように遠い。
老いの始まりだと医者は言ったが、昼しか知らぬ彼の言葉は、
夜に棲む者の沈黙を知らなかった。
その夜、私は吸血鬼に、ぽつりと漏らしたのだ。
「最近、目が見えづらくてね」と。
深い赤の外套に身を包み、礼儀正しく、
しかしどこか人の世から半歩ずれた彼は、私の言葉に一瞬だけ眉を寄せた。
理解したのか、あるいは理解しようとしたのか、
その違いは私にも分からなかった。
翌晩、彼は約束の時間より早く訪ねてきた。
外套の裾は濡れ、手には大きな麻袋を抱えている。
重そうだった。
中身が動いた気配はないのに、袋そのものがひどく疲れているように見えた。
「君に、渡したいものがある」
そう言って、彼は袋の口を解いた。
最初に現れたのは、白髪の老人の生首だった。
次に、皺深い女の顔、見開いたままの目、乾ききらない血の跡。
彼は丁寧に、一つひとつを床に並べていく。
まるで果物でも扱うかのように。
私は声を失い、足が床に縫い止められたように動かなかった。
「どうして、、?」
やっと絞り出した私の声は、霧より薄かった。
「君の目が悪いと聞いたから」
彼は恐ろしいほどに真剣だった。
「この中に、君に合う眼鏡があればと思って」
理解するまで、時間がかかった。
彼は昼の世界を知らない。
眼鏡が店で売られていることも、視力が人それぞれ違うことも、
そもそも生首から目玉を捕るという発想自体が、どれほど狂気じみているか。
「夜の老人たちは、皆、似たような顔をしている。」
「ならば、目も似ているだろう?」
そう言って、彼は一つの頭部から|眼鏡《眼球》を外し、私に差し出した。
爪で抓んだため少し歪んでいる。
私はそれを受け取れなかった。
受け取るという行為そのものが、何か決定的な一線を越えるように思えたのだ。
「君が困っていると思った。それだけだ」
彼は言い訳をしなかった。
後悔も、誇りもなかった。
ただ、役に立ちたかったという感情だけが、そこにあった。
私は気づけば、泣いていた。
恐怖でも嫌悪でもない。
あまりにも不器用で、あまりにも残酷な善意に、胸の奥が裂けそうなのだ。
彼は人間を殺す。
だが、それが悪だと知るための昼を、一度も生きていない。
「ありがとう。でも、もういいんだ。」
私がそう言うと、彼は少し困った顔をした。
老人の生首たちが、床の上で静かにこちらを見ている。
彼らはもう、話すことも、太陽の光を浴びることもできない。
ただ、彼の無知で健気な優しさの証拠として、そこにいる。
彼は袋を閉じ、外套を翻した。
「また、何か困ったことがあれば言ってほしい」
そう言い残して、夜に溶けるようにして消え去った。
翌朝、私は眼鏡屋で新しい眼鏡を買った。
世界は驚くほど鮮明だった。
街灯も、文字も、自分の顔も。
だが、あの夜の闇だけは、どんな眼鏡を通しても、
はっきりと見えてしまう。