公開中
戻れない日常
短編カフェ2周年記念作品。
目の前で、さっきまで笑いながら一緒に歩いていた人が倒れた。
「――――ぁ」
溢れる血。それは、あっという間に地面に赤い水溜まりを作り上げた。
それを為した狼の魔獣は、既に道の遠くに見えるのみとなっている。
すぐ側にいた少年の履物が赤く染まった。
助けなきゃ。
そう思って手を伸ばしても、ただ水面を叩くだけで。
「――――ぁ、ぁあ」
この出血では、もう助からない。
そう、頭の冷静な部分が告げてくる。
遠くに、子供の――幼い妹の泣き声が聞こえた。
すぐ側にいるはずなのに。
父の傷口を押さえた。
全身の熱がそこから出ているのではないかというぐらい熱かった。
母の手を握った。
さっきまで握っていたそれは、信じられないくらい冷たかった。
異変に気がついた村の人たちが集まってくる。
運良く、この村には治癒魔法を使える人がいた。
その人が両親と向き合う中、少年は近くの大人に抱かれる形で両親から目を背けさせられる。
「ぁぁあ、ぁぁぁぁあ!」
少年は、どこまでも無力だった。
そうして、どれだけの時間叫んでいただろうか。
いつの間にか、治癒魔法を使った治療が終わっていたらしい。
彼がこちらにやってきて、首を力なく――横に、振った。
そして、口を開く。
嫌だ。聞きたくない。
耳をふさぎたい。
しかし、少年の手が動くことはない。
その耳ではっきり聞くまでは、両親の死を信じようと思っていなかったから。
たとえ結果が見え切ったものだったとしても、つきっきりで両親の治療にあたってくれた人の口から事実を聞きたかった。
「申し訳ありません。力及ばず……お亡くなりになられました」
オナクナリニナラレマシタ。
言葉の意味が理解できない。脳が理解するのを拒絶している。
理解できないのに、感情が塗り替わっていく。
心配から、悲しみへ。そして、悲しみから、身を焦がす大きな怒りへと。
「ぁぁぁああぁぁあ!!」
――この日、少年――モルズは両親を失った。
◆
「ん……」
あの日の夢を見た。
あれから十年は経つが、未だに毎日この夢を見る。
未だ眠気で意識が朦朧とする中、モルズは枕元の短剣を手の感覚だけで探し当てた。
柄に染み込んだ血のにおい。
それにより、モルズの意識は即座に覚醒する。
あの後、モルズの妹――リーンは村の孤児院に入った。そこに入れば、少なくとも食べるものには困らないから。
モルズは入らなかった。リーンにはできるだけたくさん食べてほしかったから。人が増えれば増えるほど、一人当たりの食事の量は減ることになる。
依頼人の顔と仕事内容を思い出しながら、モルズは天幕の外に出た。
今のモルズは傭兵。どれだけ嫌な気分だろうと、今できる最高のパフォーマンスで仕事しなければならない。
「おはよう」
モルズは同じように雇われている他の傭兵に挨拶する。必要以上に仲を深めてはいけない。だが、傭兵同士で連携を取れるようある程度のコミュニケーションは必要だ。
特に、今回の依頼は護衛依頼。より連携を求められる依頼だ。
「よぉ」
ダウニはモルズに挨拶を返してくれた。デアは反応なしか。
「貴方たち、もう出発時間になるわよ」
デアの言葉にモルズが慌てて空を見れば、なるほど確かにそうだ。もう太陽がかなり高くまで昇っている。
挨拶をして、などとゆっくりしている場合ではなかった。すぐに所定の配置につかなければ。
「お、そうだな。教えてくれてありがとよ」
急いでいても礼は忘れない。人として当然のことであり、信頼に関わる部分だからだ。
モルズは護衛対象の商隊の後ろの方へ、ダウニとデアは前の方へついた。モルズは後ろの見張り兼荷物の護衛、ダウニとデアは商人の護衛。
正直言って、この仕事で戦うことはほとんどない。通るのは人通りの多い街道で、盗賊も魔獣も見つけ次第殺されているのだから。
そうは言えど、油断して依頼失敗となるのはまずい。
報酬がもらえないからではない。違約金を払わなければならないからでもない。
信用が落ちるからだ。信用が落ちれば割の良い依頼を受けることができなくなり、稼ぎが落ちる。そうなれば後は負の連鎖だ。
「くあぁ〜」
荷台の後ろに乗ったモルズは、その場で大きく伸びをする。体の隅々までしっかりとほぐれ、モルズはなんとも言えない気持ちよさを感じていた。
荷物に背をもたれたモルズは、腕を組んであたりを見回す。短剣も腰にぶら下げ、襲いかかられたときは躊躇なくこれを使うつもりだ。まともな人間なら、血のこびりついた短剣を腰に下げた人間が乗る馬車を襲うことはなかろう。それでも襲いかかってくるのは、知能のない魔獣か盗賊だけだ。
「平和だな」
俺がこうして暇してられるのは良いことだ、とモルズは呟く。
だが、それでも警戒は怠らず、時折周囲の動物が立てる物音に反応し、短剣の柄に手を運んでいた。その物音が害のない動物によるものだと分かると、即座に手を離すところまでが一セットだったが。
そんなモルズだからこそ、気づけた。
「――――っ」
森の方の茂みががさがさと音を立て、その原因がモルズの方へ近づいてくる。
狼の魔獣。その赤い瞳がモルズの姿を映した瞬間、魔獣はモルズへ飛びかかった。
モルズは短剣の柄に手を当て、そのまま抜剣。一閃し、魔獣の胴体を半ばまで断ち切った。
失速する魔獣。遥か後方に流れていくその亡骸を見ながら、モルズは呟いた。
「『血狼』か」
血狼。
狼の姿形をした魔獣であるそれは、普通の魔獣とは一線を画した性質を持っている。
他に類を見ないほどの凶暴性だ。血狼は格上の魔獣であっても果敢に挑むし、他の魔獣なら見逃してしまうほどの弱者も皆殺しにする。
普通の大人であれば四体に囲まれただけで生還は絶望的だし、傭兵であっても十体ほどの群れに囲まれれば生存は絶望的だった。
奴らは、血のような赤い瞳と自らの血や返り血で赤く濡れた毛皮を持つことから、血狼と呼ばれる。
「これは報告に行くべきか、それともまだ警戒を続けるべきか」
ここでモルズが報告するために前に行けば、最後尾の護衛がいなくなる。もしその間に襲撃を受ければ、運んでいる商品が被害を受けるだろう。
血狼。狼と同じように群れるため、一匹いれば五匹、十匹はいると思って良い。
しばらくその場に立っていたモルズだったが、この場に留まることを決め、再び荷物に背を預けた。
他の個体が襲いかかってこないとも限らない。
ここまでの道程で、ダウニとデアはモルズと同じぐらいの腕を持つ傭兵だと分かっている。あの二人なら、血狼に遅れを取ることもあるまい。
「マジか」
モルズの判断が正しかったのか確認する時間が来た。
常人ならば立っていることさえままならない揺れから解放される。それは、先頭の馬車の停止を意味していた。
商隊を取り囲むように展開する血狼の群れ。それは数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどで、ざっと見ても五十以上はいるだろう。そして、今も後ろからその数を増やし続けている。
真っ先に飛び出した二つの人影は、ダウニとデアだろう。一瞬遅れてモルズも飛び出す。
商人たちは、緊急事態に備えてあらかじめ決めておいた行動指針通りに先頭の車両に集まっているだろう。残念だが、荷物の方は諦めてもらうしかない。
抜剣し、一閃。
着地する前に、まずは一匹。
早くも、ダウニとデアは互いの背中を守り合いながら血狼と相対している。
一対五十。ともすれば、それ以上の差。
そんな多勢に無勢の状況下で、このまま一人で戦い続けるのはあまりにも無謀だ。せめて合流して三対五十に持ち込まなければ。
それでも多勢に無勢、勝利の望みは薄いと言わざるを得ないが。
すれ違いざまに一閃。顔面を蹴り飛ばす。身を低くして飛びかかりを躱す。剣の腹で殴り飛ばす。剣を持っていない方の手で下顎をかち上げた。意識を飛ばした個体を投げ、他の個体にぶつける。噛みつきをすり抜けた。
ありとあらゆる方法を尽くし、モルズはダウニとデアの方へ向かう。
背後からの襲撃に警戒しながら、ゆっくりダウニとデアに近寄っていく。二人の連携の邪魔になるようなことになってはいけない。