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第8話:静寂の夜と、解けない魔法
病室の窓の外は、深い群青色に染まっていた。
遠くで救急車のサイレンが鳴り、規則正しい心電図のモニター音だけが、この部屋に命が繋ぎ止められていることを証明している。
「……遥、こっちおいで」
湊の声は、もう掠れて聞き取りにくい。それでも、私を呼ぶその響きだけは、二十代の頃から少しも変わらない、落ち着いた温かさを持っていた。
私は彼のベッドの脇に椅子を寄せ、力なく横たわる彼の手を両手で包み込んだ。
「湊、ここにいるよ」
「ごめんね、最後まで、とことん甘やかすって約束したのに……。先に、疲れちゃったみたいだ」
湊は申し訳なさそうに、眉を下げて笑った。その顔を見て、私はたまらなく愛おしさと悔しさが込み上げてくる。
「謝らないで。湊は十分すぎるくらい、私を幸せにしてくれたよ。……ねえ、湊。一つだけ、お願いがあるの」
「ん? なあに」
「……もし、またどこかで会えたら。その時は、一番に私を見つけて。そして、また『のり塩』のポテチ、一緒に食べてくれる?」
私の突拍子もない願いに、湊は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。けれどすぐに、ふふっと喉を鳴らして笑う。
「……なんだよそれ。簡単すぎるよ。……約束。絶対、見つけるから」
湊は、もう動かすのもやっとのはずの指を、わずかに曲げて私の小指に絡めた。
あの結婚式の日のバルコニーで交わした、指切り。
「遥。……愛してるよ。……おやすみ」
湊の瞳が、ゆっくりと、深い眠りに落ちるように閉じられていく。
握りしめた手のひらから、みるみるうちに熱が逃げていくのがわかった。
「湊……? 湊! 起きてよ、湊!!」
叫んでも、彼はもう、私の頭を撫でてはくれない。
モニターの音が、一本の長い線になって、部屋中に響き渡る。
その瞬間、病室の壁が、天井が、足元の床までもが、砂の城が崩れるようにサラサラと音を立てて崩れ始めた。
窓の外に見えていた|槐《えんじゅ》の木も、真っ暗な闇の中に飲み込まれていく。
「嫌だ、まだ……! まだ行かないで、湊!!」
私は、消えていく彼の幻を必死に追いかけ、深い、深い、暗闇の底へと真っ逆さまに落ちていった。
🔚